投稿

■巨大IT企業を分社化すべきか

イメージ
松井暁『入門 資本主義 私たちの生きる世界』地平社   松井暁さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。     2024 年 8 月、米国の地方裁判所は、グーグル社が「検索」と「広告」の市場で、競合他社を競争から排除したとして、反トラスト法違反の判決を下しました。  つまりグーグル社は、独占企業だというわけです。ではグーグル社を分割して、自由競争を促すべきでしょうか。 米国民主党の議員、エリザベス・ウォーレンは、巨大 IT 企業の独占を解体すべし、と訴えています。また、 2021 年にバイデン大統領は、連邦取引委員会の委員長に、左派のリナ・カーンを任命して、独占資本を制約する方向に、法の改正をすすました。このように米国では、左派が中心となって、独占を批判し、自由競争を求めています。  しかしマルクス主義は、別の発想をするというのですね。   (1) 独占であれ自由競争であれ、資本主義は望ましくない。   (2) 独占の解体は、消費者に不利益をもたらす。   (3) 独占を解体しても、巨大企業が支配する社会構造を根本的に解決することはできない。   (4) いかなる独占が国民にとって不利かは分からない。  マルクス主義は「左派」と言われますが、米国の「左派」とは正反対です。マルクス主義者の提案は、巨大企業の民主的規制であり、労働条件の改善であり、地域経済への配慮であり、消費者の保護であり、情報の公開だ、というのですね。そしてさらに、巨大企業を公有化していくべきなのだと。  グーグル社を分社化するか、あるいは分社化せずに、その株式を米国がすべて保有する方向に変革していくのか。この違いです。  私の関心から言うと、グーグル社のような巨大企業については、株式の保有を強制的に分散させることが望ましい。各国はその国民が利用する割合に応じて、株式を保有する。そのように義務づける。これはほとんど不可能に見えますが、このような政策をした場合に何が生じるか、考えてみる価値があると思いました。

■ニーズで読み解く経済思想

イメージ
中村隆之『今こそ経済学を問い直す 切実な「必要」の声を聴くために』講談社現代新書 中村隆之さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は経済思想史を、「必要(ニーズ)」の観点から描いた入門書です。「必要」の概念を、私たちが「ほんとうに求めるもの」という意味で使っています。  では私たちが「本当に求めるもの」とは、何でしょうか。それは「公益」と言い換えることができます。あるいは「構造的な不正義がない社会」と言い換えることもできます。  本書は「公益」について、「企業の社会的責任( CSR )」を検討しています。また「構造的不正義」について、苦汗産業で働いている労働者に対する搾取、女性差別、精神障碍者差別、地球環境問題、などを検討しています。企業が社会的責任を果たして、労働者が搾取されない、女性が差別されない、精神障碍者が差別されない社会。そして地球環境問題を解決できる社会。これらが、私たちか本当に欲しているものだ、というのですね。その通りだと思います。  本書の第六章で提案されているのは、企業に対して、利益の一定割合を、 CSR に使うことを義務づけることです。これは具体的には、公益財団や NPO のような組織に、企業が寄付して、社会的貢献をアピールする、ということですね。しかも、たんにステイクホルダーたちの必要を満たすのではなく(公益資本主義ではなく)、ステイクホルダーにならない人たちの必要も満たさなければならないのだと。  ではどうやって、社会の「必要」を、企業の取り組み全体で満たしていくことができるのでしょう。そのためのヒントとして、ポズナーとワイルの共著『ラディカル・マーケット』で提案された、投票システム案が参考になるというのですね。各人は、 100 ポイントをもっている。そしてこの 100 ポイントを、解決してほしい社会問題に、割り振っていく。そのような投票をすることができれば、社会全体で、どの問題が重要なのかが民主的な手続きで可視化されるでしょう。  しかし問題は、この投票システムで、ポイントを割り当てる社会問題の選択肢をどのように構造化するかです。「投票選択肢の構造化」の問題です。うまく構造化しないと、人々のニーズをつかむことが難しいでしょう。解釈のバイアスが生まれます。 いずれにせよ、このよ...

■脱成長社会を考える

イメージ
江原慶『資本主義は、なぜ限界なのか 脱成長の経済学』ちくま新書   江原慶さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    わたくしたちの資本主義社会は、いま物質的な限界に直面しています。脱炭素化を進めないと、大きな気候変動(地球温暖化)を避けることができません。そのコストは膨大です。誰も正確には計算できないでしょう。  では物質的な意味での経済成長を求めず、非物質的な意味での経済成長を目標とすることは、望ましいでしょうか。  望ましいです。でも人間はとても愚かなので、結局、非物質的な経済成長を求めても、物質的な生産を縮小できない、というわけですね。だからグリーン・ニューディール政策は、無理なことをしているのだと。  これは人間の愚かさの問題だと思います。頭で理解できても、実践できない。そのような愚かさを抱えた人間は、何をすべきなのか。  一つの考えは「脱成長」の理念にコミットすることです。「脱成長」には、いろいろな意味が含まれていますが、経済学的に定義すると、 GDP ( = 経済成長)を定常にすることではなく、 GDP は上がったり下がったりすることを認めつつ、資本蓄積を抑制する、ということになるのですね。  剰余労働によって生まれた利潤を、再投資した場合、それは、資本が追加的に蓄積されたことを意味します。このような資本蓄積を抑制して、利潤をすべて資本家と労働者の間で分配する(そして消費する)。そうすると「脱成長的市場経済」になります。  そしてさらに、この利潤もゼロにして、つまり剰余労働をしないことにして(禁止して)、経済を回していく。このような利潤ゼロの経済が、「脱成長的コミュニズム」なのですね。  脱成長的市場経済も、脱成長的コミュニズムも、すでにある資本を投資する経済システムであることには変わりません。イノベーションも起きるでしょうし、新たな知識(ノウハウなど)が発見されて、それが分散的なシステムを通じて広まることもあるでしょう。  以上の概念的な整理で、もう一つ検討に値するのは、利潤をすべて環境に投資する経済です。これは環境成長的な投資型市場経済になるでしょう。これはレトリックの問題ですが、脱成長が目指す環境の持続可能性に投資することになります。いわば脱成長志向の成長主義です。私はこの可...

■哲学者バーンスタインの自伝的回顧

イメージ
  リチャード・ J ・バーンスタイン『プラグマティズム的邂逅』斉藤直子訳、法政大学出版局   斉藤直子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    この本の第一部は、バーンスタインの自伝的な内容を含んでいます。 バーンスタインは、哲学(とくにプラグマティズム)とどのように出会って、そしてどのような哲学者人生を歩んできたのか。  まず高校で、文学や音楽や芸術の喜びを感じて、知的な目覚めを経験したというのですね。そして当時、真の知識人になりたかったら、シカゴ大学こそ唯一の場所だと信じられていたので、自分もニューヨークのブルックリンからシカゴに行ったのだと。  ところが大学院で、哲学を研究しようと志して、ヘーゲルに関する授業を受講したら、難しすぎてついていけない。怖気〔おじけ〕づいてしまった、というのですね。しかしそれでも、ヘーゲルについて議論できるようになった。これが人生を変えることになったのだと。  シカゴ大学の大学院に進学して、ヘーゲルを読んだけれども分からない。でも議論できるようになった。それでいい、ということですね。議論できると、自信がつく。それでいいのだと。  ところで、その当時のアメリカでは、分析哲学が流行していてました。バーンスタインはしばしば、「あなたは哲学をしているのですか、それとも哲学史に関心があるのですか」という質問をされました。哲学をすることは、哲学史を勉強することではなく、分析哲学をすることだとみなされていたのですね。  しかし分析哲学は、真に哲学的な思考とは言えない。バーンスタインはそのように考えます。では、バーンスタインは、真に哲学的な思考を見つけたのかどうか。それは分からないですね。  バーンスタインは、ユダヤ人で、当時、イェール大学で助手をしていたころ、ようやくユダヤ人も大学教授として採用されるようになった。それでバーンスタインも、イェール大学で、常勤職につけるかもしれない、というチャンスが回ってきました。ところがバーンスタインの人事は、きわめて政治的な問題になったのですね。  結局バーンスタインは、イェール大学での常勤職を得られませんでした。しかし、教授会の決定に対して、学生たちが抗議をします。 2000 人の学生が、デモ行進をして、さらに学長室の周りで...

■ドゴールの中道政治

イメージ
吉田徹『居場所なき革命 フランス 1968 年とドゴール主義』みすず書房   吉田徹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    以前にお送りいただいた本ですが、改めて拝読しました。 本格的な政治研究の書です。ここまで掘り下げて研究すると、見えてくるのは、ドゴール大統領(任期は、① 1944 年 6 月 3 日 - 1946 年 1 月 20 日、② 1959 年 1 月 8 日 - 1969 年 4 月 28 日)というのは、たんなる中道の政治家ではなく、保守と革新という二極の要求を、うまく両立させていくところに、その政治手腕があるのだと思いました。 「ドゴール主義」から私たち日本人が学ぶべきは、なによりも「国民投票(レファレンダム)」の意義でしょう。ドゴールは任期期間中に、五回も国民投票を実施したのですね。共和制憲法の制定、アルジェリア民族自治権付与、アルジェリア休戦協定、大統領の直接選出、地方化と上院の改革。これらの国民投票で、かなり政治の仕組みを変えたのですね。 1968 年は、学生運動のピークでした。当時のフランスにおいては、大統領も政権も、学生運動も野党勢力も、だれも事態を把握できないという、権力の空白状態だったのですね。そうしたなかでドゴール大統領は、労働組合の要求を大幅に受け入れていく。実際には、労働組合の力はそれほど大きくなかったのですが、それでも学生と労働者が共に戦うことで、労働者の最低賃金の引き上げや、時短などが認められていく。 その時のドゴールの政治的手腕を、どのように説明するのか。本書の分析を面白く読みました。 当時の左派の要求は、理想が高すぎた。自分たちの要求を、どうやって現実的な政策に落とし込んでいくのか、そして社会を機能させるのか。見えていなかった。そうしたなかで、労働者たちがストライキをすることは、大きな社会的ロスだった。 ドゴール大統領は、左派知識人たちが抱く理想とは別に、「下からの民主的要求」をうまくくみ上げて、労働者たちの「生活に基づく要求」を実現していく。しかも労働者が労働へのインセンティヴを保てるようにした。そのような政治手腕を発揮したのですね。

■怪物政治家、ミッテラン

イメージ
吉田徹『ミッテラン 現代フランスを率いた理想と野望』中公新書   吉田徹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    とても興味深く読みました。政治家というのは、政治信条で動くのではない。それでも大きな政治的変革を成し遂げることができる。ミッテランという政治家は、そういう怪物だというのですね。  ミッテランは、フランス大統領を二期務めます。最初は社会党から立候補して、大統領になる。そして社会党の政策を推進した。ところが、途中から真逆に向かって、新自由主義の政策を推進していく。ミッテランは、そのようなことができてしまった。  これは、あまりにも政治信条のなさを示していると思います。「政治屋」と揶揄する人も多いようですね。しかし権力を保持できるなら、信条を変えてもかまわないと発想するのがミッテランです。  社会党の長老モレは、ミッテランが社会党の党首になったとき、次のように言いました。「彼は社会主義者になったのではなく、社会主義者のように喋ることを学んだだけであって、これは無視しえない違いなのだ」と (133) 。  ミッテランのように、ある思想の言葉を巧みに使う政治家は、どの政党にもいるでしょう。学者の場合も、状況は似ていると思いました。マルクス主義について雄弁に語るのだけれども、ぜんぜんマルクス主義に信条を抱いていない、というような。 他方でミッテランは、 46 歳( 1974 年)のときに、 19 歳のアンヌと恋をします。そしてそれから、 30 年以上もいい関係を続けるのですね。 そしてミッテランが 58 歳のときに、一人娘のマザリーヌを授かっています。これはミッテランにとって第二の家族なのですが、その詳細について、なんと娘のマザリーヌが後に哲学教員になって、自分の父(ミッテラン)と母(アンヌ)のあいだの大量のラブレターと日記をそれぞれ公刊したというのですね。そしてこれらの資料は、当時の政治を知るうえで第一級の資料なのだと。 ミッテランは 80 歳で亡くなりますが、その直前にも、アンヌに対して熱烈なラブレターを書いています。とても驚きました。  

■AIの進化とゼミのスタイルについて

イメージ
AIの進化とゼミのスタイルについて     AI の進化を受けて、研究と教育のスタイルが大きく変容しつつあります。この一年間で、次のようなことが可能になりました。   ChatGPT や Gemini などの AI を使えば、    ・卒論を書くことができる。(どんなテーマで卒論を書いたらいいですか、と尋ねると、テーマを提案してくれる。そして AI が書いてくる。)  ・レジュメを作成することができる。  ・報告者の発表内容に対して、効果的な質問を作成することができる。  ・パワーポイント資料を作成することができる。  ・レポートや感想文を書くことができる。  ・おすすめの本の紹介を書くことができる。・・・    つまり、ゼミの課題のほとんどを、 AI がやってくれるようになりました。これはこの一年間の AI の進化によるものです。   AI は今後、研究者に代わって、研究論文を書くようになるでしょう。すると先生も生徒も、大学で何をすべきなのか。 AI を使って、よい卒論や研究論文を書いても、その成果によって心が満たされることはないはずです。最近の AI の進化は、教育と研究の意義を、根底から覆すような事態を招いています。  私たちはいずれ、自分よりも高い知性をもった存在としての AI に敬意を示し、 AI に仕える奉仕人になるのかもしれません。すると一つの理知的な宗教が生まれ、これに帰依した人が高い社会的地位を獲得するという、新しい階層社会になるのかもしれません。これはまるで、ニーチェのいう「超人」の世界です。このように考えると、暗い気持ちになってしまいます。  いまの段階で、大学教育に必要なことは、まだ AI ができないことをする、ということでしょう。具体的に、   ・プレゼンテーションをする。  ・外国語をしゃべる。  ・インタビューをする。  ・グループでディスカッションをしながら作業を進める。・・・    こうした活動によって、大学生は、 AI とは別の能力を磨いていくことができます。ゼミのスタイルも、このような方向に移行していきたいと思います。 もちろんこうした能力も、いずれは AI に代替されて、不要になるかもしれません...