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11月, 2021の投稿を表示しています

■日本の近代化と仏教の哲学化

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    藤田和敏『明治期の臨済宗 宗政家と教団経営』相国寺教化活動委員会   藤田和敏さま、ご恵存賜りありがとうございました。   明治時代、日本の仏教界はキリスト教に対抗すべく、仏教を「近代化」することを急務としました。 ( 池田英俊『明治の新仏教運動』昭和 51 年刊 ) その一つに、仏教を哲学的に基礎づけるという哲学の運動があります。代表的な人物は、井上円了です。著書『真理金針続々編』で、井上円了は仏教の「中観」を、ヘーゲルの弁証法を先取りしたものとして位置づけます。また井上は、近代国家の教育・哲学にふさわしい、仏教的な護国のあり方を構想したのですね。  あるいは真宗大谷派の境野黄洋は、新仏教運動を展開します。  さらに、「自発的結社」をベースとする仏教、「通仏教」的な結社が組織化されます。これは一つの宗派に偏らずに、仏教全般に共通する教説を教理とする結社の組織化であります。そしてこのような動きの中から、仏教各宗教会というものが組織されるのですが、しかしこれは 10 年足らずで解散してしまうのですね。  いずれにせよ明治時代には、仏教の近代化とアソシエーション化の動きがあった。これらは仏教の改革運動とされます。では当時、既成の宗派は、内部でどのような改革を試み、あるいは試みに失敗したのかということが、本書で語られています。これはつまり、宗教団体組織のマネジメント論ですね。いろいろな示唆を受けました。

■社会に対する二つの不公平感

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    水島治郎/米村千代/小林正弥編『公正社会のビジョン――学際的アプローチによる理論・思想・現状分析』明石書店   金澤悠介さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    社会に対する「不公平感」は、自分の利害に適合的な公正原理に基づくものなのか、それとも自分の利害を離れた視点から、社会を客観的に評価する公正原理に基づくものなのか。この二つの公正原理は異なります。前者は「自己利益正当化仮説」、後者は「客観的厚生判断説」と呼ぶのですね。  「自己利益正当化仮説」に立つと、もし自分が社会の中で不利な立場にあるなら、社会全体が「不公正」であるように見えるでしょう。反対に、自分が有利な立場にあるなら、社会全体が公正であるように見えるでしょう。  これに対して「客観的厚生判断説」は、自分の利害とは別に、客観的に社会の公正さを判断しようとします。これは学歴が高い人ほど、そのような客観的判断ができると考えられます。それゆえ、不公正を感じている人は、とりわけ学歴の高い人たちである、という仮説が成り立ちます ( 啓蒙効果仮説 ) 。  しかし 1990 年から 2000 年にかけての実証研究では、このどちらも支持されなかった、というのですね。  その後、潜在クラス分析を用いた金澤さんの成果では、 2005 年と 20015 年の不公平感が比較されています。  日本社会は、競争の自由のための条件が十分ではないから格差が生まれている、という不公平感と、格差が大きいから不公平である、という不公平感と、この二つの不公平感があります。興味深いのは、格差に不公平感を感じている人よりも、競争の自由の条件がないことに不公平感を感じている人の方が、多いのですね。 2005 年では、それぞれ 20% と 32% 、 2015 年では、それぞれ 17% と 24% となっています。 2015 年の分析では、この二つの不公平感のバランスを重視する人たちが、 39% いる。格差が大きくならない範囲で競争を求めるが、それが現在の日本社会では確保されていない、とみるタイプの人たちです。競争社会が格差を生むことを単純に批判するのではなく、つまり競争社会に対して単純に反対するのではなく、競争は大切であり、しかしそれが格差を生みすぎないための条件を求める人たちが多い

■「よい趣味」よりも「真剣なレジャー」

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    宮入恭平/杉山昂平編『「趣味に生きる」の文化論』ナカニシヤ出版   神野由紀さま、ご恵存賜りありがとうございます。   本書は、「シリアスレジャー」と呼びうるさまざまな現象を検討しています。シリアスレジャーとは、専門的な知識やスキルを用いて継続的に行うものであり、それは「本気」で「真剣」で「真面目」で「ひたむき」であるようなレジャーです。これに対比される営みは「カジュアルレジャー」であり、それはすなわち、専門性はなく、場当たり的で、気楽で、リラックスできるようなものです。 おそらく多くの趣味は、この二つの要素を兼ね備えているのでしょうけれども、その「シリアス度」を高めていくと、どうなるのか。人間の生き方の問題として、興味深いです。   1970 年代以降、消費文化が発展して、「ホビー(趣味)」の数が爆発的に増えます。するとホビーは、同じ志向をもった人たちをつなぐものとなります。極めて限定された、私的な集まりが生まれます。ホビーを共有する人たちのあいだでは、「よい趣味」という教養の理念は成り立たず、グッド・テイストという言葉も成り立ちにくい状況になるわけですね。  その一方で、アマチュアの趣味が発展すると、こんどはその趣味でもってお金を稼ぐ人たちが出てくる。趣味といえども資本主義の発展とは無縁でなく、資本主義の観点からすれば、私たちが「よい趣味」を築くよりも、市場経済と結びつくような「文化資本」を担う方が望ましいのでしょう。成熟した資本主義社会においては、「ホビー」は資本の観点から、さまざまな方向に発展していく。そしてこの「ホビー」のなかから、「シリアスレジャー」もまた生成し、発展していくのでしょう。文化的な成熟よりも、真剣さの倫理(精神)に焦点を当てた本書は、その着眼点がとても面白いと思いました。  

■他人の自由はリスク、自分の自由は負担

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    那須耕介『社会と自分のあいだの難関』 SURE   那須美栄子様、ご恵存賜りありがとうございます。   那須耕介さんの新たな単著の刊行を、心よりお慶び申し上げます。 一気に拝読しました。そして、いろいろなことを考えさせられました。 耕介さんが去る 9 月に亡くなられ、それから約二か月が過ぎて本書が刊行されました。本書は耕介さんのセミナー(講義)であると記されていますが、実質的には対談であり、内容は、黒川創さんほか、 SURE に関わる方々との対談、そのなかで耕介さんが自分の考えをさまざまに語るものです。 2021 年の 5 月に 1 回、 7 月に 2 回の対談がなされ、全 3 回の対談から、本書が生まれています。濃密な内容であり、耕介さんは死の直前まで、明晰に思索していたことが分かります。表紙の絵もとてもいいですね。  耕介さんによれば、最近人々は、「他人の自由はリスク」であり、「自分の自由は負担」であると思うようになってきた。自由よりも安全が欲しいし、自由よりも幸福が欲しい。人々はますますそのように思うようになってきたのではないか。またそれを受けて、政府はますます生活に介入するようになった。それでも、できるだけ「小さな政府にしたほうがいい」というのが耕介さんの主張なのですね。  考察として興味深いのは、「紛争処理の三つの理念」 (122 頁以下 ) です。「真実」と「和解」と「正義」の三つが、三つ巴の構造になっていて、どれかを徹底的に追求すると、どれかがおろそかになる。重要なのはバランスで、厳罰と恩赦のバランス、事実告白と司法取引のバランス、対立を生みかねない真実の解明と和解のバランス、こうしたバランスを考えないといけない。その場合の政治的なバランス感覚はみなさん異なるでしょうが、このバランスのとり方について、もっと理論的に考察する余地があるだろうと思いました。問題提起として興味深いです。  また耕介さんは、社会契約論が重要だと述べています (184 頁以下 ) 。社会契約論というのは、社会を原理的に正当化するための理論的な道具です。それにはしかし、多様な理論があって、一つの理論に対しても多様な解釈が出てくる。それでも社会契約論というのは、たんなる言葉遊びではなくて、「どんな人も、生きていく上でぶつかる問題とし

■どんな投票制を採用すべきか

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    松本雅和『公共の利益とは何か 公と私をつなぐ政治学』日本経済評論社   松本雅和さま、ご恵存賜りありがとうございます。    大変すぐれた教科書(テキスト)だと思います。簡潔でありつつ、内容が濃く、知的に興味深い事柄がたくさん詰まっています。  投票で、「一票の測られ方」の正統性を考えるとき、できるだけ死票を無くすのか、それとも、政権を担う政党の交代可能性を高めるように配慮するのか。民主主義の理念の根幹にかかわる問題が生じますね。  これと、一票の「インテンシティ」をどのように政治に反映させるか、という問題もあります。たとえば、選択肢(立候補者)に対するランキング評価(誰が一番よくて、誰が二番目によくて、というランク)を投票できるようにするとか、あるいは複数票を用いて、人々は各自、分散して投票できるようにするような仕組みです (127) 。この点で、会社法 89, 342 条が参照されている点が、参考になりました。  こうした複数投票制を実施する場合、人々が戦略的に行動することが問題となりますね。人々は、「本心」としては「あいまいな意思」もっているに過ぎないかもしれません。ところが投票する場合、そのようなあいまいな意思を裏切って、熱狂的な仕方で、一人の候補者にすべての複数票を投じるかもしれませんね。 こうした戦略的な投票は、もちろん一票の場合にも生じるでしょう。自分としてはどちらの候補者でもいいのに、どちらかに投票する、ということが起きるわけです。

■アイン・ランドの思想は利己主義と異なるセルフィッシュネス

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    アイン・ランド『セルフィッシュネス 自分の価値を実現する』田村洋一監訳、オブジェクティビズム研究会訳、 Evolving   田村洋一様、ご恵存賜り、ありがとうございました。   アイン・ランドの翻訳です。この本は、以前にも翻訳が出ていましたが、今回、ナサニエル・ブランデンが執筆した部分を、はじめて訳して収録した、ということですね。これは 2,5,6,16,18 章であり、全体としてかなりの量になります。 アイン・ランドの思想を知りたいのであれば、以前の翻訳書で十分ですが、しかしブランデンは、アイン・ランドの弟子にして愛人であり、彼が何を書いているのかは興味深いです。 実際に読んでみると、「セルフィッシュネス」という言葉の意味の広がりを、よく理解することができました。ブランデンによって、アイン・ランドの思想がうまく語られているという面があります。 例えば、セルフィッシュネスとは道徳であり、それは、奇跡や啓示や禅の「無心」など、現世的な言説から離れたところに求める道徳ではないということですね。 あるいは、社会のために奉仕するとか、自己犠牲を払うというのは、セルフィッシュネスの倫理に反するけれども、しかし「愛する人のために自己を犠牲にする」ことは、セルフィッシュネスの道徳であるということですね。 「より高い価値」と「より低い価値」があるとき、「より高い価値を犠牲にしてはならない」というのも、セルフィッシュネスの道徳であるとされます。ランドのいう「セルフィッシュネス」は、いわゆる「利己心」とは異なりますね。 決まり切った定型的な仕事をしている人は、自尊心を欠いており、その意味で、セルフィッシュネスの道徳をもっていないのですね。 セルフィッシュネスの道徳は、人間にとって知的に成長する能力が無限の発展の可能性を与えることを教えてくれます。これもまた、いわゆる「利己的」という言葉の意味とズレていますね。 およそ以上のようなことを、ブランデンは主張しています。リバタリアンとして知られるアイン・ランドの人間観を、ブランデンがこのように解説しているわけですが、これは私が「成長論的自由主義」と呼んでいる思想と近いです。自分の中の内在的な高次の価値を追求せよ、ということになるでしょう。 いわゆる利己的な人とは、このような

■貨幣ポイントが溜まる「新しい公共」に向けて

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    西部忠 『脱国家通貨の時代』秀和システム   西部忠さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   本書の結論部分は、「グッド・マネー」と呼びうる最近の地域通貨について紹介しています。地域を活性化するために、 1% のプレミアムを付けて地域通貨を発行する一方、一年後には減価するように工夫する。するとその貨幣は地域経済の活性化につながります。加えて、このような地域通貨は、その地域のコミュニティ・アイデンティティ意識を高め、人々の帰属感を高めることにも資するでしょう。  問題はしかし、現在の法制度の下では、このような地域貨幣は、 3 年間以内の流通に限定しなければならないという、期限がついているのですね。この期限を延長するためには、特別な申請をして承認される必要がある。ですが最近では、そのような事例はあまりないようですね。  日銀の貨幣とともに地域通貨が流通すると、これは貨幣の複数化と呼ぶことができます。しかし地域通貨の価値が日銀貨幣にペッグしているかぎり、貨幣は複数になっても、取引コストはあまり高くないでしょう。地域通貨がデジタル貨幣になれば、取引コストはさらに下がるでしょう。 はたして「脱国家通貨」といえる地域通貨、つまり日銀貨幣にペッグしない地域通貨の発行が許される日が来るでしょうか。そのような脱国家化された地域貨幣が、コミュニティ意識を高めるという段階が訪れるでしょうか。訪れたとして、それはどのような経済効果をもたらし、どのような意味での「グッド・マネー」になるでしょうか。そのようなことに関心がわきました。  いまのところ、ある地域で、携帯電話のあるアプリを利用してたくさん歩いたことを証明すると、地域通貨のポイントが溜まる、という取り組みがあるようですね。これは地域の観光を刺激するもので、つまり地域にお金を落としてくれるであろう観光客に、観光することに対して貨幣的なインセンティヴを与えるものですね。  こうした発想を拡大して、図書館や体育館を利用したら貨幣ポイントが溜まるとか、そのポイントを誰かに贈与できるようにするとか、あるいは SNS と連動させてローカルな言説を盛り上げていくとか、いろいろなアイディアが生まれます。

■音楽通のための情報サイト4選

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    那須耕介さんと音楽 (1)   那須耕介さんが亡くなられて、 2 か月が経ちました。 改めまして、心よりご冥福をお祈りいたします。 先日、那須さんの友人の伴智一さまから、那須さんが利用していた音楽新譜情報サイトについて教えていただきました。これらのサイトは、私が那須さんと情報共有していたものとぴったり重なるものでしたので、以下に記します。   http://taiyorecord.jugem.jp/ 大洋レコード。東京の神楽坂にある CD のセレクトショップです。主に、ブラジルや、アルゼンチンなど、ラテンアメリカ諸国のマイナーな輸入盤を扱っています。那須さんはこの店の店主と仲良くなって、店主のおすすめの CD をいろいろ買っていたようです。通好みで、音楽性を徹底的に追求した CD が多いです。最初はピンと来なくても、聴き込む価値があるような CD を、私は那須さんからいろいろご紹介いただきました。   https://musica-terra.com/ 世界の音楽情報 Música Terra (ムジカテーハ)。比較的新しいサイトです。大手音楽情報メディアで取り上げられることの少ない、世界中のすぐれた音楽を紹介することを、サイトの理念としています。 もちろんタワーレコードや HMV などの CD ショップ・サイトでも、かなり多くの CD 情報がデータベース化されています。しかしこれらのサイトにも載らない、もっとマイナーな CD で、音楽的に優れたものがたくさんあるのですね。あるいは CD 化されていないものもたくさんあります。 YouTube でもほとんどアクセスされていないような音楽ですが、すばらしい音楽を徹底的に紹介しています。感謝です。   http://www.rootsworld.com/rw/ ルーツ・ワールド。世界の民族音楽の CD を紹介するサイトです。こちらも徹底的に紹介しています。那須さんは、よくこれだけ多くの情報を検討して、吟味していなあと関心します。このレベルまで聴き込めば、きっと世界に溶け込むことができるでしょう。   https://worldmusiccentral.org/ ワールド音楽セントラル。このサイトは、私から那須さんに紹介したものかもしれま

■どんな憲法改正でも、成立すれば合法なのか

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    ヤニヴ・ロズナイ『憲法改正が「違憲」になるとき』山元一/横大徳聡監訳、弘文堂   瑞慶山広大さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   世界中の憲法改正を比較分析するという、憲法学の新しいアプローチですね。若手憲法学者による、体系的な成果であります。  かりに日本で憲法改正が成功した場合、その改正された憲法を、司法は違憲立法審査によって棄却することができるでしょうか。通説というか、一般的な憲法解釈によれば、それは難しいのですね。苫米地事件・最高裁大法廷判決 (1960) において示された見解では、憲法の改正は、最終的には、国民の政治的判断に委ねられているのだと解釈するのが正当なのですね。  しかし本当にこれでいいのか。日本においても、理論的・制度的に、憲法裁判所を創設するための知的資源の蓄積と構想案をめぐる議論を始めないといけないですね。 むろん、それよりもまず、日本人は、憲法改正の検討を、積極的に始めないといけない。フランスでは、 1791 年から 1990 年までの 200 年で、 20 回の憲法改正がありました。さらに 1990 年以降、現在までの約 30 年間に、 19 回も憲法を改正しています。二年に一回以上のペースですね。  こうした憲法改正は、ポピュリズム政治によって悪しき方向に向かう可能性もあります。そのような可能性を防ぎつつ、健全な仕方で憲法改正のための制度的・立憲的な基盤を作っていくことが重要ですね。  ホンジュラスでは、大統領の任期を、一期に限定することが憲法に記されています。ホンジュラスの国会は、これを改正する立法を成立させました。ところが、ホンジュラスの最高裁判所は、この立法を「無効」としたのですね。 その後、最高裁判所の裁判官のうち四名が議会によって解任されるということが起きます。これはもう、立法と司法の争いですね。このような争いを調停する機関はありません。最終的には、選挙で国民の判断を仰ぐ、ということになるでしょう。