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■現代リベラリズムはどこへ行く

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宇野重規 / 加藤晋 / 井上彰編『リベラリズム 基礎からフロンティアまで』東京大学出版会   執筆者のみなさま、ご恵存賜りありがとうございました。    リベラリズムといえば、ロールズの『正義論』や『政治的リベラリズム』などが有名です。本書はこうした内容に加えて、最新の議論を紹介しています。 現代のリベラリズムは、「自由」ではなく、「正義」を問題にしている。なぜ自由よりも正義のほうが重要なのか。そしてまた、自由や民主主義よりも「正義」のほうが重要なのか。これは、政治哲学の根本的な問題ですね。   J.S. ミルは『代議制統治論』で、「複数投票制」を提唱しました。まずすべての人に、一人一票を保障する。そして、高等教育の学位を保持している人や、専門職に就いている人には、追加で一票を与える。これはたんなる民主主義ではなく、能力主義(メリトクラシーではなくエピストクラシー)を反映した民主主義です。 ミルは、「質の高い効用」をもつことが、功利主義的な意味で「快楽の増大」であると考えました。ミルのこの考え方は、リベラリズムなのかどうか。「正義」の観点からいえば、リベラリズムではありません。しかし「自由」の観点から見れば、リベラリズムである、と言えるでしょうか。  民主的な議論の手続きと多数決は、それをうまく組織化すれば、よりよい政策を正当化できます。しかし、民主的に議論したとして、人々の正解率が、ランダムな正解率よりも低い場合は、どうでしょう。(この問題の立て方が間違っているでしょうか。) 民主主義は、多数決の政治が暴走しないために、リベラリズムのいう「正義」の理念によって、制約を受ける必要があります。また民主主義は、それがよりよい解答を導かない場合には、エピストクラシーによって補われる必要があります。このエピストクラシーは、ミル的な意味で、リベラリズムの一つの形態と解釈できるかもしれません。  この他、グレゴリー・マンキューのエッセイ「トップ 1% を擁護する」についての紹介があります。   N. Gregory Mankiw (2013) “Defending the One Percent,” Journal of Economic Perspectives, vol. 27, no. 3, S...

■マクロ経済学の教科書は進化していない

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  金子昭彦 / 田中久稔 / 若田部昌澄『経済学入門 第 4 版』東洋経済新報社   若田部昌澄さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    私がはじめて経済学の入門書を読んだのは、もう 40 年前でした。ですが本書の目次を見て、その内容があまり変わっていないことに驚きました。例えば第 12 章は、マンデル = フレミングモデルです。これは国際金融の理論であり、私が学部生のときにゼミで勉強した内容でもありました。とても懐かしい。 続く第 13 章は、総需要 - 総供給モデルの説明であり、最後は終章「今後の学習のために」で終わっています。  マクロ経済学というのは、この 40 年間、入門書のレベルでは、安定した内容を提供してきた。そしてその内容が、時代に取り残されているわけでもない。「パラダイム科学」として再生産されている。見方によっては「停滞している」とも言えますが、いったいどうなのか。この分野の学問の将来が気になります。

■国連は一時的ベーシック・インカムを推奨

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  法政大学大原社会問題研究所 / 岡野内正編『世界のベーシックインカム運動 歴史・現状・展望』法政大学出版局   永嶋信二郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ベーシックインカムは思想史的にみて、右派と左派の立場からそれぞれ提起されているのですね。そして現在でも、右派の一部と左派の一部がそれぞれベーシックインカムを支持しています。しかし左派の方が、この政策に訴えることが多いですね。複雑な状況を理解しました。  イギリスにおけるベーシック・インカムの起源として、トーマス・ペインとトーマス・スペンスの二人がよく参照されます。ペインは、私有財産制と市場経済の下で、高齢・障害・出産・育児に対する普遍的な社会保障を提案します。これに対してスペンスは、土地を自治体のコモンズとして共有し、その地代から得られる利益を、普遍的に分配するという提案をしたのですね。いずれも 1797 年の提案であることも興味深いです。   20 世紀前半のイギリスでは、ミルナー『国家特別手当の計画』 (1918) や、リズ・ウィリアムズ『新しい社会契約』 (1943) など、ベーシックインカムの具体的な提案が構想されましたが、採用されませんでした。 1942 年の『ベヴァリッジ報告』に基づいて、社会保険制度が確立されていきます。  ベーシックインカムは、たんなる福祉国家主義ではなく、もっとラディカルな左派からの提案だったのですが、その場合の「ラディカル」の意味は、福祉の提供に際して、受給者の生活世界に対するミクロ権力を回避するということです。  現在、ベーシックインカムが、右派と左派に共通する関心になっている事情について、以下の文章を引用します。  「 BI[ ベーシックインカム ] は一般的なイメージとして、左派的ないしは社会主義的な傾向を持つ政党を含む運動団体や活動家などの間で見られる政策とされることが多いが、必ずしもそうではない。むしろ、英国やアイルランド共和国では、 BI をめぐって、いわゆる経済的新自由主義ないしリバタリアンの立場からの議論や保守系政党からの政策提起が存在し、具体化に向けた議論の推進力となっている点を見落としてはならない。」 (216) 南野泰義「新自由主義経済政策が生み出した社会的緊張への政治...

■快楽は、満足させられる欲望の量と時間に依存しない ゲーテ

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  ピエール・アド『生きることを忘れるなかれ ゲーテと精神的修練の伝統』村松正隆訳、法政大学出版局   村松正隆さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ゲーテは、ストア派に霊感を受けただけでなく、東洋とペルシャ文学を発見してから、イスラムにも霊感を受けたのですね。 1815 年の『西東詩集』では、「イスラム」が神への帰依を意味するなら、われわれは皆、イスラムのうちに生き、かつ死ぬ、と書きました。  ゲーテは、「われわれは皆、イスラムのうちに生き、かつ死ぬ」というフレーズを気に入っていてたようです。よく取り上げたのですね。  本書の最初の章がとても面白かったです。  「快楽は満足させられる欲望の量に依存しないばかりか、なかんずくそれが続く時間の長さにも依存しない。快楽は、絶対に完全であるために長時間続く必要はない。「無限の生の時間は、私たちが有限と理解しているこの生の時間が味わわせてくれる以上の快楽を味わわせることができるわけではない。」」 (28)  快楽の頂点というのは、「魂の完全な平安を保証するもの」だというのですね。この頂点があれば、時間は関係ないのだと。  しかしこれは、人生において、自分の魂の頂点を経験することではなく、現在という時間が、すべて頂点になりうるということです。それは、過去と未来について考えずに、現在に集中する能力を前提としています。これは人格の成長を前提とするのではなく、人格が成長するにせよ、そうでないにせよ、「いま生きて在る」ことの歓びを、快楽として感じられるということですね。では、そのために必要なことは何か、という問題になりますが、本書は第二章で、やはり「精神の高み」に達するための「修練」を前提としています。  精神の修練、人格の成長、という想定があってこそ、「いま生きて在ることの歓び」がある。それはなぜかと言えば、私たちの欲望が歓びの源泉にならず、欲望以外の快楽が感じられるようになるからでしょう。そのような快楽は、欲望を脱して、絶対性と完全性を備えているのでしょう。  そのようなことを考えてみました。

■民主主義に将来世代の代弁者(オンブズマン)を

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田村哲樹 / 山本圭『現代民主主義理論ハンドブック』ナカニシヤ出版   田村哲樹さま、山本圭さま、執筆者のみなさま、ご恵存賜りありがとうございました。   「自由民主主義」という用語は、 19 世紀につくられたのですね。自由民主主義は、社会主義体制との対比で、市場経済をベースとした民主主義の体制を表す言葉として流通しました。 Andreas Schedler (2002) “The menu of manipulation,” Journal of Democracy 所収の論文は、興味深いです。法の支配や健全な官僚制をもった「自由民主主義」、法の支配がなく官僚制も健全ではない「選挙型民主主義」、まともな選挙がなされていない「選挙型権威主義」、選挙がそもそも有効ではない「閉鎖型権威主義」の四つのタイプを区別しています。もちろん、実際の政治政体には、うまく分類ではない形態もあるでしょうけれども、さまざまなタイプの政体を論じています。  現代の問題は、「自由民主主義」が経済成長や社会の繁栄を約束するわけではないということでしょう。別の体制の方が、経済成長するかもしれない。そのような余地があるので、自由民主主義を維持することが困難になっています。  自由民主主義はなによりも、悪しきポピュリズムをまねく「フェイクニュース」や「ヘイトスピーチ」や「キャンセルカルチャー」に対処しなければなりません。 フェイクニュースは、 SNS で拡散する可能性があるので、これを禁止する( SNS 業者に公的義務を課す)。あるいは、 SNS がフェイクニュースであふれるとしても、フェイクではないニュースを無料で提供するメディアを、助成金によって育てるような仕組みが必要です。  この場合の「自由」とは、議論を通じて「真理」に到達する可能性(知識の成長論的・認識論的な想定)です。  この他、現代の民主主義で、将来世代の意思をいかにして民主的に取り込むか、という問題があります。 以下のような文献があるようです。 Linehan, J., & Lawrence, P. (Eds.). (2025). "Giving Future Generations Human Rights." Waite, C., et al. (2...

■お金があれば芸術活動をするだろう ハイエクの人間観

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  池田幸弘『自由・秩序・進歩 ハイエク『自由の条件』を読む』慶応大学出版会   池田幸弘さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。     F.A. ハイエクは『自由の条件I』で、政府が芸術活動を支援するための方法を考えました。本書は、次の文章を引用しています。   もしわれわれに、そのような集団を生み出す、よりよい方法が分からないとすれば、人口全体から百人に一人あるいは千人に一人を、無作為に選び、かれらが何を選択しようとそれを追求するに十分な資産を授けるのをよしとする有力な議論があってよいだろう。 191 頁、邦訳 176 頁。     100 人に一人、あるいは千人に一人、政府が無作為に莫大な資産を授けたとしましょう。するとその人は、何をするでしょうか。おそらく一定の割合で、芸術活動をするでしょう。無駄遣いする人もたくさんいるでしょうし、奢侈的な消費生活をする人もたくさんいるでしょう。けれども文化が成熟すれば、ある程度まで、人々は芸術活動をするだろうと期待できます。  もちろん政府ではなくて、富裕層が芸術家の活動を支援する、という方法もあります。保守主義者であれば、この方法に賛成するでしょう。しかしハイエクは、保守主義者ではありません。富裕層が芸術活動を支援することを認めますが、それ以外のアイディアを検討します。  芸術活動は、たんに市場に任せるだけでは、あまり発展しません。市場で売れる芸術は、真の芸術ではないことが多いです。そこでハイエクが検討するのは、くじ引き制でもって、無作為に莫大な資産を誰かにあげる、という方法なのですね。  市場経済を擁護するハイエクは、金儲け第一主義ではなく、むしろ人間は、お金があればそれ以上に儲けようとしない、芸術に向かう人間だ、という楽観的な期待があったのですね。  もちろん、金儲けを優先する人もいます。しかしそうではない人もいる。これはリアルな人間観ですが、ハイエクはさらに、リアルな人間観を超えて、人間の文化的欲求に対して楽観主義的だった、といえるかもしれません。

■二宮尊徳と松下幸之助はリベラル

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  岸泰正『経営哲学と人間観 経営学者の形而上学的論理に対する批判的考察』中央経済社   岸泰正さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    この本には、日蓮上人から稲盛和夫にいたるまで、著名な日本の経営者・経営思想家の 42 人のリストがあります。これを見ると、いろいろな思考を喚起されます。  日本で重要な経営思想は、仏教や儒教を背景にしているため、宇宙との関係で人間を捉える点が共通している、というのは興味深いです。宇宙と人間の関係を、どう捉えるのか。形而上学的ですね。  しかしそれ以上に、本書の最後まで読み進めると、日本の経営思想が、どこまでリベラルなのか(人間の個性と多様性を尊重するのか)、という問題を検討していて、これが興味深いですね。   246 頁の図 8-8 は重要です。鈴木正三、石田梅岩、渋沢栄一、稲盛和夫は、反リベラルだという評価ですね。これに対して二宮尊徳と松下幸之助は、リベラルだったという評価なのですね。  人間と宇宙の同一化を求める思想は、個人の違いを尊重しない傾向にあります。しかしそうした中で、どのようにして他者を尊重するのか。そのような哲学・経営思想を読み解くと、リベラルの価値が析出されます。  二宮尊徳と松下幸之助は、いずれもナショナリズムの道徳という観点から評価されがちですが、そこにリベラルな要素を読み込んで、リベラルなナショナリズム、リベラルな集団主義(会社主義)という立場として評価できる。これは思想研究の成果として、重要だと思いました。