■ケアの倫理と関係主義
加藤泰史編『問いとしての尊厳概念』法政大学出版局 後藤玲子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 人間の尊厳を保証するために、ロールズやセンの思想はどんな貢献をしたのか。 カントにしたがって、ロールズは人間の尊厳が、他者の尊厳と比較できるものではなく、絶対的なものとして承認しなければならないと考えました。しかし実際に人々の尊厳を満たすためには、何らかの基準が必要であり、その基準に照らして、尊厳がどれだけ満たされたのかを、比較することができます。尊厳をケイパビリティの束として捉える場合も、同じように程度の問題が生じるでしょう。 しかしいずれにしても、キテイのようなケア倫理の思想家からすれば、こうしたリベラリズムの議論はすべて、個人の独立性と自律性を前提にした理論であり、想定としておかしい、というわけですね(品川哲彦論文)。 社会の最小限の単位は、個人ではなく関係であり、しかもケア関係こそが、基底的であると考えてみましょう。すると、どんな社会が望ましいか。人々の意見を集約する民主主義という発想は、それぞれの人間の意見を平等に扱うとしても、それは個人を前提にしているのだからおかしい、ということになりますね。 重度の障害をもった障害者もまた、社会を構成する一員であるとして、その障害者は、政治的な意見を自律的に形成することができないかもしれません。そのような場合、その障害者の意見を誰かが代弁すればよいと発想することも、やはり個人を前提とする点でおかしい、ということになるでしょうか。 関係のあり方に負担をかけないで、公平にケアの負担を担う、という発想は、関係主義的な発想です。しかしこの発想を政治的に正当化するためには、どうすればいいのでしょうか。自律しているように見える人でも、実際には自律していないのであり、社会の関係性なかで、依存して生きているにすぎない。そのような個人が集まった場合に、どんな制度が正当化されるのか。 私はこの問題は、各人になるべく自律に負担をかけないように、依存しても生きていけるように、政府に意思決定をゆだねるという発想になるのではないか、と思います。しかしこれでは、権威主義的な政府を正当化してしまいます。 権威主義を防ぐためには、何が必要なのか。行政組織が、権威主義的に介入するのではな