■嫌悪感を示すことは美徳になる
スーザン・バンディス『法と感情の哲学』橋本祐子監訳 / 訳、小林史朗・池田弘乃訳、勁草書房 橋本祐子様、訳者の皆さま、ご恵存賜りありがとうございました。 ダン・カハンの論稿「進歩主義者よ、嫌悪感を活用せよ」を興味深く拝読しました。 例えば、レイプ、児童虐待、拷問、大量虐殺、強盗殺人・傷害などに対して、私たちはたんなる「義憤」を示すだけでなく、「嫌悪感」を示すことが「美徳」となる。この嫌悪感を示さないと、残酷さを究極の悪徳とすることはできない、というのですね。 しかし問題は、さまざまな社会集団が、さまざまな事柄に対して、異なる嫌悪感を表明する場合です。例えば、人種、民族、ジェンダー、身体的・精神的ハンディキャップ、性的指向に基づくヒエラルキー、などについてです。 進歩主義者は、異なる人種や民族に対して嫌悪感を表明することは、美徳ではない、悪徳である、と考えるでしょう。 では、小児性愛者やサディストに対する嫌悪感はどうでしょうか。彼らは「他者に危害を与える恐れがあるから」という理由で批判されるべきなのでしょうか。それとも「その行為自体が卑しむべきであるから」という理由で批判されるべき(そして嫌悪感を表明すべき)なのでしょうか。 カハンによれば、「リベラリズムがとるべき正しい道は、嫌悪感を消し去ってしまうことではなく、私たちが真に価値あるものを評価し、真に価値が低いものを軽蔑するようになるよう、嫌悪感の対象を改めること」 (82) だと言います。 これは、リベラリズムが中立的な立場をとるのではなく、ある明確な価値体系にコミットすべきだ、という主張です。著者は、刑法の領域でも、リベラリズムは嫌悪感を示していくべきである、というのですね。 ではここで、小児性愛者やサディストが、想像上のコンテンツで自分の欲求を満たしているとしましょう。この場合、進歩主義者やリベラリストは、その行為自体に嫌悪感を示すべきでしょうか。刑法上の問題は起きないと想定します。それでも道徳的な嫌悪感を示すべきだ、というのがリベラルな道徳なのかもしれません。これに対して LGBTQ+ に対しては、道徳的な嫌悪感を示すべきではないのだと。 刑法上の判断における法感情の表明と比較して、このような法的に問題にならない領域で、...