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■世界の中心がインドとアフリカに移っていく

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広井良典/大井浩一編『 2100 年へのパラダイム・シフト』作品社 広井良典さま、大井浩一さま、ご恵存賜りありがとうございました。 2100 年、世界人口の予測では、一位がインドで 16.6 億人。二位は中国で 10.0 億人。これに続く人口大国は、ほとんどアフリカの国々ですね。世界の中心が、いろいろな意味でアフリカ大陸になっていく。そうした人口動態上の予測を踏まえて、日本も未来設計をしなければなりません。 1900 年から 1950 年頃までは、アメリカと西欧諸国を合わせれば、世界 GDP の 50% 以上を占めることができた。ところが 2030 年には、それが 30% にまで減ると予測されています。アメリカも西ヨーロッパも、もはや経済の中心地ではなくなっていく。そういう長期的なトレンドを念頭において、世界を考えなければなりません。

■日本発の独創的なリバタリアニズムの思想が現われた

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福原明雄『リバタリアニズムを問い直す』ナカニシヤ出版 福原明雄さま、ご恵存賜りありがとうございました。 大変すばらしい思想書であり、オリジナルな議論だと思います。世界的にみても、新たな視角でリバタリアニズム思想の幅を広げています。このような知的冒険の成果を一冊に結晶化されましたことを、心よりお喜び申し上げます。大変な刺激を受けました。 自己所有権を正当化するさいに、その人格が一定の道徳能力をもっていて、その能力には優劣があるとしても、人格としては「等しい存在」として扱われなければならないこと、またその人格は、ノージックによって、「自分の人生に対して意味を付与する能力」をもった存在として尊重されていること、こうしたことは「自己著述性 (self-authorship) 」として表現できる、というわけですね。 しかしこの authorship という言葉は、それだけを取り出してみれば、人間がたんに「意味」を付与するというだけでなく、「自分の人生の物語を書く」という、もっと高い能力を要求していないでしょうか。この「物語を書く権利」を売ることができるかどうかです。できるとすれば、そこにおいて想定されている人格とは、権利を売り買いする決定権をもった人、という意味になるでしょう。そうするとメタ・レベルで想定されているのは、「自己決定権(性)」ではないでしょうか。 もちんこれは理論上の問題であり、私は他者とその権利を売買しなくても、勝手に他者の物語を書くこともできます。他者のプライバシーについては書けなくても、他者の人格としての物語については、書くことができます。しかしこのような authorship は、問題にならないのかもしれません。 authorship に注目した場合に、それは他者の前に現れる人格について書くことの権利ではなく、他者のプライバシーについて書く権利を売買する、ということを想定してもよいかもしれません。ここら辺、 authorship 概念の十分な検討が必要のようにも見えます。 最終的には、この authorship はあまり効いてこないようで、リバタリアニズムの分配原理について擁護する際には、「意味ある生を送る機会の十分性」という基準が大切であるとされています。この「意味ある生」は、私たちがどんな社会で生

■筋痛性脳脊髄炎(ME)という名称で難病指定を

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山脇直司『私の知的遍歴』デーリー東北新聞社 山脇直司さま、ご恵存賜りありがとうございました。 慢性疲労症候群というミスリーディングな病名がついているために、難病の指定を受けることができない人たちがいるのですね。その方々を支援する会があります。この会は、この慢性疲労症候群の名前を、「筋痛性脳脊髄炎 (ME) 」という、世界的に共通の名前にするように働きかけています。 星槎大学の細田満和子さんは、この会に関係されていて、この会を通じて、山脇先生は、星槎大学との縁があったということなのですね。なるほど、そのような経緯があったことについて、初めて知りました。とてもいい縁ですね。

■自由な学習の場が政治統合を可能にする

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橋爪大三郎『フリーメイソン 秘密結社の社会学』小学館新書 橋爪大三郎さま、ご恵存賜りありがとうございました。 フリーメイソンは、理神論に立脚する結社で、 18 世紀のアメリカでは、ベンジャミン・フランクリンも加入しています。アメリカでは 38 代までの大統領のうち、 14 人が加入していたのですね。かなり多いですね。 キリスト教がいくつにも分裂して、政治的にいろいろなスタンスをとる宗派が現われる一方、フリーメイソンは政治的に中立で、信仰を問わずにメンバーになることができた。そうした事情から、社会を統合するための政治的な機能を果たすことができたのですね。 「フリー」というのは、もともと職工組合をベースとして、そのなかでも市民と同等の権利をもっている人(税金を納めるだけの所得がある)、あるいは、特別な技術を持っているために税金を免除されている人、さまざまな労役を免除されている人、そういう身分の人たちを意味する言葉です。 秘密結社といっても、秘密というのは、握手の仕方とか、儀礼の仕方ですね。そういう内容について秘密にしても、それほど重要な事柄ではないようにみえますが、おそらく身分を問わずにだれもが会員になれる平等な組織において、結束力を高めるために必要なのでしょう。それから、フリーメイソンに入会すれば、相互学習を通じて、高めあうことができる。それは大学に行くことがまだ特権的であった時代に、人々に広く学習の場を提供したということでしょう。 そのような自由な結社、自由な学習の場を作ることが、国の政治的な統合機能を果たしたことは興味深いです。

■森嶋通夫の「東アジア共同体」論

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西部忠編『リーディングス戦後日本の思想水脈8 経済からみた国家と社会』岩波書店 西部忠さま、ご恵存賜りありがとうございました。  戦後日本の経済思想において、重要な諸論文が抄録を含めて掲載されています。こうして集めてみると、その豊かさに思考を喚起されます。  森嶋通夫は晩年に、「東アジア共同体」の構想を提起しました。  それによると、東アジアの共同体組織では、民主的な意思決定のために、中国を五つの地域に分ける。これに加え、南北の朝鮮と、台湾を加え、そして日本は二つの地域に分けて加える。これで 10 の地域からなる共同体組織によって、民主的な意思決定をしようというわけですね。ただ中華圏の比率が大きいので、均衡化のためには、南北朝鮮と東西日本は、一票の重みをそれぞれ 1.5 倍にすることも考える、というのですね。   EU の場合、首都はベルギーのブリュッセルにあります。東アジア共同体の場合も、首都は、大国にあってはなりませんね。そのような観点から、沖縄が独立して、沖縄に首都をおくべきだというのですね。沖縄は、徳川末期までは、中国と日本の領国に属する状態にあったわけであり、日本から独立する余地があるのだとも。 またこのようにすれば、沖縄の繁栄が約束されるというわけですね。  しかしこのように、 EU をモデルにして、東アジアの共同体を構想すると、かなり難しい政治的判断になることが分かります。

■自分の選好がヴェールにつつまれている場合の選択

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亀本洋『ドゥオーキン「資源の平等」を真剣に読む』成文堂 亀本洋様、ご恵存賜りありがとうございました。  大金がかかるエベレスト登山こそが、人生において何よりも大事と考える人がいるとします。そのような人が、ローマー的な仮想保険に加入したら、たまたま高所得に当たったときには高額の保険料を取られてしまい、エベレストに登ることができません。低所得に当たったときは、そもそも保険に入っていても、資金が足りず、登れませんね。エベレストに登りたい人は、仮想保険に加入するインセンティヴがないでしょう。  しかしドゥオーキンは、「仮想的質問に唯一の答えはない」とか「ほぼ全員が平均的な保険を買ったとしたら」という具合に、こうした境界的な事例をうまく論理的に避けているようですね。あるいは「無知のヴェール」の前提の下では、自分がエベレストに登りたいかどうかについても知らない(あるいはそのような選好がある一定の確率で与えられることを知っている)ことになりますから、保険に加入する可能性が高くなりますね。  ドゥオーキンの場合、こうして、特定個人の選好は、その個人が責任をもって引き受けるべきものとはみなされないわけですね。およそ国家の正統性を考える場合、こうした思考実験はたしかに有効であると思います。  この他、ジョン・ローマーのドゥオーキン批判は、誤解を含んでいると。 ドゥオーキンの「仮想保険構想」には、特定個人ベースの保険と、平均人ベースの保険が混在している。それによって豊かな議論になっているけれども、分かりにくい。  二つの視点、すなわち特定個人と平均人のバランスに留意しないと、ドゥオーキンを誤解することになるというわけですね。

■新渡戸稲造の帝国主義的な側面

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𢎭和順・佐々木啓編著『新渡戸稲造に学ぶ ― 武士道・国際人・グローバル化』北海道大学出版会 権錫永さま、ご恵存賜りありがとうございました。  新渡戸稲造は、国際主義者、自由主義者であると同時に、帝国主義者でもある。そういう矛盾した面を持っている、というのですね。 新渡戸稲造は、エッセイ「枯死国朝鮮」(全集第五巻、 80-82 頁)のなかで、朝鮮人が「有史前期に属する」として、土葬を基本とする「死の風習」について書いています。 土葬なので、朝鮮の山野は墳墓に満ちている、と。また、道端には埋葬されるべき柩(ひつぎ)が並んでいる、と。 新渡戸は、こうした観察から、風習の社会的意味を、朝鮮という国の「死」に結びつけている。他の人が書いた同時代の朝鮮旅行記と比較すると、新渡戸はまるで、朝鮮の「死」の兆候を集めることを目的としているようだ、という指摘は重く受け止めなければなりません。

■文化財の「拝観」は宗教的行為なのか

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京都仏教協会編『古都税の証言』丸善プラネット 京都仏教協会さま、ご恵存賜りありがとうございました。  古都税を課税するかどうかをめぐって争われた際の根本的な問題は「寺院拝観行為は、宗教行為なのか、それとも、世俗的な文化鑑賞行為なのか」ということですね。  京都市は、世俗的な美術鑑賞行為であるとの観点から、間接的な課税の対象にしました。しかし、国が所有している文化財ならともかく、民間が所有している文化財に対して課税するのは難しい。課税されるくらいなら、文化財の所有者は、それを見せない、という意思表明をすることができますからね。  寺院拝観行為に対して「課税すべきではない」という場合の論理は、「拝観」という、一見すると、外形的で非本質的とみなされるような行為ですらも、内心の信仰を形成するための、重要な宗教的役割を担っている、ということなのですね。  拝観だけでなく、儀式への参加や、坐禅体験などは、宗教の本質とは異なる世俗的な行為と言われるかもしれませんが、問題は、世俗と宗教のあいだに、どのような線引きが可能なのか、国民の間に合意がなければ、判断することは難しいです。  私たちの社会は、十分に世俗化しているのではなく、拝観を含めた宗教行為への非課税によって、非世俗的な世界へとつながっている。この事実に、改めて驚かされます。

■「人生に充足する」とは、いかなることか

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奥村隆編『作田啓一 vs. 見田宗介』弘文堂 鈴木洋仁さま、ご恵存賜りありがとうございました。  作田啓一の四象限図式で、「個別主義(封鎖性)」 vs 「普遍主義(開放性)」、「業績本位(超越性)」 vs 「属性本位(内在性)」という二つの対立項の組み合わせがあります。  これで、 「業績本位の個別主義」は「貢献」、  「属性本位の個別主義」は「和合」、  「業績本位の普遍主義」は「業績」、  「属性本位の普遍主義」は「充足」、  という分類になるのですね。しかしいま考えると、この分類は奇妙です。  「貢献」とは、達成された業績に対する評価とは関係なく、むしろどれだけ尽力したのかについての評価を人格に帰属させるものであります。業績は「達成」のみを評価する(だから個別に達成を評価することもある)、貢献は「プロセス」を含めて評価する(そのプロセスを客観的かつ公平に評価することもある)、ということでしょう。業績というのは、相互に比較する際に、普遍的な基準があるわけではないですね。  「和合」とは、ある集団のなかで、自分がどのような役割を与えられているかによって、自分の属性を評価するということでしょうか。そのような属性評価がけっして「充足」を導かないというのは、とても興味深い判断です。「充足」とは、ある集団から解放されて、自らの存在を、普遍的な地平において見いだす、そのような高度な心性なのでしょうか。それはカトリック的な普遍主義の愛においても可能なのでしょうか。  「充足」の概念が、「業績」と対比されているという点も、価値観点として興味深いです。

■水道を使わなくても水路建設の費用を負担すべきか

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横濱竜也『遵法責務論』弘文堂 横濱竜也さま、ご恵存賜りありがとうございました。  ある住民Aさんが、自分で井戸を掘って、生活に必要な水を賄っていました。 ところが隣人たちは協力して、遠くの川から水を引くための水路を建設しました。Aさんも恩恵を受けることになりました。 はたしてAさんは、自分の井戸を使っている場合でも、水路建設にかかった費用の応分を負担しなければならないでしょうか。 184 頁  「そなんことはない」というのがシモンズの議論ですね。  水道や、高速道路などは、もし使わないのであれば、その人に対して応分の負担を求めるのは公平ではありませんね。  応分の負担を強制できるのは、例えば国防費です。 しかし国家は、「国防のためには「高速道路」が必要だ」というかもしれませんね。あるいは「国防のためには「通信ネットワーク」も必要だ」というかもしれませんね。すると住民は、高速道路や電話を使ってなくても、そのための費用を負担させられるかもしれませんね。 クロスコは、必要不可欠な財を供給するための道具を「裁量財」と呼び、こうした公共財もまた、人々が公平に負担しなければならないという論理を導きます。  しかしこうした「裁量財」の正統化は、たしかに論争の余地があります。  ある住民が私費で、耳寄り情報を仕入れて流すという「街頭放送」をしていました。ところがあるとき、私費での運営に限界を感じて、町の住民たちに聴取料を徴収すると言い出しました。これは正当化されるでしょうか。怪しいですね。耳寄り情報がなくても、人々は生活していくことができます。  つまり、負担が公平だからと言って、その公平性は、ある課税を正当化する根拠にはならないわけですね。公平性は道具的価値であって、それだけでは正当化根拠にならない、と。ここでの横濱さんの議論は、かぎりなくリバタリアンに共鳴しているとの印象を受けました。

■国家から独立した市民意識というのは幻想か

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八木紀一郎『国境を超える市民社会 地域に根ざす市民社会』桜井書店 八木紀一郎さま、ご恵存賜りありがとうございました。   2014 年、北河内におけるアンケート調査では、「市民団体」「経済団体」「自治会役員」「市政・公共機関関係者」のリーダーたちにそれぞれ質問をして分析しています。  興味深いのは、「地域の将来目標」について尋ねたところ、さまざまな質問項目に関する「グループ別」の分類で、「市民団体」と「自治体役員」のそれぞれのリーダーは、ほぼ同じような意識を持っているということです。  いずれも、「健康で安全」を重視しています。そしていずれも、「創造的な地域」への関心は希薄です。 261 頁。「市民」というのは、自治体的・公務員的な発想とあまり区別されない、ということですね。しかも創造性がない。  ただこれは、五点、四点、三点、二点、一点、というウェイトづけによる評価を問う質問ですので、別の質問方法では差が出るかもしれません。  市民団体と自治体役員の意識がかりに同じであるとすれば、国家と市民社会の分離というのは、意識の上では現れない。どちらも共通の問題に取り組むことになる。そうなると市民社会は、国家から独立した活動領域をもつというわけでもなさそうです。  そのような印象をもちました。

■小泉信三は社会主義者

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楠茂樹/楠美佐子『昭和思想としての小泉信三』ミネルヴァ書房 楠茂樹さま、楠美佐子さま、ご恵存賜りありがとうございました。  小泉信三は、共産主義を批判して自由主義を擁護した論客として知られていますが、各種の社会保障制度の拡充を支持していたのですね。その意味では、福祉国家論者の一人であって、ハイエクとは立場が異なります。  社会政策には、どこまでが資本主義を傷つけるもので、どこまでが資本主義を傷つけないものなのかという境界線が明確ではありません。小泉は、社会政策には限度がないという理由から、社会保障を進めることで社会制度は原則的に変わらざるを得ないと考えます。問題は、社会保障制度というものは、一夜にして出来上がるものではなく、そこには漸進的な態度が必要になるということです。その意味で「保守」のスタンスをとるわけですね。  しかしいずれにせよ、ハイエクからみれば小泉は社会主義者だという評価なのですね。社会保障制度をどこまで拡充するのかについて、実践的・実証的なレベルで判断するのが小泉であるとすれば、ハイエクは思想家として、規範理論的な次元でその境界線を明確にしようとしたわけですね。

■パソコンを使う人/使わない人

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遠藤薫編『ソーシャルメディアと〈世論〉形成』東京電機大学出版局 遠藤薫さま、ご恵存賜りありがとうございました。 2002 年の調査データによれば、 PC インターネット利用者と非利用者のあいだで何が有意な差が出たのかと言えば、「孤独感」ではなく、「競争不安」とか「達成重視」という点だったのですね。パソコンを使うと孤立するというわけではなく、むしろ、競争することに不安感をもつようになるとともに、なにかを達成しなければならないという価値意識も高まるというわけですね。  これはつまり、学歴社会、競争社会のなかで、いっそう達成を要求する社会へと組み込まれていくことを意味しているのかもしれません。