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■みんなで決めるとなぜ正しいのか

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エレーヌ・ランデモア『民主的理性 みんなで決める政治の正しさ』上・下、福家佑亮 / 小林卓人 / 小須田翔 / 田畑真一 / 山口晃人訳、勁草書房   訳者の皆さま、ご恵存賜りありがとうございました。    民主主義の意思決定のあり方を、本書は迷路のメタファーを使って説明します。ある集団が迷路で迷ったとき、どうやって意思決定をすれば、出口を発見することができるのか。出口を発見する手がかりは、迷路の壁に、いろいろな言語で書かれているとします。ピクトグラムや、方程式の形で、コード化されていることもあるとします。  このような条件の下で、迷路を脱出することが、集団にとっての課題だとしましょう。すると私たちは、民主的に意思決定した方がうまくいく、というのですね。もちろん、時間に制約がある場合は、解決策は異なってくるでしょう。  しかしどうでしょう。本書の著者を含めて、民主主義的な意思決定が望ましいと主張する人は、 (1) 解決策となる選択肢が、選択肢の中にすべて出そろっていること、そして (2) 意思決定に必要な時間が無限にあること、この二つの条件を想定します。 迷路の例では、選択肢は、分岐する道のみです。ところが実際の政治においては、新しい選択肢 = 道が生まれます。新しい政策を誰かが提案することで、別の方向に向かうことができます。また、実際の政治においては、意思決定の時間は制約されています。この二つの条件を導入すると、民主的な意志決定は必ずしもうまくいかない、という議論になるでしょう。  著者も認めるように、「結局、集合的意思決定の最も賢明な形態は混合政体である」 (31) ということかもしれません。しかし本書は、意思決定の純粋な形態に焦点を当てるのだ、と言います。  本書の独自の主張は、ロールズのいう「公共的理性」との対比で、「民主的理性」を擁護することです。理想化された公衆の理性の用い方を前提とするのではなく、とにかく分散した知性を集団で用いる。そうすれば理性は最終的に、熟議を通じて公共的なものになっていく、というのですね。  公共的理性と民主的理性の対比。これは面白いですね。 ここで民主的という言葉には、「認知的多様性」の意味が含まれています。ポピュリズム的な多数派の、画一的な理性ではないのだと。...

■相続税にリニャーノ原理を

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ダニエル・ハリデー『財産を相続するということ 遺贈と正義の政治哲学』大澤津 / 原田健二朗監訳、阿部崇史 / 宮本雅也 / 辻悠佑 / 榊原清玄 / 石田柊訳、勁草書房   訳者のみなさま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   格差について論じるとき、所得の格差に加えて、相続する財産の格差も問題です。相続税を累進的に引き上げて、公平な財産相続の制度を作っていく。そのために本書が提案するのは、保守的な発想と進歩的な発想の組み合わせたものです。 まず、自分の子どもに財産を相続させるときは、「相続税をゼロ」にする。しかし、自分の子どもが、自分の財産を孫に相続させるときには、相続税を課すことにする。さらに、その孫が、ひ孫に対して自分の財産を相続させるときは、追加で相続税を課していく。こうして相続税の税率を、継承される世代の数に応じて、累進的にしていく制度が望ましい、というのですね。 継承される世代の数に応じた累進的相続税という考え方は、かつてイタリアの財政学者リニャーノが提案したものでした。本書の著者も、基本的にこのリニャーノの考え方を支持しています。 しかしリニャーノ原理に基づいて相続税を課すことは、実際には難しいです。そこで、これに似た課税方法を考える必要がある、というのですね。 例えば株です。株式を相続する場合、そこにキャピタルゲイン税を課すことができます。株は、相続するときにはすべて売らなければならないことにして、そしてその利益に対してキャピタル・ゲイン税を課す。このような考え方ですね。   1970 年代に、ミードは累進的資産取得年税を主張しました。これは、資産に対する税率を、その資産を所有する期間の長さによって増大させていく、という提案です。この課税を実施すると、先祖代々受け継いできた土地に対しては、高率の資産税が課されることになるでしょう。すると、農地であれ森林であれ、土地は、ある程度先祖から継承したら、別の人に売った方がいい、ということになるかもしれません。この課税を逃れるに、ある共同体では、土地を相互に売り買いすることが、慣習になるかもしれません。税逃れの道は残されているでしょう。 けれども最近、アイルランドでは、この種の税制が採用されたのですね。これは調べてみる価値があります。  著者は、...

■嫌悪感を示すことは美徳になる

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スーザン・バンディス『法と感情の哲学』橋本祐子監訳 / 訳、小林史朗・池田弘乃訳、勁草書房   橋本祐子様、訳者の皆さま、ご恵存賜りありがとうございました。   ダン・カハンの論稿「進歩主義者よ、嫌悪感を活用せよ」を興味深く拝読しました。  例えば、レイプ、児童虐待、拷問、大量虐殺、強盗殺人・傷害などに対して、私たちはたんなる「義憤」を示すだけでなく、「嫌悪感」を示すことが「美徳」となる。この嫌悪感を示さないと、残酷さを究極の悪徳とすることはできない、というのですね。  しかし問題は、さまざまな社会集団が、さまざまな事柄に対して、異なる嫌悪感を表明する場合です。例えば、人種、民族、ジェンダー、身体的・精神的ハンディキャップ、性的指向に基づくヒエラルキー、などについてです。  進歩主義者は、異なる人種や民族に対して嫌悪感を表明することは、美徳ではない、悪徳である、と考えるでしょう。  では、小児性愛者やサディストに対する嫌悪感はどうでしょうか。彼らは「他者に危害を与える恐れがあるから」という理由で批判されるべきなのでしょうか。それとも「その行為自体が卑しむべきであるから」という理由で批判されるべき(そして嫌悪感を表明すべき)なのでしょうか。  カハンによれば、「リベラリズムがとるべき正しい道は、嫌悪感を消し去ってしまうことではなく、私たちが真に価値あるものを評価し、真に価値が低いものを軽蔑するようになるよう、嫌悪感の対象を改めること」 (82) だと言います。  これは、リベラリズムが中立的な立場をとるのではなく、ある明確な価値体系にコミットすべきだ、という主張です。著者は、刑法の領域でも、リベラリズムは嫌悪感を示していくべきである、というのですね。  ではここで、小児性愛者やサディストが、想像上のコンテンツで自分の欲求を満たしているとしましょう。この場合、進歩主義者やリベラリストは、その行為自体に嫌悪感を示すべきでしょうか。刑法上の問題は起きないと想定します。それでも道徳的な嫌悪感を示すべきだ、というのがリベラルな道徳なのかもしれません。これに対して LGBTQ+ に対しては、道徳的な嫌悪感を示すべきではないのだと。  刑法上の判断における法感情の表明と比較して、このような法的に問題にならない領域で、...

■保守主義とは、偉くなってから社会を変える立場なのか

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川瀬貴之『やさしくておそろしい法哲学講義』 PHP   川瀬貴之さま、ご恵存賜りありがとうございました。    先日( 7 月)、イスタンブールのグラン・バザールの近くで偶然お会いして、久しぶりに会話を楽しみました。  保守主義とは、本書によれば、理想主義と対比される現実主義です。世界平和とか人類の救済といった「大きな理想」よりも、自分の足元の問題を整理することから始めます。社会の改革を成功させるためには、まず社会のなかで偉くなって、勝てる力を備えてから変えていく。このような発想が、保守主義だというのですね。  例えば、自分は社会のなかで、周辺的な存在だ、と感じているとしましょう。その場合、社会を変革するために、たくさん勉強して、弁護士になるとか、政治家になるという野心を持つ人もいるでしょう。ではそのような人は、保守的なのでしょうか。 その人が掲げる社会変革のビジョンは、保守的な場合もあれば、革新的な場合もあるでしょう。しかし発想として、社会のなかで偉くなるために、まず他者とうまくやっていく。ケンカはしない。批判もしない。その意味で、従順な生き方をする。そのような人生の戦略が、保守的だ、というのですね。  すると保守的な人にとって問題は、偉くなったら社会をどう変革するのか、ということでしょう。「偉くなりたいなら自民党へ、社会を変えたいなら野党へ」という言葉は、中道改革連合代表の小川淳也が、最近発したメッセージでした。しかし小川さんも基本的には、東大から官僚へ、というエリート・コースを歩んできたわけで、偉くなるコースだった。偉くなった後に、社会変革するために野党で政治家になった。これは保守的であるようには見えません。  繰り返すと、保守主義にとって重要な問題は、偉くなったら社会をどう変革するのか、です。その変革の方向性は、保守でも革新でもありうるのだと思いました。  

■市場と環境の好循環

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ティム・ミンシャル『世界は〈モノ作り〉でできている』田畑あや子訳、作品社   作品社編集部さま、ご恵存賜りありがとうございました。    本書は、さまざまなモノ作りの現場を歩いて、いろいろな知見を伝えています。とくに後半が面白かったです。持続可能な世界のために、私たちは何をどのように生産すればよいのかという問いに、迫っています。  住居、食品、衣料。これらの領域では、製造業の根本的な見直しが必要というのですね。これらの商品を安価に迅速に供給する現在の製造システムは、人類の長期的な生存の可能性を自ら損なうシステムになっているのだと。   1920 年代のシステムは、デザインを変えて古いモデルを陳腐化し、新しいモデルを購入させるようにするものでした。しかもそのようなビジネスは、賢明だとみなされていました。古いものを使って新しいものを買わないのは、利己的だ、という人まで現れたのですね。 このビジネスは、いまでも通用しています。消費者が新しいモデルを買わなくなったら、古いモデルをリバイバルさせて、新たに売ればよい。そのような方向に消費が成熟していくこともあります。 本書は、 Carbin Re’ や、ジーノロジアや、ブリティッシュ・シュガーといった会社のように、ゼロ・ウェイストを自発的に目標にすることが、結果として市場における競争力を増すという、市場と環境の好循環を展望しています。すぐれた製造業者が生き残る。私たちは消費者として、そのような社会を手助けすることができるでしょう。政府もそのための制度条件を作ることができるでしょう。 では、どんな政策が必要なのか。また私たちは、どんな情報に注目して消費すればいいのか。本書は実践については述べていません。面白いのは、本書のペーパーバック版のあとがきに、本書に寄せられた質問がリスト化されていることです。 「修理可能性」を考慮した設計が必要ではないか。 「修理可能性指数」の国際版は、手がかりになるのか。 こうした問題に、私も関心を持ちました。すでに検討している人がいるかもしれません。

■米国のMAGAは軍事行動を批判する

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三牧聖子編『「アメリカの戦争」と世界危機』岩波新書   三牧聖子さま、ご恵存賜りありがとうございました。     2026 年 2 月以降の米国とイスラエルのイラン攻撃は、自衛権の行使ではありません。国連安全保障理事会の承認を得てもいません。これは明らかに国際法違反である、というのが米国の国際法学者の見方です。  ところが日本政府は、当初は米国政府に追従し、その後は「アメリカ・イスラエルの軍事行動には国際法上の問題がある」として、その軍事行動から距離をとるようになりました。  背景には、イタリアのメローニ首相が、「反戦」という圧倒的な世論の勃興を受けて、「イランに対する戦争には参加しません」と表明したことがありました。メローニ首相は、イタリアの国益を守るために戦争に反対する、と言います。日本も国益を守るために、最善の対応をとらねばなりません。最善の対応とは、国際法と法の支配を重視して、米国の行動を批判することなのか。リアリストの観点から考えると、そうではない、ということになりますが、いろいろなリアリストの見方があるはずです。  一方で、今回の米国とイスラエルによるイラン攻撃について、米国の世論は、攻撃開始直後にハメネイ氏が殺害され、大きな軍事的成功を収めた後でも、 3 割程度しか攻撃を支持していませんでした。これは、ベトナム戦争から撤退する時の戦争支持率と、ほぼ同じです。つまり米国民は、今回は最初から戦争を支持していない。  米国には MAGA という言葉があります。「アメリカを再び偉大に」という意味です。この MAGA は、歴代の政権が中東への軍事介入にのめりこんだことを批判し、雇用や治安などの国内問題に政治資源を注ぐべきだ、という意味で使われてきました。しかしトランプ政権は、 MAGA を掲げながら、 MAGA を裏切っている。 実際に、トランプの岩盤支持層 =MAGA の一人であるジョージ・ケント(米国家テロ対策センターのトップ)は、イラン戦争に抗議して辞任したのですね。ケントによれば、トランプ政権は、イスラエルとそのロビー活動団体によって、イラン戦争へと誘導されてしまった。このような関係を改めなければならないと。  今後の米国政治で、 MAGA は戦争支持派と戦争反対派に分裂するのかどうか。注視してい...

■人生は贈与のリレー

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濱田治寿『北のザネリ』   濱田治寿さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は濱田さんの人生と思考を凝縮した一冊ですね。裏表紙に、「まだ語られていないことを語ろうとした記録。美しい「贈与」の物語から、完済不能な「負債」の物語へ。遺された者が、死者と共に生きるための連続論考集」とあります。  私たちは、周囲の人々からいろいろとお世話になって、いろいろ受け取って生きています。ところが、その周囲の人々が、しだいにこの世を去っていくのです。すると自分は、「お返しできなかった」という負債感を抱きます。その人の死を、負債感とともに受けとめます。  ある文学作品を読んで、その作品をとても気に入ったとしましょう。人生観まで変わったとしましょう。しかしその作家はすでに死んでしまったとしましょう。するとその作品は、作家からの贈り物です。支払った金額には見合わないほどの影響力を、自分の人生にもたらしました。  私たちは、このような贈り物によって、自分の人生を築き、生きています。先代たちからの贈り物を受けとることは、とても豊かなことです。自分が働いた対価としてお金をもらうことよりも、圧倒的な贈与によって、自分の人生観が作られていくのですから。  しかしそのような贈与は、同時に、負債感をもたらします。自分の人生は、他者からもらうばかりで、申し訳ない。ではどうすればいいのか。  一つの答えは、それでも日常生活を淡々と生きる。他者からの贈与を、日々の生きる糧〔かて〕にする、ということです。  もう一つの答えは、圧倒的な負債感をもって、苦しくても生きるということです。苦しんだ人と、「共苦 = 共受苦( = コンパッション)」の感覚を共有する。そのような倫理観を持つことです。  第三の答えは、自分も他者に対して、贈与しながら生きることです。他者から受け取った贈り物は、圧倒的です。これに対して自分が他者に対して提供できる贈り物は、ごく限られたものです。しかしそれでも、贈与する。文学作品を読んで感動したら、自分も作品を書いてみる。自然環境に感動したら、その自然環境を維持するために活動する。いろいろな贈り物を受け取って、別の贈り物を作っていく。他者との等価交換ではありません。贈与のリレーであり、贈与を通じたネットワークです。 ...