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6月, 2024の投稿を表示しています

■見田宗介は消費社会に対する見解を変えた

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    山本理奈「現代社会論の課題」『思想』 2023 年 8 月号   山本理奈さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    雑誌『思想』の本号の特集は、「見田宗介 / 真木悠介」です。 見田先生は、 1937 年生まれ。 2022 年 4 月 1 日に逝去されました。改めて、心よりご冥福をお祈りいたします。  見田先生は『現代社会の理論』(岩波新書)で消費社会論を展開したのですが、その後、この本の増補版で、考え方を改めたのですね。 初版では、「自由な市場システムをとおしてであっても、自然収奪的でなく、他社会収奪的ではない仕方で、情報化 / 消費社会化を永続することは可能なはずである」、と見田先生は書きました。  しかしのちの増補版では、そのような可能性に「人間は永久に依存しつづけることはできないだろう」として、 21 世紀の課題は、「〈自由な社会〉という理念を手放すことなしに、現在あるような形の「成長」依存的な経済構造 = 社会構造 = 精神構造からの解放の道を見出すということ」だというのですね。  最近、「脱成長」ということが語られています。しかし脱成長というのは、 GDP に代えて、 HDI (人間開発指標)を用いて社会の繁栄を考えようという発想を、否定しないですね。私たちは、自然収奪的ではなく、他社会収奪的ではない仕方で、 HDI を考えることができるでしょうか。これがいま、見田先生の問題関心を引き継ぐうえで、重要な論点であると思いました。

■黒川創さんの那須耕介論

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  瀧口夕美 / 黒川創『生きる場所をどうつくるか』編集グループ SURE   那須美栄子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   2024 年、 SURE の最新刊は、三つの討論と一つのインタビューからなる本です。アナキズムという言葉がキーワードになっています。自分たちにとって居心地のいい場所を作るには、どうすればいいのか。それぞれ語り手たちの活動と思想家への参照によって、熱く語られています。 第三章「場所に根ざしたアナキズムを掘り起こす」は、黒川さんがかなりの紙幅を割いて、那須耕介さんについて語っています。アナキズムとの関係はほとんどないですけれども、黒川さんの語りは、那須耕介さんという人間の本質を、さまざまな角度から深くえぐり出した、たぐいまれな人間論になっています。  那須さんは、大学生のときから SURE に参加していました。黒川さんとは、長いお付き合いだったのでしょう。黒川さんは、那須さんのエピソードをいろいろ語っています。  那須さんは、北沢恒彦という人物に惹かれていました。北沢さんの『隠された地図』という本を SURE で編集して出したときに、那須さんはとてもいい本だと言って、私に恵存してくれました。この本については、私は以前、ブログで感想を書いたこともありました。けれどもなぜ、那須さんがこの本とこの著者にこだわりをもったのかについては、今でも分かりません。何か見えない連関があるのでしょう。黒川さんは、次のようなエピソードを紹介しています。  「 [ 北沢 ] 恒彦は中小企業診断士として、京都の町を歩いていた。那須さんは、こうした恒彦が残した膨大な「商業診断報告書」についての解説をいずれやりたいと考えていた。だから、基本的な資料も自分の研究室に預かってくれていた。/那須さんがなくなるちょっと前、京都工業繊維大学の美術工芸資料館が、これらの北沢恒彦の資料を引き受けてくれることになった。那須はそれらの運送まで手伝ってくれた。彼の運転で、研究室からそこに資料を動かした。そうした彼の行動の取り方は、大学教授という職業の常軌から、はみ出すところがあったと思う。」 (102)  この北沢さんの資料は、いずれ整理されて、小さな展示が行われるだろう、ということですが、それだけの価値ある資料を北沢さんが作ったのですね。そし

■相国寺に寄宿した信長

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    中井裕子『室町・戦国時代の相国寺領荘園』相国寺教化活動委員会   中井裕子さま、相国寺教化活動委員会のみなさま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   室町時代に、相国寺領の荘園が全国的に広がっていく、その広がりと分布の特徴が、詳しく分析されています。  興味深いのは、織田信長が京都に入って政権をとる際に、一時期、相国寺で暮らしていたことです。   1569-1573 年のあいだは、信長は妙覚寺で暮らしていた。このころの妙覚寺は、二条室町付近にあったのですね。 その後、 1574 年の三月から翌年の七月まで、信長は相国寺で暮らしたのですね。約一年半ですね。  信長が相国寺に寄宿することで、相国寺にはおそらく、大勢の兵士たちが暮らすようになったでしょう。それで僧侶たちは追い出されたでしょう。お堂を「厩(うまや、馬小屋)」にしたり、部屋を取り壊したりしたことが、推測されるというのですね。  信長が相国寺を選んだのは、その前年に将軍の足利義昭が亡くなり、それで将軍に代わって朝廷を守るために、相国寺の場所が適していた、というのですね。