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■経済の長期停滞は先進国の文明病か

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  ローレンス・サマーズ他『景気の回復が感じられないのはなぜか』山形浩生編訳・解説、世界思想社   山形浩生さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   2008 年にリーマンショック(金融危機)が起きたとき、私たちは「バブルがはじけた」と考えました。 しかしローレンス・サマーズによれば、これはバブルがはじけたとはいえない。というのもまず、その当時のインフレ率をみると、ぜんぜんインフレになっていなかった。物価は安定していたし、景気も過熱していなかった。だから金利は上昇していなかったのですね。 つまりリーマンショックは、バブルがはじけたというよりも、それまでの通常の経済の底が抜けたような感じになった、と理解したほうがいい。 いや正確には、「通常の経済の底が抜けた」というよりも、それ以前もそれ以降も、アメリカの経済は総需要が不足していて、完全雇用を実現できていないわけで、そういう状況が長期的に続いている。つまりこれは、アメリカ経済全体が、長期停滞のメカニズムに入り込んでいて、リーマンショックはその中で起きた破局だった、というわけですね。 はたしてこのような現状認識は正しいのかどうか。 サマーズの見解に対して、バーナンキが反論するわけですが、総括すると、2人の見解は補い合っている面が多々ある。それから、政策的な次元では、あまり対立がなかったりする。 いずれにせよ、この長期停滞は、現在の先進諸国の「文明病」としてあるのか、それとも一時的なものなのか。まさに資本主義に対する歴史的なビジョンが争われることになりますね。 この論争は、現在の新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受けて、さらに長期停滞論へと傾くのかどうか。米国を含めて先進諸国では、現在の財政出動を正当化する際に、重要な論点であり、経済学の知恵を絞って、日本でも十分に議論していく必要があると思いました。  

■新渡戸稲造の講演

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  関西学院史紀要第 24 号、第 25 号   井上琢磨さま、ご論文「戦間期関西学院における「恒久平和」運動について」前・中をご恵存賜り、ありがとうございました。   いろいろな史実が整理されています。新渡戸稲造は、「今日までキリスト教信者は平和ということをあまり考えなかったようである」として、それは幾多の人を殺したコンスタンティヌスが、キリスト教を許したことで、カトリックはコンスタンティヌスを聖者としたのだけれども、それによってキリスト教は腐敗したと理解するのですね。コンスタンティヌスによるキリスト教の国教化は、キリスト教徒カトリックを腐敗させたと。  新渡戸は、一人のプロテスタントとして、こうしたカトリックの誤りを犯したくなかった。人を殺すような君主に仕えたくなかった。しかし新渡戸は、素朴な絶対平和主義者ではなく、国際連盟を通じて国際協力・国際協調が大切だと考えたのですね。こうした内容の講演を、新渡戸は関西学院で行ったというのは興味深いです。

■コモンズと資本主義のハイブリッド形態

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  河西勝『宇野理論と現代株式会社』社会評論社   河西勝さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    大作であります。宇野(弘蔵)理論のオリジナリティは、私的な資本というものが、社会性を築いていくことを論証している。しかもこの点は、マルクスの『資本論』の目標を超えている、というのですね。  株式会社は、それまでの会社と違って、たんに私的利益を追求するのではなく、社会的な利益を追求する存在になる可能性がある。その可能性は、株式会社の発生とともにあり、そしてまた最近では、リフキンの『限界費用ゼロ社会』に描かれていると。 例えば私たち市民は、地域でお祭りをするために、公共的な空間を貸し切り状態にして、集まる権利をもっています。祭りは、自治会などが運営しますが、そこには民主的で協働的なガバナンスの仕組みがあります。この協働の仕組みは、コモンズです。 アメリカでは、こうしたコモンズと市場のハイブリッドを手掛けるような、新しいビジネス・モデルが出てきた。「ベネフィット・コーポレーション」と呼ばれる組織ですね。ベネフィット・コーポレーションは、資本主義的な企業の目標を、非営利団体の目標に近づける。あるいは反対に、非営利団体の目標を資本主義的な企業の目標に近づけるのですね。例えばお祭りは、非営利団体(自治体)によって運営されますが、これを資本主義的な営利目的に近づけるというわけですね。 そのようなハイブリッド・タイプの会社を、「低利益有限責任会社( L3C= low limited liability company )」と呼びます。そのような会社に新たな法的形態を与えると、資本主義は人々の「社会的起業家精神」を引き出すことができる。そして資本主義もまた、社会性を獲得していくことになる。こうしたダイナミズムが、宇野理論の現状分析に接続されうるというのは、興味深いと思いました。  

■経済学の中心テーマは、効用ではなく活動にある

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  長尾伸一/梅澤直樹/平野嘉孝/松嶋敦茂編『現代経済学史の射程 : パラダイムとウェルビーイング』ミネルヴァ書房   長尾伸一さま、梅澤直樹さま、平野嘉孝さま、松嶋敦茂さま、執筆者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。   経済学史には、「活動」概念を称揚する系譜があります。アリストテレス、マーシャル、そしてアマルティア・センに継承される系譜です。 とくにマーシャルにおいては、「効用」と「活動」が対比的に捉えられていて、「活動」の理念は、既存の経済学に対する批判の観点を提供しているのですね。 マーシャルは、「効用」とは異なる人間の理想、活動の理想があると考えた。それはしかし、経済学の本当の理想(理念)である。人間の性格の発達と卓越、それによる社会の進歩。こうした研究こそ、経済学に含まれなければならない、というのですね。 例えば、どんな労働が人間の品位を貶めるのかについての研究。あるいは、自由な企業と産業が、活力・率先・進取の気性など、ある特性を発揮させることについての研究。また、地位を誇示したり流行に同調したりするという性質をもった欲望の研究。等々。 人間の欲望には、「活動」を通じて創出される欲望というものがあります。それは、いわゆる「欲望の科学」の対象というよりも、「努力と活動の科学」の対象になる。 この「活動」が経済学の研究対象となるためには、たとえ効用が低くても、追求する価値がある活動の事例があるといいですね。 政府は、各人の効用の総量を最大化するのではなく、各人の活動を最大化することを目標にして、そのための経済政策を実施する。そのような政策介入の正当性を、活動の経済学が提供する、ということになるでしょう。 このような考え方は、現在、新保守主義的な道徳の理念によって、代弁されているように見えます。新保守主義は、マーシャルの考え方を継承しているといえます。 これはしかし、アマルティア・センの考え方を拡張する方向に、発展させることができるでしょう。私はセンの主張を乗り越えて、「潜勢的可能性 ( ポテンシャリティ ) としてのケイパビリティ」という理念を提起していますが、この考え方はマーシャルを発展的に継承するものだともいえるでしょう。  

■経済学史研究として意義深いテーマの一つ

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  野原慎司/沖公祐/高見典和『経済学史』日本評論社   野原慎司さま、沖公祐さま、高見典和さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    現代の、 20 世紀の経済学史を考えるときに、コウルズ委員会の意義とその影響について知ることは、大切だと思いました。この研究については、まだ日本では本格的な研究書が出ていないですよね。誰かこのテーマを追求して、とくにこの委員会のメンバーたちが、平和運動に与えた意義を再評価していただきたい、と思っています。  計画経済の理論化をになった人たちの方が、結果としてですが、平和を訴えた。この関係を知ることは、経済思想においてとても重要な知見をもたらすのではないか。そのように感じています。

■トニー・ブレア、イラク戦争参戦の誤りを率直に認める

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  高橋直樹/松尾秀哉/吉田徹編『現代政治のリーダーシップ』岩波書店   今井貴子さま、ご恵存賜りありがとうございました。   イギリスのトニー・ブレア(元)首相は、自らが指揮したイラク攻撃参戦の不当性を認めて、記者会見で次のように述べています。( Independent, 2016 年 7 月 6 日)   「開戦時に公開した情報は結果的に誤りであった。(サダム・フセイン体制崩壊後の)イラクでは、我々の予想をはるかに超えて敵対状況が長期にわたって泥沼化し、流血にまみれた事態が続いた。・・・我々はイラクの人びとをサダム(・フセイン)の悪から解放し安全を確保しようと目指したのだが、それどころかイラクは宗派間対立によるテロリズムの犠牲になってしまった。これら全てについて、私は、あなた方が知りうる以上の、また信じる以上の深い悲しみ、痛恨、そして謝罪の念を表明します。」   ブレア政権は「第三の道」という、ギデンズが提起した「新しいリベラル」のビジョンを実践に移して成功しました。しかしその一方で、アメリカが仕掛けたイラク戦争に参戦するという、大きな誤りを犯してしまう。ブレアの過ちは、私たちが歴史として語り継ぐべき教訓の一つであるでしょう。  ブレア政権は、内政についてはさまざまな成果を上げて、三度の総選挙を勝ち抜くという、史上最長の政権となりました。しかし国内政治の成果は、「ブラウンをはじめとした閣僚に負うところが大きく、ブレアのリーダーシップに負うところは部分的にとどまった」というのですね。 ビジョンはギデンズによって提供されていたわけですから、たとえブレアがいなくても、このビジョンを実行に移す有能な閣僚・官僚が存在すれば、政治は動くのではないかとも思いました。シャープな分析をありがとうございます。

■正解を探すのではなく、自ら問い、考えるために

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鈴木有紀『教えない授業 美術館発、「正解のない問い」に挑む育て方』英治出版   鈴木有紀さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    教育の可能性を探る、希望の書であります。  小学校・中学校で、「対話型の鑑賞」というユニークな授業をされているのですね。ニューヨーク近代美術館で始まったやり方で、それを日本に導入した方法なのだと。なんてすばらしい教育の手法でしょう。 「正解を探すのではなく、自ら問い、考えること」。  このような新しい方法を導入すると、子どもたちがどんどん発言するようになる。勉強の苦手な子も、積極的に発言するようになる。子どもたちは、自分の頭で考えている、そのように感じられるのですね。  これは、子どもたちのアート作品に対する「鑑賞力」が高まるというよりも、「学ぶ力」「学ぶ意欲」そのものが培われるというのですね。「正解のない問いに向き合う力」や「異なる意見に耳を傾ける姿勢」が、子どもたちのなかに芽生えていく。  ある発言に対して「どうして、そう思うのですか」と質問すると、生徒は答えられなくなってしまうけれども、やり方を変えて、「どこからそう思う ? 」と質問すると、生徒たちにいろいろ答えてくれる、というのは興味深いです。  実際に、「どうしてそう思う ? 」という質問のパタンと、「どこからそう思う ? 」という質問のパタンの違いを検証してみると、「どこから」という問いかけの場合、 74% は事実の答えが返ってくる。 20% は解釈の答えが返ってくる。  これに対して「どうして」という問いかけの場合、 53% が事実の答え、 40% が解釈の答えとなる。  理想的にみて、哲学的な、正解のない答えを探す場合は、事実よりも解釈の答えを期待します。しかし哲学を期待して、子どもたちに「どうして」と質問すると、あまり答えられない。であれば、「どこから」と質問したほうが、結果として「解釈」に関する答えも、多く引き出すことができるわけね。なるほど、と思いました。  

■みんながマイノリティの社会

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  富永京子『みんなの「わがまま」入門』左右社   富永京子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。   日本がもし 30 人の教室だとしたら、 (1)  ひとり親世帯の人は、 2 人。 (2)  発達障害の可能性のある人は、 2 人。 (3)   LGBT の人は、3人。 (4)  貧困状態にある人は5人。 (5)  世帯年収 1000 万円以上の人は、3人。 (6)  外国籍の人は、 1 人。    となるのですね。 ひとり親世帯の人は、私の暮らす地域ではもっと多いです。 LGBT の人は、このカテゴリーに収まらない性的マイノリティの人たちも含めているのかもしれませんが、なかなか可視化されませんね。でも 1 割ということですね。  相対的貧困の基準で「貧困状態」を計算した場合に、貧困状態の人は 5 人。これはやや少ないように見えました。ただ、子どもがいる世帯だけを取り出してみると、異なる結果になるのかもしれません。  この (1) から (6) までの人たちが、もしまったく重なっていなければ、 30 人クラスの約半数の人たちは、特殊な事情を抱えている、ということになります。半分くらいはマイノリティであると。そういう人たちが、ある面では「ふつう」で、しかしある面では「特殊」で、全体としては、やはり「ふつう」の人間として振舞おうとする。そういう同調圧力がある。 しかしこの同調性は、ときには異質なものを排除するとして、ときには異質なものに寛容であったりする。同調しない人がいても排除しないで、それでも別の同調性を確保しようとする。そのようなコンフォーミズムの形態は、たとえば、新型コロナウイルスの感染拡大を抑止するための自粛にもみられるでしょう。自粛しない人を強く排除しないけれども、自分は自粛するという人が多くいる。そういう仕方でコンフォーミズム的な社会を築くことが、ときとして有効に機能する。そのようなことを考えてみました。

■新しい消費市民社会は政府が推進する

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  丸山千賀子『消費者志向経営』開成出版   丸山千賀子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   現代の消費社会研究で、重要だけれども、まだあまり研究されていないテーマにストレートに迫っていると思います。内容豊かで、しかも体系的に整理されています。明快に伝わってきました。  消費者が市民団体を作って、企業が生産する商品を批判的に評価するというスタイルではなく、最近は政府が母体となって、企業に対して「消費者を志向する経営をするように」と呼びかけて、それに応じる企業を評価していこう、というわけですね。  こうした、市民たる消費者と企業の新しい関係は、現在、かなり推進されています。にもかかわらず、市民社会論や市民運動論、あるいは消費社会論では、見落とされています。  消費者庁、厚生労働省、経済産業省、などなど、さまざまな機関がさまざまな取り組みを進めるなかで、私たちはコーポレート・ガバナンスや CSR (企業の社会的責任)という言葉でその表面的な概要をつかむわけですが、具体的にどんなことが行われているのか。本書はいろいろな事例を紹介しています。  とくにカルビー社はすごいですね。女性の活躍を応援していて、この関連で、 2010 年から 2016 年にかけて、 10 種類の賞を受賞している。これは消費者を直接志向するわけではなく、労働者としての女性を応援していますが、そのことが「企業の社会的責任」として評価され、企業のブランド・イメージを構築する。そして最終的には消費者に支持される会社になる、というわけですね。  こういった賞の取り組みは、どんな企業でも、一定の基準を満たせば受賞できるように、たくさんの企業に目標にしていただきたいですし、コンサル会社や市民団体などを通じて、受賞のためのノウハウを多くの企業に提供する仕組みがあれば、もっといいなと思いました。  

■三島由紀夫文学における虚無と余剰

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  大澤真幸『三島由紀夫 ふたつの謎』集英社新書   大澤真幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   三島由紀夫の文学が、最終的に到達したのは、どのような境地だったのか。それは『豊饒の海』における結末であり、「虚無」であったというのですね。 三島は、「なにもない」ということを見てしまう。しかし三島は、海を見ていたのではないか。ところがその海は、最後には脱落してしまっている、と。 虚無とは、究極の真実であるのかどうか。いやそうではなく、虚無が「ゼロ」であるとすれば、「ゼロ」とは異なる何かこそが、真実であるのではない。 それは「一」である。ただ、「一」だけがある、というのであれば、それは「ゼロ」だけがある、というのと変わらない。 「一」は、それがまさに「一」として構成されるための「他」が存在してはじめて「一」たりうる。「一」がある(「一」がそれ自体独立したものとしてある)とはいえないが、しかし「一」がない、ともいえない。これは「一」があるともないともいえない、ということであるけども、大澤先生はこれを、「一」というものがつねに「これには尽きない」ものである、という具合に解釈して、それが海である、というのですね。「一の内的不可能性」のイメージとして、海があるのだと。  これは、「一」というのは、存在でもなければ虚無でもない、ただそれだけでなく、存在からも虚無からも余剰たらざるをえない何かを抱えている、ということですね。いいかえれば、「これに尽きるものではない」という感覚です。これは「海」であり、「女」に対する原初的な感覚であり、唇に触れても届かない女であり、それは三島文学の出発点にあった、というわけですね。これは味わい深い解釈です。海は、虚無ではなく、すなわち「不毛の海」ではなく、「豊饒の海」なのであると。その解釈が本書の最後に示されています。  

■行政と協力する市民、しかし影の政府を準備する回路とは

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  大川千寿編、山田陽、澁谷壮紀、孫斉庸、玉置敦彦著『つながるつなげる日本政治』弘文堂   山田陽さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    全体として凛とした、一本筋の通った文体で、政治と政治学の基本的な問題を説明されています。切実な関心が伝わってきます。なかなかこういうストレートに誠実な精神では書けないものです。読後感は、さわやかです。 本書の第一章と第 11 章、それから付録の「日本政治基本用語集」の全体を担当されたのですね。これはつまり、この共著の中心を執筆されたということでしょう。心よりお祝い申し上げます。  戦後日本の「市民」を再検討するとき、まず安保闘争の問題にぶち当たります。安保闘争です、中間集団に属する人たちも属さない人たちも、いっしょになって国家に対抗する運動を繰り広げた。そしてベトナム反戦運動がつづきます。運動においては、大衆に埋没しないで、自律した個人として行動するという、市民の理想が掲げられました。 並行して、都道府県では、革新自治体が登場します。国家が機能しないとき、国家に対抗して進歩的な解決を模索するのは、地方行政です。その可能性が示されます。 こうした流れのなかで、「市民」というのは、国家に対抗する公共空間を築いてきた存在でした。しかしいま「市民」を語るとき、国家と協力する場面も多くなってきた。「市民」とは、必ずしも国家に対抗する存在ではないでしょう。 考えるべきテーマは、おそらく国家の政策に影響を与える市民の運動です。たんに反対するのではなく、行政サイドといっしょに議論を積み上げて、それからアイディアを提起していく。そういう市民は、どういう回路から生まれるのでしょう。ミニ・パブリクスを爆発的に増大させれば、その可能性が生まれるでしょうか。 もう一つ、政策ブレインのような集団は、これまで「影の政府」というアイディアで語られてきました。野党がもう一つの政府をシミュレーションするという、実験的な制度を組み込むというアイディアです。これを実現することは、民主政治にとって重要ですね。ただ、どのようにすればいいのか。 ありうる一つの考え方は、二大政党制の実質化です。しかしこれは、いかにして可能なのか。これからも議論にお付き合いいただけると幸いです。

■意のままに選択できるとき、人は最高度に自由なのか

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  稲垣良典『トマス・アクィナス『神学大全』』講談社学術文庫   稲垣良典さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    以前、講談社メチエから刊行された本の文庫化ですね。心よりお喜び申し上げます。   1985 年の秋に、日本基督教学会で、稲垣先生が講演したときのエピソードです。 学会のある重鎮教授は、次のように語りました。「稲垣さん、カトリックの《信仰》理解が今日の講演通りのものであったとしたら、僕たちはなぜ宗教改革のようなことをやったのでしょうね」と。  その時の稲垣様の応答は、「本当に、どうしておやりになったのでしょうね」と口籠もるほかなかった、というのですね。文庫版の「あとがき」のこのエピソードは、象徴的であるように思いました。  自由とは何か。意のままに選択できるときに、人間は最高度に自由なのか。それとも、もはや自分の意志が誤った選択をしないほど確実に「自分の究極目的」へと秩序づけられているときに、最高度に自由であるといえるのか。トマス・アクィナスは、後者こそが自由であると考えるのですね。  このような自由にいたるためには、人間の本性というものが理解可能であるという前提がなければなりません。人間のうちには、自分を超え出ようとする無限の運動がある。そういう自己超越へのダイナミズムがある。たとえ自分の究極目的が分からなくても、この能力こそ、自由の本質であると理解することができます。  しかしここには「究極的・終局的なところに見いだされる目的に従うこと」と、「たえず自己を超越しようとする(その意味で究極目的を想定しない)こと」の違いがあります。どこまで超越しても、超越の方向性は終局的には「神」そのものであるから、これらは一致する、というのがトマスの考え方なのかもしれません。 しかしその場合でも、個々の人間が分有すべき「神の目的」とは、有限の目的にならざるを得ないでしょうから、その有限な目的はたえず超越の対象になるのではないか、と思いました。

■政権交代の意義を改めて考える

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  藪野祐三『現代日本政治講義』北海道大学出版会 藪野祐三さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    全体として見通しがよく、必要な情報がコンパクトにまとめられていて、しかも結論に大変共感しました。勇気づけられました。  民主党政権が成立したときに、私たちはもっと寛容に評価してもよかったというのはその通りだと思います。人々の期待が大きすぎて、急激な変化を求めすぎた。それが失望につながった。  政治社会の理想として、日本は二大政党制を築くべきで、そのような拮抗的な体制のもとで、どちらの政党にしても、それほど急激に変化しない諸政策を実施する。そういう政治的な発想が必要ですね。そのためには、たとえ自民党と同じ政策であっても、非自民党に政権をまかせる、という発想があっていいのではないか。政党政治を拮抗させることがもたらすメリットは、きわめて大きいからです。政治権力の運営に緊張感を与えるだけでなく、広く社会のなかに批判的な討議を活性化させて、他の選択肢を見えやすくする。この点について、私たちはもっと理解を深めていかねばならない。  本書の最後は「小国日本のすすめ」となっていますが、原発、九条、自衛隊、安保体制など、体制選択の問題が問われており、思想的な課題がいままで以上に重要になっている、との理解ですね。すべて共感しました。  

■現代人のための教養書、決定版

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  大澤真幸『社会学史』講談社現代新書   大澤真幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   痛快で面白いです! 話しかけるように語られていて、どんどん読み進められます。しかも社会学史、一般には社会思想史と呼ばれる内容を網羅して、「現代の教養」というべき知識を、この一冊で一気に学ぶことができます。 現代の教養は、アリストテレスにはじまってルーマンにいたる、というわけですね。これは正しいと思います。分厚いですが、厚さはまったく問題ではありません。現代の日本人にとって、第一の必読書であるようにも思いました。 かつての必読書といえば、大塚久雄の『マルクスとウェーバー』でした。本書は、これに代わる新しい古典になるだろうと思います。(ちなみに富永健一著『現代の社会科学者』(講談社学術文庫)も、とてもいいです。)いまの大学生に一冊を勧めるとすれば、私は迷わずこの本を挙げるでしょう。「本物の教養は頭に染み込む」という、本書の帯のコピーもとても的得ています。  ウェーバーの『プロ倫』について、本書の論述を受けて、考えてみたいと思います。 カルヴァン派の二重予定説では、信者たちは、すでに自分が神のもとに行くか、それともそうではないか、決まっていると告げられるわけですが、たんに告げられるだけでは、神に救われるために努力することがなくなってしまいますね。現実には、頑張れば救われる、ただし、頑張っただけでは本当に救われるかどうかわからないし、ちょっと手を抜いた場合にどうなるのかは分からない、ということなのでしょう。 これは大学受験生のような状況ですね。努力しているのだけれども、本当に合格するのかどうか、不安になる。そのときに合格するという「兆候」が見えればいいのだけれども、その兆候は、「合格することを自己確信して、まい進する」という方法でしか得られないわけです。  この場合、神の存在は、どのように機能しているのか。ノージックが用いる「ニューカムのパラドックス」では、神は、ゲームのプレーヤーがAを選択するだろうと予測するときにAの箱に 10 億円を入れる。反対に神は、ゲームのプレーヤーがBを選択するだろうと予測するときにBの箱に何も入れない。このように神は個人の行為を予測して、その行為が帰結する結果を変更できる、というのですね。しかしこれ