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■ロールズは事後的再分配ではなく事前の介入を正当化した

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  齋藤純一 / 谷澤正嗣『公共哲学入門 自由と複数性のある社会のために』 NHK 出版   齋藤純一さま、谷澤正嗣さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ロールズは、『正義論』ではリベラリズムという言葉をほとんど使っていないのですね。ロールズは自分の立場を古典的リベラリズムと区別して「民主的な平等」と呼んだ。このロールズの立場は、一般に、社会民主主義と福祉国家を正当化したものとみなされましたが、これは必ずしも正確ではないのだと。  例えばロールズは、アファーマティヴ・アクションを正当化するよりも、そのような政策が不要なほど、教育の機会が平等な社会を追求する。また、たんに所得の再分配を求めるのではなく、最も不利な人々の「生の見通し全体」が改善するように要求する。つまりロールズは、「事後的な救済」ではなく、「事前の(段階での富と人的資本と資本の)分散」が必要だと考えたのですね。 そのための具体的な政策を検討すると、例えば、相続税や資産税の強化や、教育や職業訓練の強化になるのですね。しかし「生の見通しを改善」するためには、毎年、事後的に再分配することも必要でしょう。事前の救済を理想的な仕方で実現することは難しいからです。 ロールズは、「財産所有民主主義」を望ましいと考えました。これのビジョンは例えば、生産手段の共有(協同組合的な所有)を一つの理想としています。ロールズの財産所有民主主義を具体化する制度は、他にもあるのでしょう。例えば、社員がすべて株を所有して、その株を退職するときまで売ることができない、といった仕組みです。しかしロールズは具合的な検討をほとんどしていないので、あいまいなのですね。 ロールズの思想から、何らかの実行可能な政策を引き出そうとすると、結局、何らかの福祉国家政策になるでしょう。ロールズから一貫した仕方で資本主義に対抗する財産所有民主主義のビジョンを引き出すことは難しいと思いました。これは私の想像力が欠如しているからかもしれません。 新しい連帯のための政策 (189) は、「事後的補償から事前の保障へ」「格差の再生産を止める」「パターナリズムからの脱却」「現物給付の拡大」「労働中心主義を超えて」という五つの理念(スローガン)にまとめられています。具体的には、積極的労働市場政策、当初分配、ベーシック・イン

■保守主義者の部屋はきれい。進歩主義者の部屋は雑然としている。

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    伊藤隆太編『国際政治と進化政治学』芙蓉書房出版   伊藤隆太様、蔵研也様、ご恵存賜り、ありがとうございました。    カイメンなどの原生動物、ハチやアリなどの社会性昆虫、ハダカネズミのような哺乳類、などにおいては、特定の上位個体しか、生殖活動を行わないのですね。そしてこのような特性を、「真社会性 (eusociality) 」というのですね。集団が「超個体」として繁殖する戦略です。こうした戦略は、多くみられる。 (80-81)  もう一つ、   John T. Jost, Aaron C. Kay and Hulda Thorisdottir (2009) Social and Psychological Bases of Ideology and System Justification, Oxford University Press.  このジョストの本が紹介されていますが、そのなかで、「保守主義」と「進歩主義」の説明は面白いですね。  「保守主義者は明るく整理された部屋に国旗を飾り、単純化された世界観を好む。また感染症の危険を重視し、消毒用アルコールを持っている。そして彼らは死の観念を意識することが多く、進歩主義者よりも死を恐れている。・・・これに対して進歩主義者は雑然とした本の多い部屋で暮らし、複雑さ、多様さをそのまま肯定しようとする。壁には世界地図をはり、世界を旅して、各種の異なった音楽を聴く。これらの嗜好は、世界は平和が原則である、そして多様性の満ちた興味深いものであり、探求・探検に値するというヒッピー的な認識に起因すると考えられる。」 (123)  こうしたイデオロギー対立は、生理的レベル、神経機能のレベルで生じている可能性があり、その遺伝率は 0.3 ~ 0.6 程度だというのですね。保守主義と進歩主義の生理学的な対立が明確であれば、二大政党制による民主的な統治が可能であり、望ましいでしょう。しかし遺伝子レベルで、もしこの二つの間にさまざまなバリエーションがあるとすれば、どうでしょう。多党制がふさわしいでしょうか。もっと知りたくなりました。  

■イギリスの労働党が政権をとれない理由

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    ポール・コリアー / ジョン・ケイ『強欲資本主義は死んだ』池本幸生 / 栗林寛幸訳、勁草書房   池本幸生さま、栗林寛幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ポール・コリアーは前著『新・資本主義論』で、自身の政策ビジョンを魅力的に描きました。今回はジョン・ケイとの共著で、イギリス労働党の進むべき道を分かりやすく説明しています。 ジョン・ケイは、『世界最強のエコノミストが教える お金を増やす一番知的なやり方』などの邦訳もあるエコノミストですが、今回の共著で、経済学批判とコミュニタリアニズムの考えを明確にしています。  それにしても、イギリス労働党は、 21 世紀になって、ブレア政権以降は、政権をとれていませんね。どうしてでしょうか。本書の分析によれば、もはや人々は、所得によって支持政党を選ぶわけではなく、支持政党を決める要因として、年齢と教育水準が重要になっている、ということなのですね。   18 歳から 24 歳までの若者は、労働党を支持する傾向がある。保守党支持者よりも労働党支持者のほうが、 35% も高い。しかし、 70 代以上の人は保守党を支持する傾向がある。保守党支持者は、労働党支持者よりも、 53% も上回っている。 そしてまた、両党の支持率が等しくなるのは、 39 歳なのですね。  高齢者が保守党に投票するので、労働党は政権をとることができない。 他方で、大学を卒業した人は、労働党を支持する傾向があるのですね。最近では人口の半分が大学に進学するようになった。ということは、このまま大学に進学する人が増えれば、将来、労働党が政権をとれる可能性はありますね。  いずれにせよ、いま、人々の投票傾向が流動的で、ポピュリズムの政権が台頭する余地がある、ということですね。流動化した人々の投票傾向を、どのように受け止めて、二大政党制のシステムを実質化するのか。  本書のビジョンは明快です。個人主義に抗する地域分権型のコミュニタリアニズムです。強欲 (greed) に反対する倫理経済、また、権威主義的な企業組織に反対する分権的な企業組織、などが示されます。  

■くじ引きで議員を選んではどうでしょう

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    瀧川裕英編『くじ引きしませんか ?  デモクラシーからサバイバルまで』信山社   瀧川裕英さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    くじ引きで議員を選ぶ制度を、一定割合で導入してみようというわけですね。 立候補した人に対する投票と、くじで選ばれた人に対する投票の、二つの方法を混合する。これは、民主主義の活性化につながるかもしれません。 立候補に基づく投票だけだと、議員としてふさわしい人が立候補しない可能性があります。誰が議員として適任なのか。一つには、推薦制度を設ける方法がありますね。これは考察に値します。 もう一つはくじ引きですね。くじ引きには、二つの方法があります。 一つは、投票者が、投票用紙に、議員になってほしい人の名前を書く。有権者であれば、誰でもいい。そして投票箱のなかから、くじで一名を選ぶ、という方法ですね。これは「事後的なくじ」です。 もう一つは、まずくじ引きで、立候補者を立てる。そして人々は、その候補者のなかから一人を選んで投票する。これは「事前くじ」ですね。立候補の段階でくじにする。 後者の方が望ましいとは思いますが、この他にも、くじで候補者を推薦する、そして立候補のための費用を負担する、さらに選挙演説などの支援をする、という方法もあります。 あるいはまた、人々がまず推薦して、推薦された人が立候補する。そこからくじで決める、という方法もあるでしょう。この場合、政府は推薦を促すために、一定の制度設計をする。推薦で立候補した人は、落選してもそれほど打撃を受けないように、くじで決めることにする。このようにして、落選することの心理的リスク(あるいはプライドの毀損)を防ぐことができれば、くじ引きによる投票は、機能するかもしれません。 問題は、くじ引きだと、次の選挙で当選する見込みが不確実なため、議員になった人は、必死に業績を上げるようなことはしない、ということでしょうか。つまり、議員として働くインセンティヴが生まれず、説明責任を果たすインセンティヴも低下するでしょう。 そのために、もし議員をつづけたい場合は、次の選挙で立候補できるようにする。一定の業績があれば、議員をつづけられる可能性が高くなりますので、これは一つのインセンティヴになるでしょう。 そのようなことを考えてみました。

■自由論のフロンティア:最小結婚制度

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    植村恒一郎ほか『結婚の自由 「最小結婚」から考える』白澤社   阪井裕一郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    「最小結婚」というのは、「性愛規範性 (amatonormativity) 」を含まない、倫理的にみて最も薄いレベルで可能な結婚の制度という意味なのですね。例えば、排他的に愛し合う性愛関係を前提としない家族形態です。最小結婚には、さまざまな形態の家族があるのでしょう。  これとは別に、そもそも政府が結婚を認めるという、婚姻制度を廃止した方がいい、という主張もあります。婚姻は、政府が認めるのではなく、各種の団体が認めることにする。そのようなアナーキーで複数の制度を認めたほうがいい、という主張ですね。  もし婚姻が、政府が認めなくても、いろいろな団体が認めるようになるとすれば、その承認の在り方を、法的に調整する必要がありますね。すると結局のところ、婚姻に対して政府が介入しなければならなくなる。だから「最小結婚」を制度化した方がいい、ということでしょうか。  最小結婚を認める際の論点は、同性婚はもとより、複数婚ですね。これを認めるかどうか。例えば 1,000 人で結婚するという宗教団体が現れたとして、これを認めると、どのような社会になるでしょうか。興味深いです。結婚の自由について考えるきっかけになりました。  

■健康推進政策を正当化できない理由

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    玉手慎太郎『公衆衛生の倫理学』筑摩選書   玉手慎太郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   肥満はよくない、健康が望ましい。だからといって、健康のためにどんな社会政策でも正当化できる、ということにはなりません。本書はその理由を四つに整理しています。 一つは、過剰な介入になるということ。健康になることと、介入されることのあいだには、トレードオフがあります。介入されるくらいなら不健康のまま生きたい、という人もいるでしょう。 ( 介入は、介入してほしいという意思をもった人に限定できればいいのでしょうけれども。 )  第二に、健康のための政策は、その目的が、別のところにあるかもしれません。政治的に利用されてしまう可能性ですね。  第三の理由は、アンビバレント、つまりどちらにも解釈できると思いましたが、「健康は自己責任だ」という倫理は、健康のための政府介入を最小限にする。これに対して「政府は人々の健康を配慮すべきだ」という倫理は、政府介入を求めます。しかしかりに政府が健康政策を推進しなくても、周囲の人々は他者の健康を配慮すべきである、という共同体の倫理は、残るかもしれません。  第四の理由も、同じようにアンビバレントだと思いました。健康は自己責任だ、という倫理は、不健康な人に烙印(スティグマ)を押すことになるでしょう。しかしこのスティグマは、政府があまり介入しなくても、社会的に生じるでしょう。

■ピーター・バーガーの理論と思想

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    池田直樹『ピーター・ L ・バーガー 分極化するアメリカ社会と対峙した社会学者』ナカニシヤ出版   池田直樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    この本のテーマは、とてもいいですね。博士論文を元に修正を加えたものだということですが、社会学者バーガーの社会理論、「リアリティの社会的構成」という社会現象学と、それから、バーガーの晩年の思想的な議論が、どのような一貫性をもっているのかについて、シャープに検討しています。私は「方法の思想負荷性」というテーマを最初に探求しましたが、この本は「理論の思想負荷性」について、バーガーの場合を明らかにしています。とても興味深いです。  アメリカでは 1970 年代ごろから、文化戦争のような状況が生まれます。他者を相互に理解できないような社会的分断が生まれます。他者をどう理解するか。その方法をめぐって、エスノメソドロジーの手法が開発されます。社会学の研究は、自国内の異文化理解へとすすみました。 しかしバーガーは、社会的現実というものが、分断されずに理解可能な状態であると考えた。そしてその現実を研究の対象にすると同時に、規範的にも、そのような現実が必要であると擁護したのですね。  そして最終的には、バーガーは、ロールズのいう「重なり合う合意」と同じような主張をするということですが、これは自らの信仰と政治的な公共性のあいだに、いかに折り合いをつけるかという問題でもあります。ただこの点に関しては、バーガーの議論は、あまり見るべきものがないなと思いました。 その一方で、本書の 208 頁から 223 頁にかけて紹介されているバーガーの議論は、重要であると思いました。  バーガーは、文化戦争に直面して、相対主義にも原理主義にも組みすることなく、中道的な立場を探ります。それは、社会をあるがままに理解しようとするバーガーの立場が、ラディカルなユートピアとしての改革ビジョンを退ける、つまり、あいまいなものや十分には理解できないビジョンを退ける、という穏当な保守主義の含意をもつということですね。  一方、社会がそもそも分断されている場合、言い換えれば、国家が道徳的な正当性を失っている場合は、社会全体を理解することができません。そこでバーガーが提案するのは、「よき仲介構造」によって、互いに理解

■少子化は資本主義の矛盾なのか

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    勝村務『マルクス経済学の論点』社会評論社   勝村務さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    価値形態論からはじまって、地代論、人口減少問題、アフリカ問題、文化経済学、という具合に、現代の具体的なテーマを論じています。本書の構成から、現代のマルクス経済学が、きわめてアクチュアルで、原理と現実を結びつけるという、体系的な知の営みであることが示されていると思います。  興味深いのは、資本主義の先進諸国が、いずれも少子化を克服できていないこと。これはつまり、資本主義の限界、内在的矛盾ではないか、という論点ですね。社会主義であれば、これをコントロールできるのではないか、という問題関心があるのでしょう。  私たちは、人口を再生産できる状況にあるけれども、それを意識的に選択しないのか、それとも、人口を再生産できないほど、資本主義の矛盾に取り囲まれているのか。このような議論は、マルクス主義者にもっと展開してほしいです。

■仏教界は国民精神の教化を担った

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    藤田和敏『樋口琢磨と和敬学園 大正~昭和戦前期仏教社会事業の実態』相国寺研究 12   藤田和敏さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    大正デモクラシーの時代、日本の仏教界は、国家寄りのスタンスだったのですね。大正時代に、仏教各宗派は「護国団」を作ります。これは、僧侶たちが参政権を求める運動の一環でした。仏教各宗派は、参政権を得たいと考えた。でもそれと引き換えに、国民精神の教化の担い手になろうとしたのですね。  しかし今日の観点からすれば、このように仏教界が国家に寄り添うかたちで自らの立場を表明したことは、誤りだったというのですね。  というのもその後、仏教界は戦争にコミットメントしていくことになるからです。日本が中国に傀儡政権を作ったときには、「志那国民は餓鬼道に堕ちて居る母の如くであるから、我等は日蓮の慈悲の行をすすめねばならぬ」 (78) などと述べて、国家の軍事行動と植民地政策を正統化しました。

■経済学史を学ぶには

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    久保真 / 中澤信彦編『経済学史入門 経済学方法論からのアプローチ』昭和堂   松本哲人先生、原谷直樹先生、佐々木憲介先生、石田教子先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。    それぞれの章のタイトルの付け方がいいな、と思いました。読者の関心を引くだけでなく、書き手も力を入れて書かなければならないようなタイトルです。編者は執筆者に対して、執筆へのコミットメントを引き出すことに成功していると思いました。  以下、個別の気になった点について記します。 38 頁ですが、スミスは実際に「投資」という言葉を使ったのでしょうか。ここで訳文に補っている「投資した人」というのは、むしろ「生産者」ではないかと疑問に思いました。同様に、スミスの時代には、お金を貸してくれる人は、投資家とは呼ばれず、高利貸と呼ばれていたにすぎないのではないか、と疑問に思いました。これは投資家という存在が、たんにお金を貸したのではなく、投入したお金から、金利以上の分け前を要求する存在なのかどうか、という問題でもあります。 投資という言葉は、おそらく J.S. ミルあたりの時代、 19 世紀前半から用いられるようになるのだと思いますが、スミスの時代に、お金を貸す人を投資家とみなしてよいのかどうか、という点が素朴に疑問に思いました。   99-100 頁で、ラッハマンの急進的な主観主義について、論じられています。急進的な主観主義は、市場がつねに不安定になりうると考えるわけですが、では制度は、どうしてある程度まで安定するのでしょうか。それは制度というものが、たんに認識によって生まれるのではなく、実践によって生まれるからでしょう。主観的な認識がいかに急進的になっても、実践が急進的にならないかぎり、制度は安定します。ラッハマンは、変更不可能な制度を「外的制度」と呼んでいますが、しかしそのような制度でも、実践的には変更可能です。この制度の不安定化について問わないところに、ラッハマンの保守的な立場があるのではないか、と疑問に思いました。   119 頁で、シュモラーの歴史主義が、実際にはかなり理想化されたかたちで社会改良的法則を導いている、という指摘があり、これはなるほど、と思いました。シュモラーは、自由主義と社会主義の中間的な、社会民主主義の立場をとったのですが、それ

■ナッジとは正反対の仕掛けもある

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    キャス・サンスティーン『スラッジ 不合理をもたらすぬかるみ』土方奈美訳、早川書房   早川書房さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    サンスティーンは「ナッジ」論で有名になりましたが、「ナッジ」の反対概念にあたるのが、この「スラッジ」なのですね。  ナッジとは、人々に対して、ある行動を促すような仕掛けのことです。これに対してスラッジとは、人々に対して、ある行動をためらわせるような仕掛けのことです。  例えば、米国のジョージア州では、投票するために、長蛇の列に並ばなければならない。 4 時間も並ぶことがある。これでは投票を諦める人もたくさんいるでしょう。  あるいは、膨大な書類を作成しなければならない、という官僚的な制度も、スラッジです。  米国では、国民が連邦政府のための書類作成に費やす時間は、 2017 年の段階で、 114 億時間であると推計されました。 1 時間の労働の対価を 27 ドルとすると、 3078 億ドルに相当します。これは教育省の予算の四倍以上になる、というのですね。一時間の対価を 7 ドル(約 1,000 円)で計算すれば、およそ教育省の予算程度になりますね。  スラッジは、うまく機能することもあります。例えば、ビザの発給手続きには、ある程度煩雑な書類作成が必要です。というのも、そのような書類を作成する過程で、人々は自制心を養うことができるからです。書類の作成は、人々を自律させるための、ミクロな規律訓練権力として作用します。  そのような権力としてのスラッジを、どのように用いるべきか。これはナッジ論の一つのテーマですね。ミッシェル・フーコーがいう、人々を自律させるための規律訓練権力も、このスラッジという観点から解釈すると、興味深い考察が得られるかもしれません。

■消費社会を批判するよりも「沼にはまる技術」を

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  貞包英之『消費社会を問い直す』ちくま新書   貞包英之さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   戦後日本の消費社会の担い手は、中間大衆でした。ところが 1990 年代以降、格差社会の進展とともに、マスとしての中間層が崩壊して、富める人と貧しい人に分解していく。すると貧しい人は、大衆的な消費文化を享受できなくなっていく。 ところが現在、消費文化の中心は、インスタグラムやツイッターなどの SNS で情報を発信したり、あるいは、 YouTube などの無料のコンテンツのなかから、価値あるものを探し出したりする活動になっている。これらはほぼ無料の消費活動ですね。所得が低くても享受することができます。 「推し活」という言葉も生まれましたが、自分が好きなアイドルなどを推す場合には、お金を使う必要がある。ある程度の金銭的消費が求められます。しかしネット上では、それほど金銭を用いない「推し活」もあるのですね。 金銭ではなく、膨大な時間と情熱を捧げて活動するという、そういう消費活動が全般化すると、それは経済を活性化しません。また金銭を用いない消費活動は、どこまで文化を活性化するのか。あるいは反対に、文化に対して負の効果をもたらすのか。そのようなことが問題になるでしょう。 本書のテーマの一つは、「賢い消費」はいかにして可能か、というものです。賢い消費は、一つには、ミニマリズムですね。そしてもう一つには、ネットでどのようにして価値あるものを探すのか、というノウハウですね。 つまり、モノを賢く買うのではなく、モノは基本的に買わない。しかし賢く生きたるためには、情報を賢く集めないといけない。だから情報との付き合い方が、「賢い消費」の中心課題となるわけですね。 私たちの時代は、たしかにそのような段階に差し掛かっていると思います。私たちの時代の消費社会論は、消費社会をいかに「批判」して賢くなるのか、という「知」を提供するのではなく、いかに賢く情報を集めるのか、あるいはまた、いかにして膨大な時間と情熱を捧げるに値する活動を見出すのかーー言い換えれば「いかにして沼にはまるか」――という「知」を提供するように求められているのではないか。そのようなことを考えました。  

■ウェーバーvs.ラッファール 「プロ倫」をめぐる当時の論争

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    竹林史郎『歴史学派とドイツ社会学の起源』田村信一 / 山田正範訳、ミネルヴァ書房   田村信一さま、山田正範さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   竹林史郎先生がドイツ語で刊行された本を、日本語に翻訳されたのですね。 この本の副題は、「学問史におけるヴェーバー資本主義論」です。社会学史研究として、決定的といえる内容であり、一つの到達点だと思います。ウェーバーと同時代の学問がどのように展開され、ウェーバーがその中でどのような貢献をしたのかについて、徹底的に調べてまとめています。  本書の第八章で、「ウェーバー・テーゼ」の妥当性が検証されています。当時、ラッファールがウェーバーのプロ倫を批判して、それに対してウェーバーが応答し、ラッファールがさらに批判する、という論争が展開しました。私たちはこの論争から、何を学ぶことができるでしょうか。  いろいろな論点がありますが、結論から言えば、私が拙著『解読ウェーバー』で提起したように、ウェーバーの説明においては、「プロテスタンティズムの倫理」と、「プロテスタンティズムの経済倫理」のあいだに、概念上の断絶がある。この点を、ラッファールは理解していないと思いました。 ラッファールは、イングランドにおいて、敬虔派的少数派の特徴的な職業倫理が、資本主義の発展に対して与えた影響は、それほど大きなものではないと考えます。資本主義の精神を担ったのは、リベルタン [ 自由思想派 ] 、合理主義者、宗教的無関心層、啓蒙主義、などの広範な担い手であった、と考えます。しかし、「プロテスタンティズムの経済倫理」というのは、すでにカルヴィニズムの倫理を超えて、世俗的な勤労倫理になっていましたし、ウェーバーはそのようなものとして理念化しています。歴史的に問うべきは、カルヴィニズムの担い手ではなく、バクスターの経済倫理を受け入れた読者層であり、それが本当に、資本主義の精神の担い手の多数派なのかどうか、ということでしょう。 実際には、バクスターが説くような、プロテスタンティズムの経済倫理(禁欲に基づく労働エートス)の担い手だけでなく、禁欲的ではない人たちも、資本主義の精神の担い手になったかもしれませんね。 ただしウェーバーの歴史理論は、このような可能性を否定しているわけではなく、ルターからカルヴァ

■社会の加速化に追いつけない私たち

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    ハルトムート・ローザ『加速する社会 近代における時間構造の変容』出口剛司監訳、福村出版   出口剛司さま、伊藤賢一さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ハルトムート・ローザは、独創的な理論家ですね。と同時に、詩人でもあると思いました。本書には、いろいろな洞察がちりばめられていて、心に響く洞察も多いです。 一方で、ローザは、難しい言葉で簡単なことを語っている場合も多々あります。また、社会を観察するためのアイディアはいろいろあるのですが、社会を批判的にみる際の視点が安定していないという印象を受けました。批判が鋭いと感じるのは、現代社会の病理を、世界の破滅という観点から診断する点ですね。加速する社会は破滅する社会なのであると。  では破滅しない、健全な社会とは、どういうものなのでしょう。それは加速しない社会なのかもしれませんが、そのような社会を目指して減速するというのは、実は不可能で、ローザのみるところ、急ブレーキを踏むか、超高速で突き進むか、という選択になるのですね。 この二つの選択肢の中間で、うまく社会を舵とることは難しいというわけですね。けれども私たちは、そういう舵取りを考えなければならないでしょうし、それこそ規範理論の課題なのでしょう。ですが批判理論というのは、できるだけラディカルに社会を批判し、診断するような視点を求めているので、なかなか現実味のある規範理論にすすむことができない、という印象をもちました。  しかしこれは第一印象なので、もっと本書を読み込めば、また新たな知見を得ることができるかもしれません。ローザの後発には、論述の切れ味と奥深さを感じます。  ローザのいう「加速」とは、第一に、技術発展の加速です。第二に、流行、ライフスタイル、雇用関係、家族構造、政治的・宗教的結びつき、などの加速的変化です。第三に、生活のテンポの加速です (380-381) 。  問題の根本は、技術が進歩すれば、私たちは生活のテンポを上げる必要がないのに、それでも私たちは、生活のテンポを上げてしまうというパラドックスなのですね。例えば、私が論文を書く際に、これまではさまざまな資料を図書館で探していたけれども、いまはネットで多くの資料を探すことができるようになり、それだけ早くアクセスできるようになりました。パソコン