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■美徳でも悪徳でもない欲求とは

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バーナード・マンデヴィル『新訳 続・蜂の寓話 私悪は公益なり』鈴木信雄訳、日本経済評論社    鈴木信雄さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、マンデヴィルの『続・蜂の寓話』の新訳です。以前の翻訳も比較的新しい訳だったと思うのですが、さらに研究が進んで、 21 世紀にこのように新訳で読めるようになったことを、心よりお祝い申し上げます。  本書の訳者解説は、主としてマンデヴィルとアダム・スミスの比較に充てられています。明快で、情熱的な文章だと思いました。  スミスは、マンデヴィルの良質的な部分を継承した、といえるのですね。マンデヴィルは、個人にとっての悪徳(虚栄を求める欲望)が結果として公益につながる、と指摘しました。だから人間は悪徳人でかまわないし、悪徳を発揮したほうが、社会はかえってよくなる、と発想しました。マンデヴィルにとって、美徳を求める心は、腹黒いものだとされました。しかしスミスは、美徳への愛は、純粋に愛すべきものだというのですね。賞賛されたいとか、承認されたいという欲望は、腹黒いものではなく、すばらしい情欲であり、尊い情欲だ、というのですね。  正確に言えば、スミスは、賞賛欲や承認欲にはいろいろあって、虚栄心 = 悪徳によるものもあれば、美徳によるものもある、と考えました。マンデヴィルのように単純に悪徳だ、とみなしえないと考えたのですね。  すると、二つ検討すべき点があると思います。  一つは、悪徳に基づく賞賛欲・承認欲と、美徳に基づく賞賛欲・承認欲の、いずれを鼓舞した方が、社会はいっそう繁栄するのか、という問題です。スミスの『道徳感情論』を、『国富論』のテーマにつなげて読むと、どんな追加考察を得ることができるのか。  もう一つは、悪徳でも美徳でもない賞賛欲・承認欲というものがあるはずで、むしろそのような、「悪徳や美徳に還元されない人間の欲求」、あるいは人間を突き動かす動力こそ、社会の繁栄にとって重要なのではないか、という論点です。  私が拙著『自生化主義』その他で考察しているのは、この悪徳でも美徳でもない欲求についてです。これは従来の道徳論では、うまく主題化できていないようにみえます。このような観点から、マンデヴィルを読みなおしてみようと思いました。