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雑感:最近の研究生活を振り返って(2024)

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   去る 12 月 22 日に、次の著作の原稿を入稿しました。これで一息つきました。 この 12 月は、私の人生のもう一つの山だったと思います。以下に、最近の研究生活を振り返って記します。  実は 11 月末には、別の依頼原稿の締め切りがありました。こちらは、 2025 年 1 月号の雑誌『現代思想』に掲載される予定です。掲載予定の拙稿のタイトルは、「自由であるとはどういうことか?」という、頂いたお題であります。自由は、なぜ根本問題になるのか。根本的なことを、やさしく論じました。『現代思想』 1 月号の特集のタイトルは、「ビッグ・クエスチョン」。世の中には、いろいろなビッグ・クエスチョンがあるのでしょう。私は自由について論じたのですが、同時に、私の研究人生を振りかえるよい機会にもなりました。編集者の塘内さんにお礼申し上げます。  先日入稿した原稿ですが、こちらは来年の 3 月下旬に、筑摩書房から刊行される予定です。私は当初、『人生の理論』とか『人生の選択理論』というタイトルを想定して執筆していたのですが、編集者の石島さんの提案で、タイトルは『「人生の地図」のつくり方』となりました。加えて、副題がつく予定です。 石島さんには、 2 年前の拙著『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』でもお世話になりましたが、今回は石島さんの気合が違っていて、入稿前の段階から、私の草稿全体に、石島さんのていねいなチェックが入っています。また、章や節のタイトルもすべて、石島さんの提案によって、読者に伝わる言葉になりました。今回は、石島さんの全面的なサポートとプロデュースに頼っています。そのおかげでフレンドリーな本に仕上がるのではないかと期待しています。 この本についてもう一つ。これは私からみると異常なのですが、デザイナーさんと石島さんのあいだで、本文のデザイン(体裁)をどうするかについて、何度もやり取りをしてよいものにしたというのです。この意味、分かりますか?俄かには分かりませんね。  この本の執筆は、ひょんなことからはじまりました。コロナ前の 2019 年の夏に、スイスのチューリッヒ空港の書店で、ある本を見つけたのです。 Roman Tschaeppeler and Mikael Krogerus, The Decision Book: Fifty Mo

今年聴いた音楽5選

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     那須耕介さんが亡くなられて、はや 2 年と3か月が経ちました。 これまで耕介さんと私は、音楽の情報をいろいろ交換してきたのですが、それがいまはかなわず残念です。きっと耕介さんは、天国ですてきな音楽を聴いていることでしょう。  * 年の瀬が迫ってまいりました。皆様、いかがおすごしでしょうか。  今年私が YouTube で出会った音楽のリストを、ご紹介します。 200 曲くらいです。   https://www.youtube.com/playlist?list=PLFExZbc_M4ZOUCraGjDAKlZK5N7a5uJ7a    このなかで、印象に残った音楽をあえて 5 つ選んでみますと・・・   ■まず、 Seth Parker Woods の Difficult Grace https://www.youtube.com/watch?v=FUxBR56Oa6w この人、全力で推したいです。 自分の世界を築いたすばらしいアーティストだと思います。 https://www.youtube.com/watch?v=95x6RwGNraM →こちらは、アルバム全体のトレーラーです。 https://www.youtube.com/watch?v=-WRY9mamep0 →こちらは、 Seth Parker Woods 自身による紹介です。グラミー賞にノミネートされたのですね。おめでとうございます。   ■第二に、台湾のジャズ・ピアニスト、許郁瑛の編曲による、「羅生門」 https://www.youtube.com/watch?v=zSs3FQEzGSk In the Cave というアルバムに入っています。 許郁瑛は、別の作品で、フランシス・ベーコンに捧ぐ、というテーマで曲を作ったりしていますが、このアルバムでは、羅生門 I,II,III という曲が、それぞれとてもイメージを喚起します。 80 年代的なスタイルと音色だと思います。 https://www.youtube.com/watch?v=k1AidpXd1Fk →こちらは、アルバム In the Cave のオフィシャル・ビデオです。最近アップされました。   ■第三に、 Gaia Wil

■不正義の感覚からはじめる政治

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  ジュディス・シュクラー『不正義とは何か』川上洋平 / 沼尾恵 / 松元雅和訳、岩波書店   川上洋平さま、松元雅和さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    この本の原書は、 1990 年に刊行されました。以来、この本は、政治思想の分野で話題になってきましたが、ようやく邦訳の刊行がかなったのですね。心よりお喜び申し上げます。  この本を読むと、哲学に対するシュクラーの嗅覚が、抜きんでていることが分かります。哲学史には、懐疑主義の伝統があります。例えば、アウグスティヌス、モンテーニュ、キケロなどの思想家の思想です。こうした懐疑主義の立場は、「不正義」の概念を通じて、いかにして政治とかかわることができるのか。知に対する懐疑は、無知への洞察でもあり、それは不正義を告発する作法を生みだすことができる、というのですね。  この懐疑主義の伝統を背負って、シュクラーは「不正義の哲学」を展開します。その立場は、市場における交換的正義を批判するものです。 「見えざる手」の立場、すなわち、アダム・スミスのような市場の秩序化の立場は、市場は不正義を生むことがない、とします。しかし誰かが苦しんでいるのを傍観するのは、受動的不正義であります。そのような不正義を許すことはできない、というのですね (152) 。  しかしシュクラーは、自分の兄弟姉妹が、リバタリアニズムの思想を支持しているといいます。かれらは、相続税に対して、強い不正義の感覚を持っている (231) 。シュクラー自身は相続税に賛成だけれども、兄弟姉妹たちは反対だと。リバタリアニズムの立場の「不正義」感覚では、市場経済を徹底的に自由化した方がいい。これに対してシュクラーの「不正義」感覚では、正反対の規範を支持するわけですね。  リバタリアニズムの立場からすれば、相続税を課せられている人たちをたんに傍観しているだけでは、受動的不正義なのであり、相続税反対の声を挙げなければならない、ということになります。市場自体が不正義を生むことはないけれども、政府は不正義を生むのだ、ということになるでしょう。  人によって、不正義の感覚は異なります。 加えて、政府の施策や事故や自然災害などに対する憤りの感情は、報復、復讐、仇討ち、応報、恩赦の要求など、いろいろあります。こうした感情は、必ずしも「

■なめらかな社会の投票制度

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鈴木健『なめらかな社会とその敵』ちくま学芸文庫    鈴木健さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  なめらかな社会の「なめらかさ」とは、「 0 」と「 1 」のように物事を区別しないで、その境界を、かぎりなくなめらかに移行するようなイメージなのですね。  社会システムを捉えるときに、私たちは、私たち人間の認知のシステムと、社会のシステムのあいだに、構造的なカップリングがあると想定します。そして何らかの記号によって、社会システムを捉えようとします。するとその記号というのは、「 A 」と「 A でないもの」を区別するという具合に、認知の離散化が起きて、そのあいだの曖昧な領域は、あたかも存在しないかのように扱ってしまいます。  例えば、婚姻制度に基づく結婚、というシステムは、婚姻状態か、それとも婚姻がない状態か、という二つの状態に分けて、このシステムを捉えます。そしてこの捉え方に応じて、戸籍制度や税額控除などの制度を整えていきます。しかし、婚姻状態でも、結婚していると言えるのかどうかは、それぞれの事情があって、さまざまでしょう。個々の事情に応じて、関連する諸制度を整えることがもしできるとすれば、それが「なめらかな社会」となるわけですね。  これは普遍主義というよりも個別主義の発想になりますが、しかし、いくつかの段階ごとに結婚の状態を区別して、それぞれの段階に応じて、各種の制度を普遍的に整えるなら、それは、なめらかな普遍主義の社会、ということになるでしょうか。  「なめらかさ」というものを、本書はとりわけ、貨幣制度と投票制度において実現する方法をデザインしています。  私たちの市場社会においては、商品やサービスに対する消費者の評価は、提示された価格で、それを買うか買わないか、という選択になります。しかし、なめらかな社会を作る場合、商品やサービスを購入した後にも、その商品やサービスを事後的に評価して、支払ったお金の価値が変動するようにする、というのですね。これは株式投資の仕組みを、通常の取引にも拡大するようなイメージですね。このような仕組みを導入すれば、売り手は、長期的に顧客を満足させるような商品を開発するでしょう。  投票システムをなめらかにするには、現在の投票システムのように、 1 人 1 票で、ある人やある政党に投票するので

■歴史・思想研究の意義は、他者の活動を「語る」こと

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    牧野雅彦『精読 アレント『人間の条件』』講談社メチエ   牧野雅彦さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    この本と同時に、牧野雅彦訳、アーレント『人間の条件』講談社学術文庫、もご恵存賜りました。ありがとうございました。 このアーレントの新訳は、まさに待望の偉業でありました。 これまでのちくま学芸文庫版は、それ以前の訳を少し修正して文庫化したものであり、訳語の問題が残っていました。私は学部生のときに、横浜国大で、斉藤純一先生のゼミで、まだ文庫化される以前の翻訳を元に、この本を読みました。とてもワクワクして読んだのですが、理解できた内容は少なかったように思います。そのとき、斉藤純一先生が、いくつか訳語の問題を指摘していて、なるほど重要な問題だと思いましたが、それ以前の問題として、私がどこまで理解できたのかが不確かで、とりあえず、労働・仕事・活動という、経済思想にかかわる範囲では理解しましたが、その背後にあるアーレントの思想が、どのようなものかをそれを理解できませんでした。大学院生のときに改めて読みなおし、さらに教員になってから読み直し、という具合に何度も読みました。  今回、新しい訳書を刊行されましたことを、心よりお慶び申し上げます。  講談社メチエから出された『精読・・・』は、その解説書として、重宝します。この本は経済思想の書としても古典なので、若い人にはぜひ、この解説書とともに勧めたいです。  アーレントは、マルクス主義に対して批判的で、とくに労働を称揚する点に、哲学的・思想的な問題があると考えました。アーレントは、労働と仕事と活動の三つを分けて、活動を重視します。それは人間が行為するとして、その行為の意味は、他者が語ることによってはじめて明らかになる、という考え方につながります。自分は自分の行為の主人公であるとして、主人公は、自分が生きる人生の物語全体を、把握できないのですね。物語は、自分が事前に組み立てるのではなく、たとえ組み立てたとしてもそれは不確実なので、変更を余儀なくされる。だから物語は、最終的には、自分の行為の後で、誰かが語ることになる。それが人生であり、つまり自分の人生の意味は、誰か別の人が語ることによって与えられるのだと。  そしてその物語の源泉となるのが「思考」であり、思考は、人間のさま

■自覚的に書評を書こう

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    塚本恭章『経済学の冒険 ブックレビュー&ガイド 100 』読書人   塚本恭章さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、書評と本のガイドから成り立つ大著です。 650 頁以上あります。経済学のブックガイド、あるいは経済学の入門書として、新鮮なスタイルだと思います。 この本のタイトルにあるように、経済学の勉強を「冒険」するという、ワクワク感があり、何よりも、著者が経済学の本に対して、愛情をもって向き合っている姿勢が伝わってきます。 本を読んで自覚的に書評を書くという、その積み重ねが、学問や研究の基礎体力を作っていくということを、改めて感じました。  この本のいい点は、書評のあいだに「間奏曲」というエッセイがいくつか挿入されていることです。また最後に、比較的長い「エピローグ」が収められていて、著者がどのようにして経済学の研究に入っていったのかが語られています。  例えば、著者が書いた卒業論文が、慶応大学の学術誌に掲載されたこと。また、書評を書くようになったキッカケ。書評のための、自覚的な文章修行。大学のゼミで学生に書評を書いてもらう試み。などなど、知の刺激が伝わってきます。本書はきっと、若い読者に響くでしょう。  個人的には、テニスプレーヤーの自伝などが三冊取り上げられていて、とてもよかったです。  この本の最後に、著書がこれまで、どんな本に出会い、どんな人に出会って研究を進めてきたのかが語られています。経済学者たちとコミュニケーションするなかで、研究生活が回っていくことが分かります。こういう刺激があれば、経済学がもっと面白くなる。  「ここでのテーマ「本との出会いは人生に何をもたらすのか」、それはわたくし自身の場合、端的にいえば「人生そのもの」であり、より正確にいうならば、「良き師を含むところの学問をしていく人生そのもの」にほかなりません。」 (578)  著者の塚本さんが、自分で自覚的に、たくさんの師を求めて、本を読み、書評を書くことを通じて、自らの人生を豊かなものにしてきたことが伝わってきます。そういう躍動感というのは、かけがえのないものですね。

■「ヒーブ」と呼ばれる女性たち

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    満園勇『消費者をケアする女性たち』青土社   満園勇さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    手作りパンなどを作ることができる電子レンジに、スピーディな加熱や温め直しの機能を付けたシャープの「オーブントースターレンジ」。 1986 年発売の、働く女性向けの家電シリーズの一つです。  もう一つ、消費者からの問い合わせや苦情に対応しながら、「お客様」の声を商品開発に活かすという取り組み。例えばサントリーの「お客様相談室」というものが、当時、ありました。  こうした仕事で活躍したのは、「ヒーブ」と呼ばれる女性たちだったのですね。 1986 年は、男女雇用機会均等法が施行され、女性総合職が誕生した年でもありました。  ヒーブとは、 Home Economists in Business の略です。企業で働く家政学の専門家、という意味でしょうか。アメリカでは 1967 年に、この言葉が正式に学会で承認されました。ヒーブたちは、マーケティングの仕事を担うようになりました。そして 1978 年に、「日本ヒーブ連絡協議会」が結成されています。  日本企業は、学歴の高い女性に、ヒーブという仕事を任せた。いわば「消費者のケア」を任せたのですね。「家庭におけるケアを担う女性だからこそヒーブとして企業で活躍できる」と (23) 。  しかし、日本ヒーブ協会の会員数は、 1995 年を境にして減少に転じます。ピーク時には 430 名だった会員は、 2020 年には 64 名に減りました。これは一つの歴史的社会現象として、興味深いです。「男性稼ぎ手モデル」から「共働きモデル」へと移行する過程で、「ヒーブ」という役割が生まれ、そしてそれが衰退していく。ただし、本当に衰退したのか、という疑問もあります。消費者のケアは、私たちの経済社会において、むしろ全般化したのではないかとも考えられます。  いずれにせよ本書は、着眼点がいいですね。新しい資料を掘り起こして、消費社会の歴史に新たな光を当て、徹底的に調査しています。  

■マルクスにとっての記念碑

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  カール・マルクス『一八世紀の秘密外交史 ロシア専制の起源』カール・アウグスト・ウィットフォーゲル「序」、石井知章 / 福本勝清編訳、周雨霏訳、白水社   この本、すごいです。打ちのめされました。  マルクスが人生の半ばに、英語で書いたものです。雑誌に初出したのは、 1856-1857 年。マルクスは 1818 年生まれなので、 38-39 歳のときに発表したものですね。書籍としては、 1899 年に出版されました。しかしこの本は、『マルクス・エンゲルス全集』には収録されませんでした。ロシアの専制主義について批判しているからです。  この翻訳は、すでに 1979 年に、石堂清倫訳で、出版されていました。今回はその新訳なのですね。  きわめて価値のある内容だと思います。歴史研究書として、最高の水準であることは確かです。そして何よりも、私が驚いたのは、マルクスがこの本の内容に、相当な自信を持っていることです。マルクス本人にとっても、この本が最高の成果であったのですね。マルクスは次のように書いています (133) 。  「自慢ではないが、私はこの小史がこれまで誰にも気づかれなかった事柄を論じるという希少価値をもつものであるがゆえに、現代世界という新時代への価値ある贈物として、後代の人びとがいつまでもそのように受け入れ、かつ新たな時代ごとに読み返され、人々の戒めの一篇と呼ばれるものになるだろうと自負している。他の人びとと同様に、私はわが記念碑 (Exegi-Monumentum) を持たなければならないのである。」  マルクスはつまり、この本を自分にとっての「記念碑」だと考えたのですね。  マルクスの記念碑は、しかし、いまや『資本論』です。けれども、 38 歳のマルクスにとって、このようなロシアをめぐる専制支配の歴史を剔抉することが記念碑であったというのは、恐ろしいことのように思いました。  学問の恐ろしさを改めて実感します。  

■アナーキズムの不可能性について

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    森政稔『アナーキズム 政治思想史的考察』作品社   森政稔さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    アナーキズムの政治思想史として、ゴドウィン、シュティルナー、マルクス、プルードン、タッカーについて検討しています。  アナーキズムの思想史は、アナキストたちによって研究されることが多いので、思想的関心からその現代的な意義を評価する、ということになりがちなのですね。ところが森先生はそうではなく、アナーキズムというのは、どんな民主主義的統治にも限界や矛盾があるのだから、その限界や矛盾を明らかにすべきだ、という批判的関心から、その意義を検討しています。アナーキズムを一つの体制ビジョンとして積極的に擁護するのではなく、支配的な体制のもつ政治的正当性を有効に批判する、という関心ですね。「アナーキズム的なもの」という言葉で表現されていますが、これが現在、どんな役割を果たしうるのか。  森先生もおっしゃるように、それはなかなか難しいですね。  アナーキズムというのは、共産主義を目指す左翼の内部で、内在的に批判する思想として機能していた。そのような批判に、思想的な役割と意義があった。ところが共産主義思想が衰退すると、アナーキズムの役割もまた、失われていくのですね (62) 。そうしたなかで、今度は右派のアナーキズムが台頭する。ロスバードやノージックのようなリバタリアン、あるいはアナルコ・キャピタリズムです。  歴史的には、アナキストたちが、ファシズムに傾倒していくという当惑すべき事態が起きました。またアナーキズムは、右派的なリバタリアンに当惑して、これを有効に批判する価値観点を示すことができていない、という問題もあるのでしょう。  そうした中で、いまアナーキズムから、何を学ぶことができるのか。それは例えば、プルードンの著作のなかで、彼が「能産的自然」について語ったことや、人口について論じたことなど、アナーキズムのテキストから何か別の、面白そうな契機を見つけようということですね。  アナーキズムとファシズムのあいだにあるきわどい関係というのは、私なりに解釈すると、私たちが権威に抑圧されずに全人的開花を遂げる、あるいは自らのポテンシャルを十分に発揮する、ということが目標になるとき、やはり何らかの社会的な装置や人間関係が必要に

■これぞ社会学の醍醐味

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    遠藤薫『〈猫〉の社会学 猫から見る日本の近世~現代』勁草書房   遠藤薫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    これは決定的な本ですね !  猫に注目して、古代から江戸時代、そして現代にいたるまでの社会の変化を描いています。  猫は、ある時期に中国から輸入されたのですね。江戸時代になると、都市化とともに、都市ではネズミを退治する動物として、公共財としてケアされるようになる。首輪をつないで私的に飼うようなペットとは違う存在になるのですね。  一方で、江戸時代に消費文化が発展すると、「招き猫」がそれぞれ家に置かれるようになった。これは私有財ですね。招き猫は、しかし農村部では、「養蚕神」の役割を果たすようになった。この「猫」の役割を、「狐」の役割と比較した第四章は、とても興味深く拝読しました。  本書は何よりも、写真や図絵がたくさん掲載されていて、遠藤先生が自分で撮影した写真も多いですね。猫にゆかりのある神社など、さまざまな場所を訪れて、写真に収めてその意義を論じるというのは、とても楽しそうです。社会学の醍醐味を感じる本でした。

■現代の自由を論じるために

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    駒村圭吾編『 Liberty 2.0 』弘文堂   駒村圭吾さま、宇佐美誠さま、瑞慶山広大さま、成原慧さま、西村友海さま、吉田徹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    自由の概念を、最新の科学に照らして、バージョンアップしようという企画ですね。こうした哲学の企ては、みんなで議論することに大いに意義があると思います。とはいえ、自由論をバージョンアップするための新しいアイディアは、この本では誰も示していないように思いました。誰か新しい自由論を展開してほしいです。 新しい自由論が出てくるとすれば、この本で検討されている諸々のテーマが、たしかに重要であると思います。リバタリアン・パターナリズム、 AI 、ゲーミフィケーション、ニューロサイエンス、ポスト・トゥルース、ベーシックインカム、プライバシー、といったテーマです。  私たちは、政府からの自由よりも、何らかの政府介入によっていっそう自由になるような、あるいはいっそう「幸福 (well-being) 」を高めることができるような、そういう社会を望んでいます。その場合、「幸福」の指標をどのように構成するかという問題が、自由論にとって重要だと思います。  これまで自由論は、自律、政府介入、尊厳、選択、などとの関係で論じられてきました。でもこれからは、社会的厚生主義、 AI (人工知能)、ゲーム、神経科学、陰謀論、基本所得、などとの関係で論じなければなりません。これらのテーマは、本書でとても興味深く論じられています。さまざまな問題を提起していますが、こうした議論のなかから、新しい自由論が出てこなければならないというのは、その通りだと思いました。

■ロールズは事後的再分配ではなく事前の介入を正当化した

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  齋藤純一 / 谷澤正嗣『公共哲学入門 自由と複数性のある社会のために』 NHK 出版   齋藤純一さま、谷澤正嗣さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ロールズは、『正義論』ではリベラリズムという言葉をほとんど使っていないのですね。ロールズは自分の立場を古典的リベラリズムと区別して「民主的な平等」と呼んだ。このロールズの立場は、一般に、社会民主主義と福祉国家を正当化したものとみなされましたが、これは必ずしも正確ではないのだと。  例えばロールズは、アファーマティヴ・アクションを正当化するよりも、そのような政策が不要なほど、教育の機会が平等な社会を追求する。また、たんに所得の再分配を求めるのではなく、最も不利な人々の「生の見通し全体」が改善するように要求する。つまりロールズは、「事後的な救済」ではなく、「事前の(段階での富と人的資本と資本の)分散」が必要だと考えたのですね。 そのための具体的な政策を検討すると、例えば、相続税や資産税の強化や、教育や職業訓練の強化になるのですね。しかし「生の見通しを改善」するためには、毎年、事後的に再分配することも必要でしょう。事前の救済を理想的な仕方で実現することは難しいからです。 ロールズは、「財産所有民主主義」を望ましいと考えました。これのビジョンは例えば、生産手段の共有(協同組合的な所有)を一つの理想としています。ロールズの財産所有民主主義を具体化する制度は、他にもあるのでしょう。例えば、社員がすべて株を所有して、その株を退職するときまで売ることができない、といった仕組みです。しかしロールズは具合的な検討をほとんどしていないので、あいまいなのですね。 ロールズの思想から、何らかの実行可能な政策を引き出そうとすると、結局、何らかの福祉国家政策になるでしょう。ロールズから一貫した仕方で資本主義に対抗する財産所有民主主義のビジョンを引き出すことは難しいと思いました。これは私の想像力が欠如しているからかもしれません。 新しい連帯のための政策 (189) は、「事後的補償から事前の保障へ」「格差の再生産を止める」「パターナリズムからの脱却」「現物給付の拡大」「労働中心主義を超えて」という五つの理念(スローガン)にまとめられています。具体的には、積極的労働市場政策、当初分配、ベーシック・イン

■保守主義者の部屋はきれい。進歩主義者の部屋は雑然としている。

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    伊藤隆太編『国際政治と進化政治学』芙蓉書房出版   伊藤隆太様、蔵研也様、ご恵存賜り、ありがとうございました。    カイメンなどの原生動物、ハチやアリなどの社会性昆虫、ハダカネズミのような哺乳類、などにおいては、特定の上位個体しか、生殖活動を行わないのですね。そしてこのような特性を、「真社会性 (eusociality) 」というのですね。集団が「超個体」として繁殖する戦略です。こうした戦略は、多くみられる。 (80-81)  もう一つ、   John T. Jost, Aaron C. Kay and Hulda Thorisdottir (2009) Social and Psychological Bases of Ideology and System Justification, Oxford University Press.  このジョストの本が紹介されていますが、そのなかで、「保守主義」と「進歩主義」の説明は面白いですね。  「保守主義者は明るく整理された部屋に国旗を飾り、単純化された世界観を好む。また感染症の危険を重視し、消毒用アルコールを持っている。そして彼らは死の観念を意識することが多く、進歩主義者よりも死を恐れている。・・・これに対して進歩主義者は雑然とした本の多い部屋で暮らし、複雑さ、多様さをそのまま肯定しようとする。壁には世界地図をはり、世界を旅して、各種の異なった音楽を聴く。これらの嗜好は、世界は平和が原則である、そして多様性の満ちた興味深いものであり、探求・探検に値するというヒッピー的な認識に起因すると考えられる。」 (123)  こうしたイデオロギー対立は、生理的レベル、神経機能のレベルで生じている可能性があり、その遺伝率は 0.3 ~ 0.6 程度だというのですね。保守主義と進歩主義の生理学的な対立が明確であれば、二大政党制による民主的な統治が可能であり、望ましいでしょう。しかし遺伝子レベルで、もしこの二つの間にさまざまなバリエーションがあるとすれば、どうでしょう。多党制がふさわしいでしょうか。もっと知りたくなりました。  

■イギリスの労働党が政権をとれない理由

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    ポール・コリアー / ジョン・ケイ『強欲資本主義は死んだ』池本幸生 / 栗林寛幸訳、勁草書房   池本幸生さま、栗林寛幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ポール・コリアーは前著『新・資本主義論』で、自身の政策ビジョンを魅力的に描きました。今回はジョン・ケイとの共著で、イギリス労働党の進むべき道を分かりやすく説明しています。 ジョン・ケイは、『世界最強のエコノミストが教える お金を増やす一番知的なやり方』などの邦訳もあるエコノミストですが、今回の共著で、経済学批判とコミュニタリアニズムの考えを明確にしています。  それにしても、イギリス労働党は、 21 世紀になって、ブレア政権以降は、政権をとれていませんね。どうしてでしょうか。本書の分析によれば、もはや人々は、所得によって支持政党を選ぶわけではなく、支持政党を決める要因として、年齢と教育水準が重要になっている、ということなのですね。   18 歳から 24 歳までの若者は、労働党を支持する傾向がある。保守党支持者よりも労働党支持者のほうが、 35% も高い。しかし、 70 代以上の人は保守党を支持する傾向がある。保守党支持者は、労働党支持者よりも、 53% も上回っている。 そしてまた、両党の支持率が等しくなるのは、 39 歳なのですね。  高齢者が保守党に投票するので、労働党は政権をとることができない。 他方で、大学を卒業した人は、労働党を支持する傾向があるのですね。最近では人口の半分が大学に進学するようになった。ということは、このまま大学に進学する人が増えれば、将来、労働党が政権をとれる可能性はありますね。  いずれにせよ、いま、人々の投票傾向が流動的で、ポピュリズムの政権が台頭する余地がある、ということですね。流動化した人々の投票傾向を、どのように受け止めて、二大政党制のシステムを実質化するのか。  本書のビジョンは明快です。個人主義に抗する地域分権型のコミュニタリアニズムです。強欲 (greed) に反対する倫理経済、また、権威主義的な企業組織に反対する分権的な企業組織、などが示されます。  

■くじ引きで議員を選んではどうでしょう

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    瀧川裕英編『くじ引きしませんか ?  デモクラシーからサバイバルまで』信山社   瀧川裕英さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    くじ引きで議員を選ぶ制度を、一定割合で導入してみようというわけですね。 立候補した人に対する投票と、くじで選ばれた人に対する投票の、二つの方法を混合する。これは、民主主義の活性化につながるかもしれません。 立候補に基づく投票だけだと、議員としてふさわしい人が立候補しない可能性があります。誰が議員として適任なのか。一つには、推薦制度を設ける方法がありますね。これは考察に値します。 もう一つはくじ引きですね。くじ引きには、二つの方法があります。 一つは、投票者が、投票用紙に、議員になってほしい人の名前を書く。有権者であれば、誰でもいい。そして投票箱のなかから、くじで一名を選ぶ、という方法ですね。これは「事後的なくじ」です。 もう一つは、まずくじ引きで、立候補者を立てる。そして人々は、その候補者のなかから一人を選んで投票する。これは「事前くじ」ですね。立候補の段階でくじにする。 後者の方が望ましいとは思いますが、この他にも、くじで候補者を推薦する、そして立候補のための費用を負担する、さらに選挙演説などの支援をする、という方法もあります。 あるいはまた、人々がまず推薦して、推薦された人が立候補する。そこからくじで決める、という方法もあるでしょう。この場合、政府は推薦を促すために、一定の制度設計をする。推薦で立候補した人は、落選してもそれほど打撃を受けないように、くじで決めることにする。このようにして、落選することの心理的リスク(あるいはプライドの毀損)を防ぐことができれば、くじ引きによる投票は、機能するかもしれません。 問題は、くじ引きだと、次の選挙で当選する見込みが不確実なため、議員になった人は、必死に業績を上げるようなことはしない、ということでしょうか。つまり、議員として働くインセンティヴが生まれず、説明責任を果たすインセンティヴも低下するでしょう。 そのために、もし議員をつづけたい場合は、次の選挙で立候補できるようにする。一定の業績があれば、議員をつづけられる可能性が高くなりますので、これは一つのインセンティヴになるでしょう。 そのようなことを考えてみました。

■自由論のフロンティア:最小結婚制度

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    植村恒一郎ほか『結婚の自由 「最小結婚」から考える』白澤社   阪井裕一郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    「最小結婚」というのは、「性愛規範性 (amatonormativity) 」を含まない、倫理的にみて最も薄いレベルで可能な結婚の制度という意味なのですね。例えば、排他的に愛し合う性愛関係を前提としない家族形態です。最小結婚には、さまざまな形態の家族があるのでしょう。  これとは別に、そもそも政府が結婚を認めるという、婚姻制度を廃止した方がいい、という主張もあります。婚姻は、政府が認めるのではなく、各種の団体が認めることにする。そのようなアナーキーで複数の制度を認めたほうがいい、という主張ですね。  もし婚姻が、政府が認めなくても、いろいろな団体が認めるようになるとすれば、その承認の在り方を、法的に調整する必要がありますね。すると結局のところ、婚姻に対して政府が介入しなければならなくなる。だから「最小結婚」を制度化した方がいい、ということでしょうか。  最小結婚を認める際の論点は、同性婚はもとより、複数婚ですね。これを認めるかどうか。例えば 1,000 人で結婚するという宗教団体が現れたとして、これを認めると、どのような社会になるでしょうか。興味深いです。結婚の自由について考えるきっかけになりました。  

■健康推進政策を正当化できない理由

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    玉手慎太郎『公衆衛生の倫理学』筑摩選書   玉手慎太郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   肥満はよくない、健康が望ましい。だからといって、健康のためにどんな社会政策でも正当化できる、ということにはなりません。本書はその理由を四つに整理しています。 一つは、過剰な介入になるということ。健康になることと、介入されることのあいだには、トレードオフがあります。介入されるくらいなら不健康のまま生きたい、という人もいるでしょう。 ( 介入は、介入してほしいという意思をもった人に限定できればいいのでしょうけれども。 )  第二に、健康のための政策は、その目的が、別のところにあるかもしれません。政治的に利用されてしまう可能性ですね。  第三の理由は、アンビバレント、つまりどちらにも解釈できると思いましたが、「健康は自己責任だ」という倫理は、健康のための政府介入を最小限にする。これに対して「政府は人々の健康を配慮すべきだ」という倫理は、政府介入を求めます。しかしかりに政府が健康政策を推進しなくても、周囲の人々は他者の健康を配慮すべきである、という共同体の倫理は、残るかもしれません。  第四の理由も、同じようにアンビバレントだと思いました。健康は自己責任だ、という倫理は、不健康な人に烙印(スティグマ)を押すことになるでしょう。しかしこのスティグマは、政府があまり介入しなくても、社会的に生じるでしょう。