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6月, 2021の投稿を表示しています

■新しいリベラルの理念としてのベーシック・アセット

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  宮本太郎『貧困・介護・育児の政治』朝日新聞社出版   宮本太郎さま、ご恵存賜りありがとうございました。    去る土曜日 (6 月 12 日 ) は、シノドス・トークラウンジにご登壇いただき、ありがとうございました。本書の内容の理解が深まりました。   21 世紀に入って、福祉政策をめぐる日本の政治は、どのように動いてきたのか。本書はそれを「例外状況の社会民主主義」「磁力としての新自由主義」「日常的現実としての保守主義」という三つの立場の力学で捉えています。 この説明は、社会がどうあるべきかをめぐる論争の力学というよりも、その都度の現実の政治状況で、政治家や官僚も明確なビジョンがないまま、あれあれという間に何かが決まっていくという現実を、的確にとらえた力学であると思います。社会民主主義の政策は、自民党が主導することになるわけですが、とくに信念をかけて取り組んでいるのではなく、政権をとりたいからという理由で、野党が掲げている政策をとりあえず実行してみる、というような具合で、政治が動いてしまうわけですね。   2009 年前後は、政権交代という例外的な状況で、当時宮本先生が提唱していた積極的労働政策などの新しい社会民主主義的な政策は、予想以上に受け入れられました。 ところが自民党の安倍政権が安定すると、政権を奪われそうになる例外状況がなくなり、積極的労働政策の予算は削減されていきます。この財政の健全化の力学が、本書では新自由主義と呼ばれています。ただこれは、とくに新自由主義的というよりも、財政を担う立場からすれば、赤字をできるだけ削減する努力は、どの立場にとっても必要でしょう。 他方で、家族内での介護(ケア労働)は人々にとって日常的な現実であり、これが深刻な状況になっている。家族的価値を理想とする保守主義の観点からみても、すでに擁護できないレベルまで深刻化しているのですが、これが日常の保守主義ですね。決して理想ではない。「ヤングケアラー」「老々介護」など、保守主義の観点からみても、すでに擁護できない現実があるわけですね。 つまり日本において、社会民主主義の政策は、それを信念として掲げる人たちによって推進されているのではなく、新自由主義の政策もまた、それを信念として掲げる人たちによって推進されているわけではない。そして保守主

■ユダヤ人大虐殺を正当化する論理とは

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    森下直貴/佐野誠編『新版 「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察』中央公論新社   佐野誠さま、ご恵存賜りありがとうございました。    本書は 20 年前に刊行された旧版に、一部加筆した新版です。 大変興味深く読みました。そしてとても重要な貢献であると思います。  まず、安楽死を権利として認めるかどうかという問題と、相模原事件のように障害者を負傷・殺害する事件とは、やはり分けて考える必要があるでしょう。「ある個人が生きている価値」を判断するのは、誰なのか。死んでもよいと判断するのは誰なのか。それが自分なのか他人なのかでは、道徳的な意味が異なるでしょう。  ナチスの場合に問題になるのは、この判断主体を、ナチスのような権力にゆだることの是非です。  本書にその翻訳が収録されている『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』 (1920) は、刑法学者のビンディングと精神医学者で精神科医のホッヘの共著です。しかしこの本がナチスのユダヤ人虐殺に、どのように影響を与えたのか。それはじつは不明であるというわけですね。  ただ、ヒトラーの侍医であったテオドア・モレルは、この『解禁』を利用して、安楽死に関する報告書を書いています。しかも実際に、ナチスの安楽死計画に大きな影響を与えました。  問題は、現在、モレルが書いた報告書が存在せず、その草稿があるだということですね。すると、その草稿に何が書かれていたかが問題になりますが、これはしかし、草稿なので、モレルが個人的にどのように考えたのかが分かるとしても、最終的にどのような報告書となったのか、分からないのですね。  私の感想は、本書で紹介されている報告書の草稿の一部は、ユダヤ人の虐殺を正当化するようには見えません。「生まれつき・・・極めて重度の肉体的・精神的障害をもつがゆえに、継続的な介護によってしか生活を保持しえず・・・」という文章は、当時の状況としても、ユダヤ人全般に当てはめることはできないでしょう。 しかしその後に続く「奇形であるためにその容姿が世間の憎悪の的となるような」という部分は、直前の文章とは独立してその意味を受けとめてよいのだとすれば、ユダヤ人の虐殺につながる表現であるかもしれません。こしかしそのような読み方が正しいのかど

■環境派リベラルの投資を促すには

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    遠藤業鏡『CSR活動の経済分析』中央経済社   遠藤業鏡さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    この本のなかで独自の実証分析の結果が示されています。大まかに結論のみ記しますと、日本では企業が利潤を上げるために、戦略的な仕方で環境に関するCSR( corporate social responsibility (企業の社会的責任))のスコア(指標)を改善することに意味があるのか、といえば、統計的に有意な結果は得られなかった、ということですね。   CSR のスコアに対して、企業は消極的になる必要はなく、戦略的に CSR を改善する必要があると、経済倫理的には言えるかもしれませんが、しかし戦略的に改善したところで、利潤が出るわけではない。これは日本の企業に対する日本人その他の評価がまだ成熟していないから、ということでしょうか。  環境を重視したほうが儲かるような仕組みを築くには、人々の企業評価の成熟を待つのではなく、政府や国際機関が、一定の強い道徳的メッセージを発していく必要があるのかもしれません。あるいは、諸外国の取り組みから日本人が学ぶべきことがあるとすれば、それは何でしょうか。 これまで企業の倫理は、株主重視のリバタリアニズムか、それとも広範なステイクホルダーを重視する民主主義か、という対比で語られてきました。しかし環境倫理の観点からすれば、その中間あたりで、環境倫理的なパフォーマンスを高めるためのインセンティヴを模索したり発見したりする工夫があるのではないかと思いました。  

■気候変動問題と「法の支配」

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    那須耕介/平井亮輔編『レクチャー法哲学』法律文化社   那須耕介様、ご恵存賜り、ありがとうございました。    法哲学に関する大学生向けテキストです。  法の支配の理念が、現代の法哲学において問題になるのは、この本の最後の二つの章で論じられるように、熟議民主主義や闘技民主主義の正統性と、どのように折り合いをつけるか、ということのようですね。  例えば、気候変動をめぐって、 2020 年 10 月に、日本でも菅政権が、 IPCC の 2030 年までの温室効果ガスの削減目標を基本的に目指すと表明しました。これは熟議に基づく判断ではありませんが、もし熟議民主主義を組織化したとすれば、一つのありうる政治的表明にもなったでしょう。  しかし問題となるのは、政策の手段です。気候変動をめぐるこのような目標を達成するためには、政府はかなり強権的な仕方で様々な政策を打ち出さなければなりません。フラーがリスト化する「法の支配」のための道徳(ないし指針)を守れないような仕方で立法するしかないようにみえます。  例えば、牛肉の消費によって、どれだけ温室効果ガスが出るのか。その値を正確に計算することは難しいですが、とにかく立法化して、目標達成のために牛肉の消費を抑える必要があるでしょう。 2030 年までの目標だからです。 すると法律は、場当たり的なものとなるでしょう。そしてその都度科学的な根拠が出るたびに修正していく。そのように進めるしか、目標を達成する手段がないように見えます。立法に際して、一般性、明確性、無矛盾性、実行可能性、安定性といった法の支配の要件を満たすことは難しいようにみえます。 このように、法の支配の要件を満たさずに、私たちは環境問題を解決すべきなのかどうか。もし人々が、熟議をした結果として、そのような政治を正統化するなら、法の支配は衰退したことになります。  いまのところ、このような発想で気候変動を防ぐための諸政策を正統化する議論は、支配的ではありません。しかし、私たちに突きつけられている問題は、「法の支配の下で、気候変動問題への対応を切り詰めるか、それとも気候変動を避けるために、法の支配を切り詰めて政治権力の強権化(全体主義化)を(たとえ嫌でも)認め、必要な政策を可能なかぎりすべて実施するか」ということではな

■新自由主義は労働組合組織率を減少させる要因だったのか

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    田中拓道/近藤正基/矢内勇生/上川龍之進『政治経済学』有斐閣   田中拓道さま、近藤正基さま、矢内勇生さま、上川龍之進さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    政治経済学に関する大学生向けのテキストです。  労働組合の組織率の推移をみると (92) 、スウェーデンでは 1960 年から 2000 年ごろまで増加傾向です。しかし 2000 年ごろを境にして減っています。労働組合組織率のピークは 86% くらいでしょうか。 2017 年には、 63% くらいまで減っています。スウェーデンでは 2000 年前後に、労働組合に関係する大きな制度変化があったのでしょう。  これに対して他の諸国では、概ね 1960 年以降、労働組合の組織率は少しずつ減少しています。ただしイギリスでは、 1960 年から 1978 年くらいまで、組織率が増加していて、 1979 年以降は急激に減っていますね。サッチャリズムに基づく労働組合改革が背景にあるのでしょう。これは新自由主義による改革ともいわれますが、しかしこのような労働組合組織率の急激な変化は、アメリカや日本の新自由主義改革においては見られません。  ちなみに韓国では、労働組合の組織率は 1960 年から 1988 年くらいまで増加傾向にあり、その後ゆるやかに減少していきますが、いずれにせよ韓国における労働組合組織率は、日本よりも低いですね。

■安倍晋三首相のコロナ対策スピーチを添削する

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    橋爪大三郎『パワースピーチ入門』角川新書   橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    とても痛快な本であり、一気に読むことができました !  クオモNY知事、福沢諭吉、チャーチルなどの、いろいろな名スピーチがでてきますが、福沢諭吉は、それほどうまかったわけではないのですね。  最も参考になったのは、安倍晋三首相が昨年、新型コロナ対策に際してスピーチした文章に対する橋爪先生の添削です。  安倍首相は、現在の菅首相に比べれば、格段にスピーチがうまいと思います。しかしそれでもコロナ対策に際して、あまりよいスピーチ・ライターに恵まれなかったようですね。  本書では、安倍首相の 140 行のスピーチ原稿を、 77 行にまで減らした修正案Aが示されます。そしてさらに練った、 43 行にまで減らした修正案Bが示されます。このように、政治家のスピーチを添削して、簡潔な文章にして表現する、というのは意義深い政治活動になると思いました。  私たちがスピーチをするときは、とにかくまず、自分で原稿を書かなければならないのですね。そしてその原稿を、自分がスピーチ・ライターになったつもりで書き直すのですね。そのような作業が必要というわけですね。  それにしても、安倍首相がスピーチしたあとの質疑応答で、日本は外国のようなロックダウンをしないけれども、対策に失敗したら誰が責任をとるのか、というイタリア人記者の質問に対して、安倍首相は、「たとえば最悪の事態になった場合、私たちが責任をとればいいというものではありません」と答えたと。  これに対してニューヨークのクオモ知事は、「この決断の責任は私がとる。・・・もしも不満だったり、誰かを責めたくなったりしたら、私を責めてくれ。私以外の誰のせいでもないのだから。」と述べた。これは大きな違いですね。  日本人は、よく「自己責任という考え方ではいけない」という言い方をします。政治家の決断に対しても、「自己責任」を要求しないのが、日本人なのかもしれません。日本人は、コロナ対策において、それぞれの人たちがそれぞれの責任を分担して対応しなければならないと発想するのかもしれません。しかしコロナ対策がうまくいかなかったら、責任をとって辞職する、という覚悟が必要ではないか。そうならないのは

■ハート対ドゥウォーキンの論争

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  濱真一郎『ハート対ドゥオーキン論争のコンテクスト』成文堂   濱真一郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ハートとドゥウォーキンの論争について、さまざまな論文を丹念に紹介しながら整理しています。いろいろ学びました。  ハートは論文「承認のルールの不確定性」で、次のような事例を紹介しています。かつて南アフリカでは、通常裁判所が、「立法府の法的な権限 ( 権能 competence) と権能 ( 権力 power) 」についての見解を示しました。すると立法府は、この問題について、異なる見解を示しました。そして立法府は、その見解に基づく法案を通過させました。これに対して、通常裁判所は、その法案を無効であるとして、司法判決によって退けました。さらに通常裁判所は、立法府による「特別上訴裁判所の設置」は無効であると判決しました。最終的には、政府(立法府)が妥協することになるのですが、しかしもし妥協しなければ、立法府は同じような立法を、延々と繰り返し通過させるかもしれません (116) 。  あるいは例えば、政府(立法府)は、最高裁判所の判事を変更するとか、その他の手段を使って、司法の権限を弱めようとするかもしれません。こうした可能性がある場合に、法的判断とは、裁量の余地があるものと考えるのか、それとも正しい判決があると考えるのか。ハートは、裁量の余地があると考えました。 ハートは、植民地の法制度を含めて、さまざまな法制度を念頭において、自らの議論を立てていたようですね。するとハートの議論は、法のある一定の発展段階に当てはまるものだ、と解釈できるかもしれません。これに対してドゥウォーキンの議論は、法が成熟した先進諸国における法制度に当てはまる、ということになるでしょうか。  ドゥウォーキンは、超人的な万能の裁判官であるヘラクレスを想定して、法的判断には不確実性はないと考えます。ルール、先例、原理、それらを支えている法体系を一貫させる道徳的・政治的価値、これらを勘案して、裁判官は、正しい判決(一つの正解)を出すことができると考えます (48) 。  むろんハートは、裁判官が裁量的な判断をする場合でも、その判断は、たんなる気まぐれや好みではなく、合理的な規準(スタンダード)に根拠づけられる、といいます。しかしハートは、その規準が複

■ロールズ型リベラリズムを超えて

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    田中将人『ロールズの政治哲学 差異の神義論=正義論』風行社    田中将人さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  きわめて周到で、かつ独自の視点から評価したロールズの理論と哲学の再構成であると思います。文体から、情熱が伝わってきます。このようなすばらしい研究をまとめられましたことに、心から敬意を表します。  神義論という観点から、ロールズの格差原理を位置づけるという着眼点は、なるほどと思いました。ルソーの哲学も、カッシーラーのルソー読解においては、神義論の観点から、説得的な仕方で解釈できるというのですね。そのようなスタイルの読みをロールズにも適用できると。 ロールズの神義論は、ルソー的な神義論ではなく、ヘーゲル的な弁証法と「和解」の理念によって解釈できる。このように解釈すると、チャールズ・テイラーのヘーゲル解釈、すなわち「和解」概念の解釈による社会の弁証法的な構成に、近いものがあると思いました。 テイラー的な(コミュニタリアン的な)「和解」と、ロールズの格差原理による差異の和解は、いずれもヘーゲル的な和解であるとみることができます。  むろんコミュニタリアニズムは、格差原理を超える別の共同体主義的な原理を立てるかもしれません。コミュニタリアンたちはしかし、具体的に格差をどうすべきであるのかについて、明確な規範理論を打ち立てているわけではありません。 問題となるのは、基本財の供給(分配)をこえて、政府は人間の幸福を満たすための政策をするべきかどうか、するとしたらどのようにすべきか、という点です。  ご高著では、「自由のリベラリズム」と「幸福のリベラリズム」という対比、それから「卓越のリベラリズム」を含めて、三つのタイプのリベラリズムが示され、比較検討されています。 ロールズの場合、所得の格差は、それ自体としては労働へのインセンティヴを与えることから、正当なものとみなされます。この考え方はすでに、「繁栄」という基準を重視するリベラリズムであり、その意味で「幸福のリベラリズム」であるともいえます。ロールズは、自由のリベラリズムの立場をとっているようで、実は「繁栄のリベラリズム」の立場をとっている。 すると重要な区別は、「繁栄」と「主観的幸福」と「卓越」の三つであり、どれを重視するのか。いずれもリベラリズムと