■国際法は、法なのか、それともたんなる道徳か
郭舜『国際法哲学の復権』弘文堂 郭舜さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 国際法は、「法」といえるのか。法だとすれば、その性格はどのようなものか。こうした問題は、私たちが、国民国家体制を超えて、どのような世界秩序をどのように作っていくべきかという規範的な問題に関係していますね。 とくに第二章を読んで、この問題がいかに哲学的に重要であるかということを理解しました。 例えばオースティンのように、法を命令として理解する立場からすれば、国際法というのは、命令する主体があいまいなので、法ではなく、たんなる道徳だということになる。 これに対してハートは、法 = 命令説を批判します。 ではハートは、国際法をどのように理解したのか。ハートは、しかし、国際法が法であることを否定したのですね。法とは何かをめぐって、ハートはある集団を前提として、その集団内でコンヴェンショナルなルールが成立していること前提としています。これに対して国際法は、そのような集団を想定できないので、法律としては成立しない。けれども、ハートの理論によって、国際法を「法」として理解することも可能だというのですね。 興味深いのは、ケルゼンの議論です。国際法には、武力などによる制裁を規定する規範が、限られた範囲でしか存在しない。しかしだからと言って、国際法は法ではない、という言い方をしてしまうと、法による秩序を世界に拡大しようというときに、何もヒントを得られないでしょう。 つまり「法とは何か」という問題は、「法はどうあるべきか」という問いと切り離せない。法の存在論的性格は、法をどう正当化するか、という規範的な問題にかかわってくるわけですね。こうした一連の問題のなかで、これまでの法哲学の貢献を再評価するというのは重要な研究であると思いました。