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■マルクスのエコロジー論

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マルチェロ・ムスト編『マルクス・リバイバル キーワードと新解釈』斎藤幸平 / 佐々木隆治 [ 監訳・解説 ] 、地平社   岩熊典乃さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ジョン・ベラミー・フォスターの第 10 章「エコロジー」(岩熊訳)を、拝読しました。 1970 年代から 1980 年代にかけて、第一段階の環境社会主義者たちは、マルクスの自然論を低く評価していたのですね。そしてこの低評価を前提に、マルクス主義のグリーン化を模索したのだと。 けれどもマルクスは、実際には、自然破壊を糾弾していた。環境破壊の危機を認識していたのですね (271-273 頁 ) 。マルクスは「持続可能な農業生産」についても言及しています (275 頁 ) 。 問題は、マルクスの思想的な観点です。 271 頁を参照すると、マルクスは、いわば設計主義的理性の観点から、自然を意識的に支配し、自然を荒廃させないようにすべきだ、と考えていたようにみえます。しかしマルクスは、実際には、設計主義的理性の限界も理解していた。 設計主義的な理性によって、自然の限界を乗り越えることができるのか。言い換えれば、環境破壊を乗り越えて、技術的にこの問題を克服できると考えるのか。マルクスはそうではなく、自然の限界(壁)を、設計主義的理性(技術)によって乗り越えようとすると、「資本と自然のあいだに矛盾が生じる」と考えたのですね (277 頁 ) 。マルクスは技術万能主義者ではなかったのだと。 1880 年に、マルクスは、ポドリンスキーの未発表の初稿から、非常に広範なメモを取った、という事実は興味深いです。 結論として、マルクスとエンゲルスが『聖家族』で描いた革命的プロレタリアートの関心が、一般化されています。環境問題(エコロジー的危機)に対処することは、私たちの課題であり義務である。そしてまた、革命的なエコロジー運動は、環境民主主義的な局面を経て、幅広い同盟の構築を目指すべきである。そのようなことが提唱されています。 以上のようなマルクス派のエコロジー論には、多くの点で同意できます。問題は、マルクスのエコロジーを、たんに学説史的に再構成するのではなく、もっと思想的なレベルでバージョンアップする思想家が現れないといけない。そのようなことを感じました...

■人間が非利己的になる経済ビジョンとは

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アルフレッド・マーシャル『経済学原理 第四巻』西沢保 / 藤井賢治訳、岩波書店   西沢保さま、藤井賢治さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    マーシャルは、当時の人々が「だんだん非利己的になってきた」ことに注目するのですね。そして将来的には、人間が人格として進歩する可能性があるのだと。そのような希望と展望をもって、経済政策を舵とる。そのような視角が見えてきました。   226 頁では、人々が現在の安楽や享楽をがまんして、将来、自分の家族が「より高尚な」生活をするために貯蓄していることが指摘されます。一方で、長時間労働はすでにピークに達し、今後は労働時間を減らしたいと思う人が増えるだろう、とマーシャルはみています。  当時は、粗野な生活を満たすことを「安楽」と呼びました。そしてそれ以外の高尚な欲求を含めると、一定の「生活水準」になると考えられました。 その当時、大英帝国で、奴隷を雇う際に、音楽その他の娯楽を経費として計上した方が、労働生産性が高くなる、ということが知られていました。たんに「安楽」の水準を上昇させれば、労働生産性が上がるというわけではないのですね。 (239 頁 )  そして、「労働の強度」が高い場合、長時間労働を続けると疲れてしまうので、短くしないと生産性が上がらない、ということも指摘されます (242 頁 ) 。  しかしマーシャルの考えでは、たとえ労働時間を短縮して労働の生産性を上げたとしても、余暇を上手に使う人が少ない。だから人類が進歩するためには、「若者」に注目して、余暇を上手に利用するように、うまく教育すべきだというのですね。  「現世代にとって最も差し迫った義務は、若者に対して彼らのより高次の性質を伸ばし、有能な生産者になるような機会を与えることである。そして、そのために不可欠な条件は、機械的な労苦から長期間にわたって解放され、これとともに、学校に通い、性格を強化し発展させるような遊びをするための十分な余暇が与えられることである。」 (276-277 頁 )  この発想は、社会的投資国家の原型と言えるでしょう。  

■寄付は未来社会への投資

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  『寄付白書 2025 Giving Japan 2025 』日本ファンドレイジング協会   坂本治也さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 ご論稿「寄付とは何か、寄付は何をもたらすか」を拝読しました。 寄付とは「公共的な贈与」なのですね。 一般に、公共的な次元では「正義の再分配」、私的な次元では「私的道徳感情(愛や慈悲など)に基づく贈与」という分類になるかと思います。ですが「寄付」はその中間の行為なのですね。 「正義」「寄付(公的な贈与)」「私的な贈与」。この三つがあって、もう一つは、私的な次元の「正義」もあるでしょう。すると全部で四つですね。「公的正義」「公的贈与 = 寄付」「私的贈与」「私的正義」。これらをどう組み合わせれば、最適な社会になるのか。これが問題です。  かつて明治神宮は、寄付によって作られました。私たち現代人も、寄付によって何か新たな文化を作ることができるかもしれません。  個人寄付の総額は、 2016 年に 7,756 億円でしたが、 2024 年には 2 兆 261 億円になりました。かなり伸びていますが、そのほとんどは「ふるさと納税」です。その一方で、寄付した人の割合は、ほとんど変わっていないのですね。人口の 45% 程度です。  アンケート調査で、「寄付に近い活動は何か」という質問があります。その答えとして、「被災地の応援のために、関連する商品を購入したり現地に旅行したりする」が 46.6% 、「地産地消の実践のために、地元の特産品を購入する」が 35.6% 。この他、「環境負荷・エネルギー・ CO2 の削減に配慮した商品やサービスを利用する」が 14.7% 。(これはこのようなサービスの提供が、情報としてあまり信頼されていないのではないか、と想像します。)「障がい者の雇用や収入につながる商品を購入する」が 30.6% 、でした。  もう一つ、「寄付は未来社会への投資だと思う」かどうか、という質問に対して、「そう思う / どちらかといえばそう思う」と答えた人は、約 60% だったのですね。四年前の調査と比べて増加しています。そして、「将来資産があれば、亡くなる前に一部を遺贈寄付してもよいと思う」と答えた人は、約 45% だったのですね。  これは新しいリベラルの考え方...

■体制に寄生する企業家たちをどうすべきか

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吉田昌幸『企業家像の経済思想』専修大学出版局   吉田昌幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    企業家精神論の系譜学です。このテーマで、考えられるかぎり、最善の成果を出していると思います。枝葉の議論をうまく退けて、メインの系譜を浮かび上がらせています。十分な時間をかけて練られた構成と内容になっていて、初学者にもわかりやすく説明する工夫が随所にあり、全体の枠組みが骨太に構成されています。 とくに新自由主義的な視点が、この研究の一つの重要な柱になっていると思いました。とくに言及されてはいませんが、ドイツのオルドー学派的な、競争秩序の観点です。  それはカーズナーとボーモルの比較です。オルドー学派とは直接関係ありませんが、競争秩序の観点から、この二人に関する議論を興味深く読みました。  企業家の役割と機能とは、いったい何か。この問題を考えるときに、プロ野球の選手と比較する、というのは面白いですね。プロ野球選手の「気質」は、「負けず嫌い」である。その「活動内容」は、「打つ、走る、捕る、投げる」などである。そしてその「システムにおける役割・機能」は、「打者、走者、内野手、外野手、捕手、投手」などである。  同様に、企業家の「気質」は、「進取の気性、好奇心、抜け目なさ」などである。その「活動内容」は、「起業、イノベーション、金儲け」などである。では、企業家が経済システムにおいて果たす役割と機能は、何でしょう。実は、この問題に応えるためには、経済システムについての一定の思想ビジョンがないと、答えられないのですね。学説史を振り返ると、さまざまな論者が、さまざまなビジョンのなかに企業家を位置づけて、企業家の役割と機能を位置づけてきたのですね。  カーズナーの企業家論は、これまであまり重視されなかったのですが、本書では、その含意をさらに引き出して展開しています。( 57 頁の図 2-3 参照。)カーズナーの企業家精神は、不確実性の問題を避けて、価格の差をたまたま「 hunch (直感)」によって発見するという、その能力とその成果によって、企業家の価格調整機能を位置づけます。本書はさらに、カーズナー的な企業家精神によって、新たな(潜在的だった)サービスや能力が発見される、ということに注目して理論を展開しています。  ボ...

毎日新聞のインタビュー記事につきまして、訂正します。

  毎日新聞のインタビュー記事につきまして、訂正します。 先日、小生が受けた毎日新聞の インタビュー記事 で、 私は重大なミスを犯してしまいました。[→すでに訂正していただきました。] 皆様、大変申し訳ありません。 以下、その経緯を記し、訂正します。 私は毎日新聞のインタビューで、高市早苗首相には「小カリスマ」の特徴があると答えました。 その後、新聞記者より、「小カリスマ」とは何か、と質問を受けました。 私は次のように、この言葉の定義を答えました。 "多くの人を引きつける力のある人、という意味です。 これには、人々がそのような人を待望している、という条件が加わります。"と。 すると、新聞記者より、小生へのインタビューを文字化するにあたって、 次のような文章をご提案いただきました。 "高市早苗首相は、宗教的指導者や英雄に見られる非日常的な力を持ち、人々もそのような人に救済を待望する「小カリスマ」だ。"と。 しかし私は、この文章はおかしいと思いました。誤解を招きやすいと思いました。 高市早苗と宗教的指導者/英雄(カリスマ)を同一視しているようにも読めるからです。 そこで、次のような修正案を示しました。 "高市早苗首相は、未来を語るリーダーだ。非日常的な力をあやつる「小カリスマ」の特徴がある。" そして紙面版では、この文章を採用していただきました。 しかし、なんと私は、こともあろうか、勘違いしていたのです。 Web版もこのように修正されるだろうと想定して、Web版の記事の文面を修正しなかったのです。結果として、Web版の記事では、修正されていません。[→その後、訂正されました。] これは私が、しっかり校正しなかったミスであります。 大変申し訳ありません。 新聞記者よりご提案いただいた文章は、私が高市首相を支持している印象を与えますが、しかし私は支持していません。 私が「小カリスマ」という言葉を用いたのは、 あまくでも社会学的な分析の観点からであり、 だからこそ私は、「小カリスマ」の定義に、英雄などを含めず、また、 「人々がそのような人を待望している、という条件が加わります」と加えたのでした。 私は、高市早苗を支持したり、まして魅了されているのではありません。 しかし校正段階で、大きなミスを犯してしまいました。 毎...

■大学教育に対する惜しみない愛

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  小峯敦『経済学史』ミネルヴァ書房 小峯敦編『福祉の経済学者たち 第 3 版』ナカニシヤ出版   小峯敦さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    大学教育に対する惜しみない愛を感じます。  『経済学史』は、ありきたりの教科書ではなく、要所要所で、学生を惹きつけるための興味深い内容が散りばめられています。例えば、水とダイヤモンドはどちらが価値が大きいのか。こうした古典的な問題を紹介する場合にも、少しひねって、ダイヤの消費者余剰と、水の消費者余剰を、一つのグラフの中に位置づけてみるのですね。すると、視覚の効果だけでなく、何かそこから新しい理論を考えるためのヒントになります。  各章の最後には、「練習問題」がいろいろ記されています。この本は 2021 年に刊行されましたが、最近では AI が格段に進化して、このような練習問題は、 AI に質問すれば答えてくれるのでしょうね。 AI が答えてくれない練習問題を載せるわけにもいかないし・・・。  編著『福祉の経済学者たち』も、よい教科書です。この本は、各章の最後に、レポート執筆のためのヒントが載っています。しかしこのヒントに導かれてレポートを書くことも、今年から AI ができるようになりましたね。  いったい大学教員は、 2025 年以降の AI の進化に対応して、学生にどんな課題を求めるべきなのか。どんなレポートでも、ほとんど AI を使って書くことができます。学生たちは、レポート課題を AI でこなして、それで大学を卒業してよいのかどうか。このような疑問は、教員も学生も、同じようにいだいているでしょう。  現在、新しい時代の教科書や授業方法、そして成績の評価方法が求められているのだと思いますが、それがどのようなものになるのか。模索しなければなりません。

■平和教育は「こんにちは」から

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佐藤香織 / 馬場智一編『『存在の彼方へ』を解読する レヴィナス研究の現在』法政大学出版局   加藤里奈さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   レヴィナスの後期の著作『存在の彼方へ』をめぐって、多くのレヴィナス研究者が論稿を寄せています。レヴィナスの哲学には、研究を呼び起こす力がありますね。圧倒されます。 ご高論「人間の聖性と挨拶 教育を語り直すために」を拝読しました。 「あいさつする」というのは、オークショットのいう「社交体」を形成するためのコミュニケーションです。他者を支配せずに、自由でフラットな関係性を保持しながら、平和な社会を再生産する。そのための一つの知恵だと言えます。 しかしあいさつは、たんに社会を円滑にするためにあるのではありません。レヴィナスは、あいさつという振る舞いに、 (1) あいさつする人が、他者を「存在として祝福する」契機と、 (2) 自分が真摯な存在であることを他者にさらけ出すという、リスクを負う契機を見出すのですね。そしてこのリスクに注目する。このリスクは、世俗の社会をこえる契機になるのだと。私たちはあいさつを交わすことで、自己と他者の「神聖性 / 聖性」を高め、聖なるものを共有する共同体を形成することができる。あいさつには、世俗を超えた要素があるのですね。 これに対して、「ようこそ(ウェルカム)」は、他者を歓待する言葉です。この言葉は、あいさつと違って、自己と他者の関係を、共同体の内部と外部に位置づけます。他者を歓待する場所は、「自分の居場所」です。他者はそこに迎え入れられます。 ところが「こんにちは」というあいさつは、このような共同体の内部と外部という境界を想定していません。かといって、あいさつは、共同体内部の関係に限定されるわけでもない。外国人でも、「こんにちは」という言葉を簡単に使うことができるので、言語共同体の親密圏は、開かれていきます。 人は、他者を認識する以前に、他者を気遣うことができるし、他者を祝福することができる。このような能力を発達させて、人々が互いに気遣い、互いに祝福し、互いに平和な関係を築いていくというのは、一つの理想ですね。共同体の境界をこえると同時に、世俗社会の境界をも超えていく。 そのような理想は、教育の課題でもあります。興味深いのは、...