投稿

6月, 2019の投稿を表示しています

■記号消費からコミットメント消費へ

イメージ
ニック・メータ、ダン・スタインマン、リンカーン・マーフィー『カスタマーサクセス』バーチャレクス・コンサルティング訳、英知出版 ご恵存賜り、ありがとうございました。 コンサルティング会社で訳された本です。私が中学生の頃は、音楽といえばラジオか、あるいはレコードを買って聴くというスタイルでしたが、いまやウォークマンやスマートフォンやパソコンなどで、大量に音楽を聴くことができる時代になりました。ネット上では、一曲当たりのコストは 0.01 ドルになっているのですね。 最近では、ステレオや大型のスピーカーを買う人は少なくなりました。スマホとイヤホンさえあれば、どこでも音楽を聴けるようになりました。さらにこうした音楽環境の変化から、ある音楽配信会社に「サブスクリプション」して、月額制で音楽を楽しむようになってきました。  レンタル・レコード( CD )もありますけれども、ネット上では一つの店舗に収まりきらない多くの音楽を配信することができます。すると経営の手法としては、ネット上で、いかにして顧客に月額制のシステムを利用してもらうか、そして継続してもらうか、ということが課題になりますね。  ネットフリックス、スポティファイ、アマゾン・プライム、等々。こうした会社が顧客をとらえる方法は、これまでのようにカスタマーセンターを充実させることではなく、むしろ「サクセスセンター」と呼ばれる手法で、熱狂的な顧客を生み出していくことです。顧客のあいだに、「このサービスが好きだから継続する」という選好を生み出して、それを広めることが課題になる。顧客に「対応」するのではなく、顧客に「伴走」する。そのような発想の転換が必要だというのですね。  すると「消費」というのは、たんに記号を身に着けるような「記号消費」ではなく、さまざまな記号を配信してくれる配信会社に対して、熱狂的にコミットメントするという形になってきます。いったん定額制のサービスを選択すれば、そこから先、どの音楽を聴くかは、コストの問題ではなくなります。消費という行為を「支払い」に即して考えるなら、聴く音楽の選択よりも、配信サービスの選択に、大きなコミットメントが必要になるということですね。これは記号消費とは異なる要素が大きいです。

■宗教を包摂する全体主義

イメージ
藤田和敏『近代化する金閣』法蔵館 藤田和敏さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 相国寺派の歴史全体を概観するすぐれた本ですね。 日本は第二次世界大戦を通じて国内の統制を強め、その影響は宗教団体にも及びました。宗教団体法が公布されたのは 1939 年。この法制の背景が興味深いです。 それまで過去に、宗教法案が帝国議会に提出されたことが二回ありました。 1899 年と 1927 年です。しかしいずれも、法案は廃案になりました。キリスト教と仏教を同列に扱うことができるのか、とか、何が宗教であるのかを国家が恣意的に決められるのか、といったことが問題になったのですね。それで 1939 年の法案では、できるだけ簡略的な内容の法案にした。法律の内容を盛り込みすぎると、法案として成立しないことが予想されたためでしょう。   1939 年の宗教団体法では、宗教団体には所得税や法人税は非課税にする、という内容になりました。しかしその一方で、この法律が制定されてから、仏教各派は日本の戦争に協力していくことになります。これは計画経済(社会主義)と区別される「全体主義」のやり方ですね。経済的には、宗教団体の自由な運営を認めつつも、精神的・政治的には、戦争のために宗教関係者たちを動員するというやり方です。禅によって心を鍛錬する。それによって日本による東アジアの植民地化に仕える。このような体制になっていったのですね。

■会話ロボットの賢さとは?

イメージ
遠藤薫『ロボットが家にやってきたら…』岩波ジュニア新書 遠藤薫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 2016 年にマイクロソフト社は、 19 歳の女性のようにしゃべるロボット「 Tay 」を開発しました。ところがそのリリースから数時間後、 Tay はドナルド・トランプの移民に対するスタンスに追随したり、ヒトラーは正しかったと発言した、というのですね。マイクロソフト社は、その日の夜に公開を停止してしまいました。 Tay は、オンラインでユーザーたちとの会話を楽しむようにできています。一部の困ったユーザーたちが、 Tay に偏った知識や意見を教え込むと、偏った反応を示してしまう、というのですね。 もしかすると Tay は、数時間で学習したことをしゃべったのではなく、ネット上にある情報を解析して、多くの書き手たちが、ドナルド・トランプを支持し、ヒトラーを支持していることを、そのまま反映してしゃべってしまったのではないか、と思いました。 いずれにせよ、人が教え込んだことを解析して会話するだけでは、会話ロボットとしては、十分に賢いとはいえませんね。

■株主が担うべき役割とは

イメージ
中村隆之『はじめての経済思想史』講談社現代新書 中村隆之さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 「株主主権」という論理は、次の二つの点で困難であるというのですね。 一つは、労働者との雇用契約は不完全であり、労働者にどの程度仕事してもらうか、どの程度の賃金を支払うか、どの程度学習してもらうのかというのは、事前に確定した契約はできないという点です。こうした不完備な契約の場合、労働者たちにたくさん働いてもらって得ることのできた利益は、だれのものなのか、という問題が生じます。「残余利益」をどのように配分するか、という問題ですね。これをすべて株主の主権でもって決めるというのは無理がある。会社と労働者とのあいだの契約は不完全なのだから、会社の経営方針をめぐっては、労働者にも意思決定に参加してもらう、というのは自然な発想ですね。不完全な契約をその都度明確にしていく、そのようにして雇用契約を「契約」として納得のいくものにしていく、そのようにする必要があります。 もう一つには、株主は十分な経営情報をもっていない外部者なので、監視能力に限界があるという点です。株主が「残余利益」を最大にするインセンティヴと能力を持っていると判断するのは、やはり無理がありますね。とはいっても、経営者や労働者がそのようなインセンティヴをもっているとは限りませんから、この点は結局、試行錯誤してみないとわからない点がありますね。正規の労働者は、長期雇用を持続させるためのインセンティヴをもつでしょう。しかしそのようなインセンティヴが、結果として経営判断に失敗する可能性もあります。あるいは非正規雇用者たちを経営判断の民主的な意思決定のプロセスから排除することもあるでしょう。  いずれにせよ、株主主権が絶対的なものではないとして、株主は「労働者」たちに創造的な仕事を展開するための資源を託して、浪費をチェックする役割を引き受けるべきだというわけですね。いわばアカウンタビリティのチェック役ということになるでしょうか。

■アメリカの経済覇権を超えるには

イメージ
レオ・パニッチ&サム・ギンディン『グローバル資本主義の形成と現在』長原豊監訳、芳賀健一/沖公祐訳、作品社 訳者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 アメリカの資本主義の歴史を概観するのに適した本です。私たちの同時代の歴史として、新聞その他で聞いたことがあるような話題を織り交ぜながら、 20 世紀以降の通史を描いています。 「覇権」という点から考えると、 1980 年代に日本が経済面でアメリカを脅かしたとき、日本はアメリカに代わる経済的覇権をとる可能性があったわけですね。そのような視点で考えてみると、なぜ日本は「ルーブル合意」や「プラザ合意」で失敗したのか、という検討課題が生まれます。日本は、アメリカとの貿易摩擦を引き起こすほど経済的に成功しながら、結局、アメリカの覇権に組み込まれてしまった。これはどうしてなのか。アメリカは結局のところ、貿易戦争で負けても、金融的な覇権を強化していくことに成功した、というわけですね。  現在、中国が経済大国となり、アメリカに代わる覇権をとる可能性があります。でも中国は、金融面では、アメリカに代わるシステムを築くようなことはしていません。むしろアメリカのやり方に従っている。だから、中国が経済的な覇権を握ることも難しいのではないか、と考えられるのですね。 これはつまり、「金融の覇権」こそが、世界経済の覇権を握るカギであり、アメリカが最先端の技術と優れた人材を集めて、金融システムを進化させていく能力をもつかぎり、他の国々では、これに代わる経済システムを構築する「想像力」「構想力」自体が生まれにくいのであると。 するとやはり、アメリカのやり方に従ったほうがようということになります。  けれども将来的には、中国とインドがそれぞれアメリカを大きく上回る経済圏を築くとき、新たな金融システムが両国から生まれてくる可能性はあるでしょう。アメリカの金融システムに代替しうるシステムをいかに構築しうるのか。この観点から歴史を再評価するというのはとても興味深く、またアクチュアリティのある研究であると思いました。

■経済哲学研究の難しさについて

イメージ
ドン・ロス『経済理論と認知科学』長尾史郎監訳、三上真寛訳、学文社 長尾史郎さま、三上真寛さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  この本が原書で出たときは私もざっと目を通して注目したのですが、昨年、日本で著者の研究報告を聞いたときに思ったのは、この人は深刻なテーマを見つけたのではなく、たんに衒学的な関心から哲学にすすんで、それで経済学方法論の基礎的な事柄をまとめたに過ぎないなという感じがしてきました。でもそれにしても、ここまで現在の行動経済学やゲーム理論をしっかり理解したうえで、その基礎論について論じることができるほど頭のいい人はいないでしょう。その意味で、本書は貴重で稀有な現代経済哲学の達成であることは確かです。  おそらく、哲学的な基礎付けのある経済学を擁護するという考え方は、私たちをどこにも導かないというリスクを冒すことになるでしょう。このドン・ロスと比較すると、現代の行動経済学やゲーム論を哲学的に検討しているジョセフ・ヒースは、自分のオリジナルな哲学を展開し、もって新たな規範理論への道筋を示しています(『ルールに従う』)。 経済哲学というのは、新しい観点を携えて既存の理論と向き合わなければ、そして既存の理論を評価するのでなければ、意義深い研究にならない、たんなる衒学趣味に陥るのではないか、というのが私の感想です。

■孤独な単独者の実存が研究の出発点

イメージ
折原浩『東大闘争総括』未來社 折原浩さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 今年( 2019 年)で 84 歳を迎えられる折原先生にとって、本書がまさに研究人生と実存を振り返る総括の書になっています。かかる書を刊行されましたことを、心よりお喜び申し上げます。 これまでも折原先生は、ご自身の人生を振り返って省察する文章を何度かお書きになられたと思いますが、本書はそのさらなる総括という意味を持つでしょう。 戦後、「(家計の主柱としての)父の病死のため、「欠食児童」で背丈も伸びませんでした」が、「住居の焼失は免れ、それまで住んでいた比較的広い家を他人に貸して、小さな家に移り住み、父の遺族年金をベースに、母がなんとか遣り繰りして、窮境は脱することができました」ということを、私は知りました。 しかし経済的貧困よりも、折原先生にとっては、「縁故疎開による故郷喪失」と「(超自我として「世間の掟」を代表する)父親不在」のほうが深刻で、「「孤独な単独者」の現実存在を注視し、その決断と倫理的行為に力点を置く実存主義のほうに、いっそうの共鳴を感じ、まずはそちらに傾いた」というのですね。 52-53 頁。 そこには実存主義者キルケゴールの影響があった。もしキルケゴールの影響がなければ、ウェーバーを科学主義者として仕立ててしまったかもしれない、というのですね。 いずれにせよ、「単独者」「本来的実存」というものが、折原先生の研究の価値関心たる「自律的個人」のなかにある。このことが述べられており、この実存的な個人の生き方が、これまでのご研究を貫いていることが分かりました。

■中世の経済学は、市場の論理を徹底的に解明していた

イメージ
バーリ・ゴードン『古代・中世経済学史』村井明彦訳、晃洋書房 村井明彦さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 すばらしい本ですね !   1975 年に刊行された本の翻訳ですが、経済学史に関する私たちのビジョンを覆すだけの力があると思います。 市場経済社会というのは、一般にアダム・スミスによって体系的に論じられ、また肯定されたとされます。スミス以前は、市場を社会に埋め込まれたものとして描く今日動態経済の思想が展開されてきた、というのが素朴な歴史観です。しかし中世においてはすでに、市場経済の論理は徹底的に追求されていた。例えばレッシウスは、ワルラスの理論にほとんど近いところまで達していた、というわけですね。 経済学は、中世においてすでに、主観的な価値評価を行う主体から出発して、経済の論理を組み立てるところまで発展していた。ところが近代になって、重農主義あたりから、物々交換の論理へと退却してしまう。 経済学史というのは、中世イタリアで生まれ、そこから資本主義の発展とともに発展した。そのように描かなければならない、ということですね。経済学は、 17 世紀に完成の域に達していた。主観的価値学説を唱えるオーストリア学派の歴史起源は、すでに中世にあるわけですね(これはオーストリア学派のロスバードの見解でもあります)。このような歴史のビジョンでもって、改めて経済学を描き直す試みは、とても有意義です。

■気候工学で温暖化を防ぐとモラルハザードが起きる

イメージ
吉永明弘/福永真弓編『未来の環境倫理学』勁草書房 桑田学さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 最近の気候工学の動向は、とても興味深いです。  大気中の二酸化炭素を人為的に除去する方法とか、太陽放射を人為的に管理するとか、一見すると空想的に見える技術でも、かつてオゾン層の研究でノーベル化学賞を受賞したパウル・クレンツェンが提唱しているとなると、耳を傾けたくなります。  「成層圏エアゾル注入」と呼ばれる、硫酸エアゾルの散布による太陽入射光の反射率の上昇という技術は、うまくいく可能性があるのですね。しかしこの技術を導入して、かりに温暖化を防ぐことができたとしても、私たちの産業社会は、その技術に頼ることで、モラル・ハザードを起こしてしまうかもしれません。エネルギーをたくさん使う先進諸国の私たちが、二酸化炭素をたくさん排出することを正当化してしまうでしょう。  結局、エネルギー資源の枯渇の問題と、温暖化の問題は別に扱うほうがよい、という気がします。(拙著『ロスト近代』で、私はそのように書きました。)かりに温暖化の予測が外れたとしても、あるいは温暖化を防ぐことができたとしても、先進諸国はエネルギーを節約し、自然エネルギーへの転換を図っていく倫理的責任があるのではないか。  しかし私たちの知恵と実行力が及ばず、温暖化を防ぐことができないのであれば、気候工学によって大気を管理するという、気候工学に頼らざるを得ない日が来るかもしれませんね。その方針は、イデオロギー的に見れば、環境政策に関する世界政府を正当化することになるでしょう。この種の問題に、私たちは倫理的に備えがなければなりません。まさに現代の倫理学の課題であります。

■自己責任論者は、自分らしい生き方を求めない

イメージ
遠藤薫編『ソーシャルメディアと公共性』東京大学出版会 遠藤薫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 2017 年 3 月のアンケート調査「メディア社会における社会関係資本に関する調査」から、いろいろな分析が示されています。  「社会関係資本」というのは、当事者の「教育年数」に相関しているわけではなく、「世帯年収」と「性別」に関係しているというのですね。  それから、社会関係を重視するのか、それとも自己責任(努力)を重視するのか。 主成分分析から、このような二つの傾向が読みとれるというのですね。 ( 表 I-7) 参照。この二つの要素の主成分分析の結果は、興味深いです。 社会関係を重視する人の特徴は、「自分らしい生き方」「家族」「友人・仲間」「恋人」となります。社会関係を重視する人が、自分らしい生き方を重視しているのであれば、これは必ずしも「自分よりも社会関係を重視する」ということではないようですね。  次に、「自己責任(努力)重視」と名付けられる第二の主成分は、「国家」「職業」「資産」「地位」「他人からの評価」「プライド」「他人に依存しない生き方」などと結びついています。これらは、しかし、いわゆる自己責任というよりも、国家を重視する主張でもありますね。自己責任を重視する人が「自分らしさ」を重視しないというのも、これはネーミングの問題かもしれませんが、逆説的で興味深いと思いました。自己責任論は、アイデンティティ・ポリティクスとは結び付かず、自分らしい生き方を重視するわけではない。また自己責任論は、国家が責任を取ることも同時に求めるのであり、国家責任論と自己責任論は一人の人間の内部で矛盾していない、というわけですね。  いずれにせよ、社会関係資本は、「社会関係重視」と「自己努力重視」の両方に結びついていますね。どちらも社会関係資本が強くないと成立しない立場である、ということでしょう。

■ベルリン大学の創設は自由のイノベーション

イメージ
仲正昌樹『思想家ドラッカーを読む』 NTT 出版 仲正昌樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 ドラッカーによれば、イノベーションには「マネジメント」のほかに「企業家戦略」が必要であり、それは「総力戦略」「ゲリラ戦略」「ニッチ戦略」「顧客創造戦略」の四つの戦略からなる、というのですね。  ここで「総力戦略」とは、企業の全力を挙げてその業界のトップを狙う、できれば市場の独占を狙う、という戦略です。事例としてドラッカーは、フンボルトによるベルリン大学の創設を挙げています。 フンボルトにとって、ベルリン大学の創設は、新しい政治体制を生み出すための手段でした。ベルリン大学は、それまでの最大規模の大学の 3-4 倍の規模の総合大学を目指します。そのような大胆な戦略のおかげで、ベルリン大学は、西欧史上最大のエリート養成校となります。  フンボルトは、それまでの報酬の 10 倍で有名な教授たちを雇い、莫大な財政負担をかかえる中で、もう後戻りできないという「真剣な賭け」をしたのですね。これはかなりのイノベーションですね。なによりも、次のようなビジョンが革新的だった。すなわち、ベルリン大学を卒業するエリートたちの主導でもって法治国家を実現すれば、国民はあまり政治に関心がなくても、自由な国家を運営できる、というビジョンです。こうした発想は、まさにベルリン大学によって主導された統治形態であり、ドラッカーのいう「総力戦略」であったわけですね。

■ブレア政権の「第三の道」から学ぶべきこと

イメージ
今井貴子『政権交代の政治力学 イギリス労働党の軌跡 1994-2010 』東京大学出版会 今井貴子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 ブレア政権から学ぶことはいろいろありますね。 ブレア政権が「ステーク・ホルダー社会」というビジョンを提示したとき、経済界やその他の人々からは、ほとんど受け入れられなかった。それでブレアはすぐに(一週間で)これを撤回して、スマートに立ち振る舞うのですね。当時のことを思い出しました。ブレアは、自らの政治理念や政治のビジョンについて、国民の支持、とくに財界からの支持が得られなければ撤回するという、プラグマティックな感覚をもっていた。 しかしこの「ステーク・ホルダー社会」というのは、イギリスの自民党も提唱していたものなのですね。その重鎮のダーレンドルフも描いていた、というのは興味深いです。  イギリスの労働党はブレア政権に至るまで、 18 年間、政権をとれなかった。政権をとるために、労働党はなにをしたのか。まず言えるは、その前の前の党首のキノックが、かなり現実路線を切りひらいたということ。しかしキノックには首相になる器がなかったというわけですね。ブレアは、キノックの築いた路線を継承することに成功した。 それから「均衡財政」という政策理念。そして減税、それから規制緩和。こうした政策を保守党から継承することで、国民の支持を得ることができた。市場の信頼を損なわずに政権を運営することができた。  ブレアの政治は、「第三の道」の政治として知られていますけれども、実際には、「何も変えない戦略」を探ったのであり、そこに教育と国民保健と若者の就労支援を加えたわけですね。かなり安上がりな政策であったと思います。ブレア政権は控えめな公約を掲げることで、実現力を示すことができた。しかし「第三の道」という大きなビジョンに支えられて、政治の大きな転換を演じることができた。こうしたやり方は、現在の日本の野党が学ぶべき点を多々示しているかもしれません。

■意志を弱くしてしまう嗜癖には政府介入を

イメージ
井上彰『正義・平等・責任』岩波書店 井上彰様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 自分で責任を負えない部分については、環境(機会)とそこにおける行為の結果について、誰かにアシストしてもらう権利がある。この直観は正しいでしょう。問題はその範囲を確定するためのよい基準が、平等主義者にとっては「格差に対する許しがたいという感覚」の問題となり、その感覚の程度が状況とともに、たとえば下部構造の変化とともに、変化してしまう点ではないでしょうか。 この点とは別に、フランクファート型の事例について考えてみます。 ブラック氏という人がいるとします。彼はいま、たばこ産業に雇われています。神かがった天才的な能力を持つ脳神経学者であります。かれは、喫煙者が禁煙しようとしているかどうかを正確に判断することができます。そしてまた、タバコをやめようとする人に介入して、その人の脳の状態を操作して、喫煙を続けるように仕向けることができるとしましょう。  さてこのブラック氏のような人がいると、喫煙者はタバコをやめようと思っても、その意志をくじかれて、タバコを吸い続けてしまうでしょう。 喫煙者には、タバコをやめたいという「欲求」も、タバコをやめるという「遂行能力」もあるとして、しかしブラック氏が介入すると、喫煙者たちは、自分の「意志の弱さ」を克服することができない、という状況におかれるでしょう。  以上の事例は、想像的なものです。ポイントは、喫煙者が喫煙をやめたいと思ったとしても、喫煙をやめることができないということです。喫煙には中毒性の物質が混ざっていて、いったん喫煙すると、やめられなくなってしまう、ということです。 素朴に考えると、タバコをやめる「意志」がつねにくじかれるような状況においては、そもそも自分がタバコをやめるという「遂行能力」そのものが「ない」のではないか、と思われます。しかし四つのケースを区別してみましょう。 一つは、タバコをやめる「遂行能力」はあるけれども、まったく意志が弱いという状況です。 もう一つは、タバコをやめる「遂行能力」はほとんどないけれども、意志が強いという状況です。この場合は、タバコをやめることができるでしょう。意志の強さが遂行能力の弱さを克服するでしょう。 第三に、タバコをやめる「遂行

■市場原理主義やグローバル化は諸悪の根源ではない

イメージ
井上達夫/香山リカ『トランプ症候群』ぷねうま舎 井上達夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 (1) 「市場原理主義のグローバル化が諸悪の根源だといわれることには、問題がまるで違う」というのですね。  アメリカは、自国では保護主義や開発主義をやっているくせに、日本に対しては保護主義がダメで開発主義もだめだ、というバッシングをしてくる。こういう場合、日本だってアメリカと同様に保護主義と開発主義をやっていいじゃないか、ということにはならない、というのですね。途上国に対しては関税障壁を下げるべきであると。 (2)  放送の許認可制度については、その存在理由として、「周波数の稀少性」があったけれども、しかし現在では、衛星放送やケーブルテレビの登場で、周波数の稀少性はいまや許認可制の根拠にはならなくなった。長谷部恭男は『テレビの憲法理論』で、別の正当化根拠を論じたけれども、それはメディアを規制することの危険性にあまりに無頓着なものだ、というのですね。 (3)  日本では、おかまなどの同性愛者に対しては、アメリカよりも寛容であります。しかし、家族制度に対しては、選択的夫婦別姓に対して、日本人は不寛容です。「反対」の世論が圧倒的に多いですね。こうした世論のせいで、政治家も、選択的夫婦別姓制度を。政策化できない、という状況がある。 この場合、日本は儒教圏だから家族制度を重んじるのだ、だから選択的夫婦別姓には反対するのだ、というのはヘンですね。中国も韓国も伝統的に夫婦別姓だからです。ではどうして日本の世論は、選択的夫婦別姓に反対なのでしょう。ありうる説明は、慣習だから、というものであり、この場合の慣習は、「儒教」といった大きな枠組み(そしてそれを基礎とする保守主義)よりも、もっと小さくて個別のものでしょう。