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■労働という言葉の意味はドイツ語と英語で異なる

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    星野彰男『アダム・スミスの動態理論』関東学院大学出版会   星野彰男さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    「労働」という言葉は、英語で labour 、ドイツ語で Arbeit になりますが、英語とドイツ語で、意味が少し異なるのですね。 Labour は、労働力という意味を含みますが、 Arbeit はそうではないのだと。  マルクスがスミスを批判したときに、どうもマルクスはこの意味の違いに気づいていなかった。スミスの場合、 labour は、労働する主体の側の活動力、という意味になる。ところがマルクスの場合、 Arbeit は、活動力という意味は弱い。むしろ労作、つまり労働によって対象化されたもの、という意味になる。英語で work と言えば、このような対象化されたものという意味を持っているけれども、 labour の場合は、このようなニュアンスがないのですね。 この意味の違いは重要ですね。マルクスのスミス批判は、 labour と Arbeit の意味の違いを、マルクスがしっかり把握していなかったことに基づくというのは興味深いです。 例えば、スミスは、「労働の価値」という言葉を使いますが、マルクスは「価値という言葉は余計であり、無意味である」と批判します。しかし Arbeit には「労働の(対象化された)価値」という意味がもともと備わっているけれども、 labour には備わっていない、ということですね。  

■ウェーバーのいう「形式合理的な経済行為」とは

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    W. シュルフター『官僚制的支配の諸相 マルクスとヴェーバーの先進産業社会解釈とその批判的論議』シュルフター著作集 2 、佐野誠 / 林隆也訳、風行社   佐野誠さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   本書は、ウェーバー研究者のシュルフターの著作集、その第二巻です。全体で全六巻の翻訳企画のうち、他の巻はすでに刊行されていたのですが、この第二巻が最後に、最近になって刊行されたということですね。  私は以前に、この著作集の第四巻と第六巻を読みましたが、とくに第四巻の『信念倫理と責任倫理』は、すぐれた概念分析であると思いました。私は拙著『社会科学の人間学』で、この本の分析をさらに乗り越える概念分析を提示するという、野心的な試みをしたのでした。  シュルフターはとてもすぐれた研究者であると思うのですが、この第二巻で扱っている官僚制の問題は、そもそもウェーバーの官僚制論に限界があるような気がします。  訳者解説で解説されているように、かつてマルクーゼはウェーバーの官僚制論を批判して、独自の思想を展開したのですが、マルクーゼのウェーバー理解は間違っていた。これに対してハーバーマスのウェーバー理解は正しくて、ハーバーマスは、ウェーバーを内在的に乗り越えた、ということですね。これは正しい学説理解だと思います。  しかしそれでも、マルクーゼの独創的な思想の価値が失われるわけではありません。私たちは現代の官僚制を超えて、どんなシステムを築くべきなのか。この問題について、ウェーバーはあまりヒントを与えていないですね。むしろマルクーゼのほうが構想力をもっている。 私はウェーバーの思想を、新保守主義の観点から解釈すべきである、ということを主張していますが、これは官僚制をある方向に変容させようとするものです。  本書から、私はとくに、ウェーバーの「形式合理的な経済行為」の概念について学びました。シュルフターによれば、この概念には、一種の内在的制約があるのですね。 (325)  労働者が、経営手段を所有して経営管理するような組織は、マルクス主義の観点からみて一つの理想であり、資本主義を乗り越えるための一段階とみなしうるのですが、ウェーバーはこれを、形式合理的な経済行為と矛盾するものだ、と考えたのですね。形式合理的な経済行為は、労働者

■ウェーバーの「権力」概念を乗り越える

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    橋爪大三郎『権力』岩波書店   橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   これは社会学の理論的な中心問題を、ストレートに論じた本ですね。驚きです。理論は、若いうちに構築しないとダメだという通念が、吹き飛びました。  最も重要で中心的な議論は、ウェーバーの権力の定義を、いかにして乗り越えるか、という理論的課題なのですね。  ウェーバーの定義:「権力とは、ある社会関係のなかで、自らの意思を、たとえ抵抗があろうとも押し通すことができるあらゆる機会のことをいう。この機会は、何に基づくものでもよい。」 (162)  しかし権力をこのように定義すると、例えば、企業に権力はあるのか、という問題に対して、「権力はある、ただしこれこれの条件(社会関係)の下で」という条件がつくだけでなく、「権力はない、ただしこれこれの条件(社会関係)の下で」という条件も付く。  「たとえ抵抗があっても押し通すことができる」かどうかは、さまざまな価値の観点によって、異なった評価になるでしょう。実際に抵抗があるとすれば、権力の認定は、事実認定できます。しかし、実際に抵抗がない場合に、「たとえ抵抗があっても押し通すことができる」と、どうやって認定するのでしょうか。いろいろな解釈が成り立つでしょう。これはつまり、権力の存在は、かならずしも事実認定の問題ではない、ということですね。 いずれにせよ、そこにおいて想定されているのは、権力が作用すると、相手は自由ではなくなる、という前提です。ところがこの前提も疑わしいですね。権力が作用すれば、人は自由ではなくなるのか。そんなことはないですね。人を自由にするような権力作用も、あるはずです。  ウェーバーの定義は、十分ではない。そこで橋爪先生の定義は、・・  「権力は、人が人を従わせること、である。」  「権力は、人が人に従うこと、である。」  この二つのうち、前者のほうが根本的だというのですね (192) 。  私が思うに、この定義のメリットは、規範理論の観点からみて、自由な社会を作るための正当な権力の作用を、論じることができるという点です。  ラディカルなリベラルは、あらゆる権力と権威を批判して、権力作用のない社会、権威のない社会を理想とします。しかしこれは不可能であり、真っ当

■中国の情報戦略

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永田伸吾 / 伊藤隆太編『インド太平洋をめぐる国際関係』芙蓉書房出版   伊藤隆太さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   第三章「古典的リアリズムと中国の台頭」を興味深く拝読しました。 中国はいま、軍事的なパワーを求めるよりも、マルチドメインの非軍事的バランシングをめざしているというのですね。しかし軍事的な戦略もあるので、ハイブリッドな戦略になるのだと。 例えば中国共産党は、台湾の民主化運動を弱体化させるために、 2014 年と 2017 年、「ならず者」を利用して、デモ参加者を襲撃した。 中国はまた、現在、日本の福島原発の処理水を「汚染水」と呼んで、日本の海産物の輸入を禁止しています。その際、中国中央電視台とフランス通信社が提携して、フランス通信社が中国経由の情報を流すのですね。そしてその情報を根拠にして、日本の処理水問題を告発する、というやり方をする。 さらに中国は、ジャーナリストのビザ更新を拒否する権限を用いて、情報を統制している面がある。 こうした非軍事的な軍事戦略に対して、日本はどのように対応すべきかが問題なのですね。