投稿

2026の投稿を表示しています

■立憲民主党の支持層は排外主義を強く否定していない

イメージ
桑名祐樹『社会階層と政治の分断 調査データで読み解く対立と格差』勁草書房 桑名祐樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    日本人の投票行動と政党の関係について、独自の統計分析をしています。  まず、社会意識の違い、例えば「リベラル」と「保守」の違いによって、投票行動に差が生まれないというのは、興味深いです。  例えば、「いまの日本社会は格差が拡大している」と思っている人と、そのように思っていない人がいるとします。この場合、格差の拡大を感じている人の方が、社会問題に敏感で、投票する傾向が高くなるのではないかと思いますが、そうでもないという結果なのですね。  ただ、大卒と非大卒で、大卒の人の方が投票する傾向にあるのですね。  立憲民主党の支持層は、大卒が多いです。大卒の人たちは、あまり格差が拡大していないと感じていて、しかも競争社会を肯定する傾向にあります。とはいえ、立憲民主党の支持者は、大卒が多いとはいえ、格差の拡大を心配し、競争主義の社会は良くないと考えます。つまり、立憲民主党の支持層は、大卒の人たちの中で、ややマイナーな人たちである、ということになります。  ただ、 2009 年に民主党が政権を執ったときには、広範な人たちに支持されました。 「所得をもっと平等にすべき。」 「生活に困っている人たちに手厚く福祉を提供すべき。」 「競争は格差を拡大させるなど問題の方が多い。」 「権威ある人々にはつねに敬意を払わなければならない。」 「伝統や慣習にしたがったやり方に疑問を持つ人は、結局は問題を引き起こすことになる。」 「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ。」・・・ このような質問に対して、答えが「はい」でも「いいえ」でも、どちらも民主党に投票したのですね。統計的に有意な偏りがなかったのだと。  ところが、 2017 年に結成された立憲民主党を支持した人たちは、再分配の拡大を支持しました。その一方で、支持者たちは、中国に対する排外主義を否定するわけではなかった(つまりナショナリズムの傾向が強まった)というのですね。  この分析から私が得たことは、立憲民主党の支持層は、権威とナショナリズムについて、そこまで強い意識を持ったリベラルによって支えられているわけではない、ということです。すでにこの時点で、従来のリベラル - 保守の軸では、捉えられない支持層になっ...

■日本のエネルギー自給率

イメージ
宇佐美誠編『エネルギー正義 公正な脱炭素へ』明石書店   宇佐美誠さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    気候変動訴訟や、若者の気候変動社会運動を扱っている、ホットな内容です。 とくにマヌエラ・ゲルトハート・ハルトヴィッヒ著、第三章「エネルギーシステムの不正義性」を興味深く読みました。 太陽光発電や電気自動車のバッテリー用の鉱物は、第三世界で採掘されていることが多く、児童労働の問題があります。またその鉱物は、採掘された後に、中国で加工されているので、諸国の経済は中国に依存してしまう、という問題があります。 日本のエネルギー自給率は 11.3% で、 37 位です。これを引き上げる必要があるのですね。しかしこれは、正義の問題というよりも、国防の問題として捉えた方が、ストレートだと思いました。 日本は現在、化石燃料を段階的に廃止する取り組みが不足しています。これを進めることが、エネルギー正義の最大の論点なのでしょう。 また日本は、日本国際協力銀行を通じて、フィリピンなどの国の LNG のガスプロジェクトに融資している、というのですね。これは不公正な融資であり、地球の友ジャパンは 2024 年に、日本政府に対して、化石燃料への資金提供を停止するように求める請願書を発表しました。 LNG のほうが、石炭よりも 24% 、気候に悪影響を及ぼすのですね。 このような問題をどのように克服していくべきなのか。注視していきたいと思います。

■脱成長の多様な意味について

イメージ
桑田学『環境と社会思想』放送大学   桑田学さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、放送大学の「大学院」のテキストです。新しい思想史の分野を切り拓いたと思います。内容の仕込みに、大きなエネルギーを感じました。 環境の観点から社会思想を振り返ると、デカルトやベーコンやロックなどの思想家の思想も、新たな視点で読み直すことができます。フレッシュでした。  そして、最後の章で「脱成長」論について検討しています。脱成長とは、「反成長」ではなく、何らかの well-being の成長を想定していると思いますが、その解釈は一義的ではないのでしょう。脱成長は、「経済成長ではいけない」という批判を共有しているけれども、積極的に何が望ましいのかについては多様なのだと思いました。 ただ、 GDP が増えるか減るかは、「脱成長」の観点から、あまり意味がないというのですね。脱成長派は、「 GDP を減らせ」と言っているわけではないのですね。  経済成長は、人間生活の生態的な基盤を破壊するから望ましくない。だから生態系を維持する生活と経済圏を築いていくべきだと。 この考え方は、「脱成長」と言わなくても、エコロジー派であれば、受け入れられるでしょう。 経済成長は、私たちの生活を誤って測定するものである。この批判も、ウェルビイング論全般の主張と同じです。  経済成長は、疎外を作り出す。これはマルクス主義とヒューマニズムの論点であり、脱成長と言わなくても、これまで議論されてきました。  経済成長は、資本主義的な搾取と蓄積に依存する。これも、マルクス経済学が問題にしてきたことで、この観点からいえば、脱成長とは、社会主義の経済を作ることであり、そのためには搾取と蓄積を克服しなければなりませんが、それをどうやって実現するのかが問題です。  経済成長は、ジェンダー化された搾取に基づいている。この批判は、フェミニズムによる批判です。  経済成長は、非民主的な生産力や技術を作り出す。この批判は、これまで、産業民主主義の観点から提起されてきました。  経済成長は、資本主義の中核と周辺のあいだに、支配、採取、搾取の関係を生み出している。この批判は、これまで南北問題として語られてきました。  こうしてみてくると、「...

■巨大IT企業を分社化すべきか

イメージ
松井暁『入門 資本主義 私たちの生きる世界』地平社   松井暁さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。     2024 年 8 月、米国の地方裁判所は、グーグル社が「検索」と「広告」の市場で、競合他社を競争から排除したとして、反トラスト法違反の判決を下しました。  つまりグーグル社は、独占企業だというわけです。ではグーグル社を分割して、自由競争を促すべきでしょうか。 米国民主党の議員、エリザベス・ウォーレンは、巨大 IT 企業の独占を解体すべし、と訴えています。また、 2021 年にバイデン大統領は、連邦取引委員会の委員長に、左派のリナ・カーンを任命して、独占資本を制約する方向に、法の改正をすすました。このように米国では、左派が中心となって、独占を批判し、自由競争を求めています。  しかしマルクス主義は、別の発想をするというのですね。   (1) 独占であれ自由競争であれ、資本主義は望ましくない。   (2) 独占の解体は、消費者に不利益をもたらす。   (3) 独占を解体しても、巨大企業が支配する社会構造を根本的に解決することはできない。   (4) いかなる独占が国民にとって不利かは分からない。  マルクス主義は「左派」と言われますが、米国の「左派」とは正反対です。マルクス主義者の提案は、巨大企業の民主的規制であり、労働条件の改善であり、地域経済への配慮であり、消費者の保護であり、情報の公開だ、というのですね。そしてさらに、巨大企業を公有化していくべきなのだと。  グーグル社を分社化するか、あるいは分社化せずに、その株式を米国がすべて保有する方向に変革していくのか。この違いです。  私の関心から言うと、グーグル社のような巨大企業については、株式の保有を強制的に分散させることが望ましい。各国はその国民が利用する割合に応じて、株式を保有する。そのように義務づける。これはほとんど不可能に見えますが、このような政策をした場合に何が生じるか、考えてみる価値があると思いました。

■ニーズで読み解く経済思想

イメージ
中村隆之『今こそ経済学を問い直す 切実な「必要」の声を聴くために』講談社現代新書 中村隆之さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は経済思想史を、「必要(ニーズ)」の観点から描いた入門書です。「必要」の概念を、私たちが「ほんとうに求めるもの」という意味で使っています。  では私たちが「本当に求めるもの」とは、何でしょうか。それは「公益」と言い換えることができます。あるいは「構造的な不正義がない社会」と言い換えることもできます。  本書は「公益」について、「企業の社会的責任( CSR )」を検討しています。また「構造的不正義」について、苦汗産業で働いている労働者に対する搾取、女性差別、精神障碍者差別、地球環境問題、などを検討しています。企業が社会的責任を果たして、労働者が搾取されない、女性が差別されない、精神障碍者が差別されない社会。そして地球環境問題を解決できる社会。これらが、私たちか本当に欲しているものだ、というのですね。その通りだと思います。  本書の第六章で提案されているのは、企業に対して、利益の一定割合を、 CSR に使うことを義務づけることです。これは具体的には、公益財団や NPO のような組織に、企業が寄付して、社会的貢献をアピールする、ということですね。しかも、たんにステイクホルダーたちの必要を満たすのではなく(公益資本主義ではなく)、ステイクホルダーにならない人たちの必要も満たさなければならないのだと。  ではどうやって、社会の「必要」を、企業の取り組み全体で満たしていくことができるのでしょう。そのためのヒントとして、ポズナーとワイルの共著『ラディカル・マーケット』で提案された、投票システム案が参考になるというのですね。各人は、 100 ポイントをもっている。そしてこの 100 ポイントを、解決してほしい社会問題に、割り振っていく。そのような投票をすることができれば、社会全体で、どの問題が重要なのかが民主的な手続きで可視化されるでしょう。  しかし問題は、この投票システムで、ポイントを割り当てる社会問題の選択肢をどのように構造化するかです。「投票選択肢の構造化」の問題です。うまく構造化しないと、人々のニーズをつかむことが難しいでしょう。解釈のバイアスが生まれます。 いずれにせよ、このよ...

■脱成長社会を考える

イメージ
江原慶『資本主義は、なぜ限界なのか 脱成長の経済学』ちくま新書   江原慶さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    わたくしたちの資本主義社会は、いま物質的な限界に直面しています。脱炭素化を進めないと、大きな気候変動(地球温暖化)を避けることができません。そのコストは膨大です。誰も正確には計算できないでしょう。  では物質的な意味での経済成長を求めず、非物質的な意味での経済成長を目標とすることは、望ましいでしょうか。  望ましいです。でも人間はとても愚かなので、結局、非物質的な経済成長を求めても、物質的な生産を縮小できない、というわけですね。だからグリーン・ニューディール政策は、無理なことをしているのだと。  これは人間の愚かさの問題だと思います。頭で理解できても、実践できない。そのような愚かさを抱えた人間は、何をすべきなのか。  一つの考えは「脱成長」の理念にコミットすることです。「脱成長」には、いろいろな意味が含まれていますが、経済学的に定義すると、 GDP ( = 経済成長)を定常にすることではなく、 GDP は上がったり下がったりすることを認めつつ、資本蓄積を抑制する、ということになるのですね。  剰余労働によって生まれた利潤を、再投資した場合、それは、資本が追加的に蓄積されたことを意味します。このような資本蓄積を抑制して、利潤をすべて資本家と労働者の間で分配する(そして消費する)。そうすると「脱成長的市場経済」になります。  そしてさらに、この利潤もゼロにして、つまり剰余労働をしないことにして(禁止して)、経済を回していく。このような利潤ゼロの経済が、「脱成長的コミュニズム」なのですね。  脱成長的市場経済も、脱成長的コミュニズムも、すでにある資本を投資する経済システムであることには変わりません。イノベーションも起きるでしょうし、新たな知識(ノウハウなど)が発見されて、それが分散的なシステムを通じて広まることもあるでしょう。  以上の概念的な整理で、もう一つ検討に値するのは、利潤をすべて環境に投資する経済です。これは環境成長的な投資型市場経済になるでしょう。これはレトリックの問題ですが、脱成長が目指す環境の持続可能性に投資することになります。いわば脱成長志向の成長主義です。私はこの可...

■哲学者バーンスタインの自伝的回顧

イメージ
  リチャード・ J ・バーンスタイン『プラグマティズム的邂逅』斉藤直子訳、法政大学出版局   斉藤直子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    この本の第一部は、バーンスタインの自伝的な内容を含んでいます。 バーンスタインは、哲学(とくにプラグマティズム)とどのように出会って、そしてどのような哲学者人生を歩んできたのか。  まず高校で、文学や音楽や芸術の喜びを感じて、知的な目覚めを経験したというのですね。そして当時、真の知識人になりたかったら、シカゴ大学こそ唯一の場所だと信じられていたので、自分もニューヨークのブルックリンからシカゴに行ったのだと。  ところが大学院で、哲学を研究しようと志して、ヘーゲルに関する授業を受講したら、難しすぎてついていけない。怖気〔おじけ〕づいてしまった、というのですね。しかしそれでも、ヘーゲルについて議論できるようになった。これが人生を変えることになったのだと。  シカゴ大学の大学院に進学して、ヘーゲルを読んだけれども分からない。でも議論できるようになった。それでいい、ということですね。議論できると、自信がつく。それでいいのだと。  ところで、その当時のアメリカでは、分析哲学が流行していてました。バーンスタインはしばしば、「あなたは哲学をしているのですか、それとも哲学史に関心があるのですか」という質問をされました。哲学をすることは、哲学史を勉強することではなく、分析哲学をすることだとみなされていたのですね。  しかし分析哲学は、真に哲学的な思考とは言えない。バーンスタインはそのように考えます。では、バーンスタインは、真に哲学的な思考を見つけたのかどうか。それは分からないですね。  バーンスタインは、ユダヤ人で、当時、イェール大学で助手をしていたころ、ようやくユダヤ人も大学教授として採用されるようになった。それでバーンスタインも、イェール大学で、常勤職につけるかもしれない、というチャンスが回ってきました。ところがバーンスタインの人事は、きわめて政治的な問題になったのですね。  結局バーンスタインは、イェール大学での常勤職を得られませんでした。しかし、教授会の決定に対して、学生たちが抗議をします。 2000 人の学生が、デモ行進をして、さらに学長室の周りで...

■ドゴールの中道政治

イメージ
吉田徹『居場所なき革命 フランス 1968 年とドゴール主義』みすず書房   吉田徹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    以前にお送りいただいた本ですが、改めて拝読しました。 本格的な政治研究の書です。ここまで掘り下げて研究すると、見えてくるのは、ドゴール大統領(任期は、① 1944 年 6 月 3 日 - 1946 年 1 月 20 日、② 1959 年 1 月 8 日 - 1969 年 4 月 28 日)というのは、たんなる中道の政治家ではなく、保守と革新という二極の要求を、うまく両立させていくところに、その政治手腕があるのだと思いました。 「ドゴール主義」から私たち日本人が学ぶべきは、なによりも「国民投票(レファレンダム)」の意義でしょう。ドゴールは任期期間中に、五回も国民投票を実施したのですね。共和制憲法の制定、アルジェリア民族自治権付与、アルジェリア休戦協定、大統領の直接選出、地方化と上院の改革。これらの国民投票で、かなり政治の仕組みを変えたのですね。 1968 年は、学生運動のピークでした。当時のフランスにおいては、大統領も政権も、学生運動も野党勢力も、だれも事態を把握できないという、権力の空白状態だったのですね。そうしたなかでドゴール大統領は、労働組合の要求を大幅に受け入れていく。実際には、労働組合の力はそれほど大きくなかったのですが、それでも学生と労働者が共に戦うことで、労働者の最低賃金の引き上げや、時短などが認められていく。 その時のドゴールの政治的手腕を、どのように説明するのか。本書の分析を面白く読みました。 当時の左派の要求は、理想が高すぎた。自分たちの要求を、どうやって現実的な政策に落とし込んでいくのか、そして社会を機能させるのか。見えていなかった。そうしたなかで、労働者たちがストライキをすることは、大きな社会的ロスだった。 ドゴール大統領は、左派知識人たちが抱く理想とは別に、「下からの民主的要求」をうまくくみ上げて、労働者たちの「生活に基づく要求」を実現していく。しかも労働者が労働へのインセンティヴを保てるようにした。そのような政治手腕を発揮したのですね。

■怪物政治家、ミッテラン

イメージ
吉田徹『ミッテラン 現代フランスを率いた理想と野望』中公新書   吉田徹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    とても興味深く読みました。政治家というのは、政治信条で動くのではない。それでも大きな政治的変革を成し遂げることができる。ミッテランという政治家は、そういう怪物だというのですね。  ミッテランは、フランス大統領を二期務めます。最初は社会党から立候補して、大統領になる。そして社会党の政策を推進した。ところが、途中から真逆に向かって、新自由主義の政策を推進していく。ミッテランは、そのようなことができてしまった。  これは、あまりにも政治信条のなさを示していると思います。「政治屋」と揶揄する人も多いようですね。しかし権力を保持できるなら、信条を変えてもかまわないと発想するのがミッテランです。  社会党の長老モレは、ミッテランが社会党の党首になったとき、次のように言いました。「彼は社会主義者になったのではなく、社会主義者のように喋ることを学んだだけであって、これは無視しえない違いなのだ」と (133) 。  ミッテランのように、ある思想の言葉を巧みに使う政治家は、どの政党にもいるでしょう。学者の場合も、状況は似ていると思いました。マルクス主義について雄弁に語るのだけれども、ぜんぜんマルクス主義に信条を抱いていない、というような。 他方でミッテランは、 46 歳( 1974 年)のときに、 19 歳のアンヌと恋をします。そしてそれから、 30 年以上もいい関係を続けるのですね。 そしてミッテランが 58 歳のときに、一人娘のマザリーヌを授かっています。これはミッテランにとって第二の家族なのですが、その詳細について、なんと娘のマザリーヌが後に哲学教員になって、自分の父(ミッテラン)と母(アンヌ)のあいだの大量のラブレターと日記をそれぞれ公刊したというのですね。そしてこれらの資料は、当時の政治を知るうえで第一級の資料なのだと。 ミッテランは 80 歳で亡くなりますが、その直前にも、アンヌに対して熱烈なラブレターを書いています。とても驚きました。  

■AIの進化とゼミのスタイルについて

イメージ
AIの進化とゼミのスタイルについて     AI の進化を受けて、研究と教育のスタイルが大きく変容しつつあります。この一年間で、次のようなことが可能になりました。   ChatGPT や Gemini などの AI を使えば、    ・卒論を書くことができる。(どんなテーマで卒論を書いたらいいですか、と尋ねると、テーマを提案してくれる。そして AI が書いてくる。)  ・レジュメを作成することができる。  ・報告者の発表内容に対して、効果的な質問を作成することができる。  ・パワーポイント資料を作成することができる。  ・レポートや感想文を書くことができる。  ・おすすめの本の紹介を書くことができる。・・・    つまり、ゼミの課題のほとんどを、 AI がやってくれるようになりました。これはこの一年間の AI の進化によるものです。   AI は今後、研究者に代わって、研究論文を書くようになるでしょう。すると先生も生徒も、大学で何をすべきなのか。 AI を使って、よい卒論や研究論文を書いても、その成果によって心が満たされることはないはずです。最近の AI の進化は、教育と研究の意義を、根底から覆すような事態を招いています。  私たちはいずれ、自分よりも高い知性をもった存在としての AI に敬意を示し、 AI に仕える奉仕人になるのかもしれません。すると一つの理知的な宗教が生まれ、これに帰依した人が高い社会的地位を獲得するという、新しい階層社会になるのかもしれません。これはまるで、ニーチェのいう「超人」の世界です。このように考えると、暗い気持ちになってしまいます。  いまの段階で、大学教育に必要なことは、まだ AI ができないことをする、ということでしょう。具体的に、   ・プレゼンテーションをする。  ・外国語をしゃべる。  ・インタビューをする。  ・グループでディスカッションをしながら作業を進める。・・・    こうした活動によって、大学生は、 AI とは別の能力を磨いていくことができます。ゼミのスタイルも、このような方向に移行していきたいと思います。 もちろんこうした能力も、いずれは AI に代替されて、不要になるかもしれません...

■政治思想史の語り方

イメージ
リチャード・ワットモア『入門 政治思想史』齋藤純一 / 稲村一隆訳、中央公論社   齋藤純一さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   この本の最初に、 1783 年に書かれた風刺画が出てきます。とてもインパクトがあります。ネットでも、大英博物館のデータベースにあります。 https://www.britishmuseum.org/collection/object/P_1868-0808-5058 この風刺画に書かれているのは、当時のホイッグ党の政治家( チャールズ・ジェームズ・フォックス ) です。ギャンブル狂いだったそうです。その政治家が、首相のノース卿の顔をしたゾウの上に乗っています。そしてもう一人、保守主義の理論家として知られるエドマンド・バークもいます。バークはどうも、この二人の政治家を支持しているようです。これはどういうことでしょう。  バークは、保守主義の政治思想家として知られます。ではバークは、どんな政治を支持したのか。政治思想史を勉強して、その社会的・歴史的な文脈を知ろう、というのですね。 入門書として、読者をぐっと引きつけます。 本書の解説で、本書の著者のワットモアが、一定の思想的立場に立っていることが明らかにされています。それは、文脈を重視する立場(言い換えれば、個々の文脈を重視しないグローバリズムの立場に対する批判的な立場)であり、また、新自由主義を批判する立場であり、歴史を軽視する政治理論を批判する立場であり、政治においては「新しいものは何一つない」 (15 頁 ) とする保守的な立場です。  著者のこのような立場は、もしかすると、政治思想史を教える際に、バイアスがかかりすぎかもしれません。解説(齋藤純一執筆)では、このワットモアの立場を相対化するために、ロンドン大学教授のエイドリアン・ブローのアプローチが、合わせて紹介されています。ブローの立場と比較すると、ワットモアの立場が保守的であることが分かります。  いずれにせよ、 20 世紀の前半から中ごろにかけて、政治思想史というものは、偉大な思想家の主著の内容を「カノン(経典)」として教えるという方法をとってきたのですね。ワットモアはこのような教え方を相対化して、主著以外のテキストも再構成して学ぶことが重要だ、と主張したので...

■医療の民営化と第三の道

イメージ
森臨太郎『イギリスの医療は問いかける』医学書院 森臨太郎『持続可能な医療を創る グローバルな視点からの提言』岩波書店 森臨太郎『ひとの病いと社会の病い』 (2022-2023 の共同通信連載稿の書籍化 )   森臨太郎さま、ご高著三冊をご恵存賜り、ありがとうございました。    『ひとの病いと社会の病い』で、国際的な非営利団体「コクラン」という組織が紹介されています。医療に関して、質の高い情報を分析して共有するという活動をしています。森さまは、この組織の日本支部を立ち上げられたのですね。  『イギリスの医療は問いかける』では、日本の医療の美点が論じられています。ご自身も、予定日より四カ月半早く生まれた赤ちゃんの生育を支えるために、昼夜・曜日に関係なく働き続けた話に染み入りました。また、研修医たちは、飲み会においても、手術の手つきを練習している。そのような日々の振る舞いに触れられています。  日本の医師や看護師や心理士などの医療関係者たちの質は、とても高いです。しかし問題は、長時間労働です。もし労働基準法を守ったら、医療そのものが成り立たなくなる、というのですね。これは深刻です。  『イギリスの医療は問いかける』は、ブレア政権以降の英国で、「第三の道」の理念が、どのように医療制度を変更してきたのかについて、詳しく述べられています。「新しいリベラル」という次世代投資の観点から、大いに学びました。  『持続可能な医療を創る』では、日本の医療の問題が指摘されています。市場メカニズムを導入する一方で、医療の分野に投資が進んでいない、というのですね。  本書の最後に、「八つの提言」があります。医療の分野でも、事業の一部を民間に任せていますが、そのような民営化の政策がうまくいくためには、マネジメントを評価できる行政官の育成が不可欠です。科学的根拠に基づいてマネジメントを評価するために、予算を計上しなければならない、というのですね。  この民営化のマネジメントを、「新自由主義的でダメだ」と批判する人もいるでしょう。すべての医療セクターを公的に運営すべきだ、という人もいるかもしれません。しかし限られた予算で質の高い医療サービスを提供するには、望ましい競争環境を創って、持続可能な経営を実現しないといけない。本書はそのため...

■J.S.ミルの女性論はしだいに保守化した

イメージ
柳田芳伸/原信子編『経済学者たちの女性論 ジェンダーの視点で経済思想を問う』昭和堂   小沢佳史さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ご高論「 J.S. ミルの『経済学原理』における女性――男女の平等から労働者の境遇改善へ」を拝読しました。  ミルは、女性の社会的地位について、少しずつ論じ方を変えたのですね。『経済学原理』の初版から第七版にかけて、どのように変化したのか、テキストクリティークによって明らかにしています。すると重要なことが分かったと。  ミルは、労働市場で競争する自由を、女性から除外することは望ましくない、というのですね。具体的に問題になるのは、結婚した女性が働いて、夫に頼らずとも生きていける。そのような利点( = 自由)を認めるかどうかです。 163 頁。  ミルは、これを認めます。しかし『経済学原理』の第五版と第六版で、次のように加筆するのですね。「一家の母親が、生きていくために少なくとも自宅以外の場所で働かなければならないということは、労働者階級の恒常的な要素として望ましいものと見なされえない」のだと。  このミルの言葉は、新保守主義的な解釈が成り立つ部分ですね。ミルは、女性の経済的自立を推奨していたのですが、しだいに経済的な自立の利点について、断定するのではなく推量するにとどめるようになったのだと。  ミルはしだいに、専業主婦を認めるという、保守的な立場に変っていったようです。これは G. ヒンメルファーブのミル解釈と親和的です。自由主義が、進歩主義的なものからしだいに新保守主義的なものへと変化していく。そのような推移が、ミルのなかにも読み取れるというのは、重要な思想史理解だと思います。  問題は、このようなミルの変化を、どう思想史的に位置づけるかです。そもそも、ミルの自由の哲学も、新保守主義を許容する論理構造になっていたのかどうか。ミルの自由主義をどう評価するか。大きな問題だと思います。

■マルクスのエコロジー論

イメージ
マルチェロ・ムスト編『マルクス・リバイバル キーワードと新解釈』斎藤幸平 / 佐々木隆治 [ 監訳・解説 ] 、地平社   岩熊典乃さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ジョン・ベラミー・フォスターの第 10 章「エコロジー」(岩熊訳)を、拝読しました。 1970 年代から 1980 年代にかけて、第一段階の環境社会主義者たちは、マルクスの自然論を低く評価していたのですね。そしてこの低評価を前提に、マルクス主義のグリーン化を模索したのだと。 けれどもマルクスは、実際には、自然破壊を糾弾していた。環境破壊の危機を認識していたのですね (271-273 頁 ) 。マルクスは「持続可能な農業生産」についても言及しています (275 頁 ) 。 問題は、マルクスの思想的な観点です。 271 頁を参照すると、マルクスは、いわば設計主義的理性の観点から、自然を意識的に支配し、自然を荒廃させないようにすべきだ、と考えていたようにみえます。しかしマルクスは、実際には、設計主義的理性の限界も理解していた。 設計主義的な理性によって、自然の限界を乗り越えることができるのか。言い換えれば、環境破壊を乗り越えて、技術的にこの問題を克服できると考えるのか。マルクスはそうではなく、自然の限界(壁)を、設計主義的理性(技術)によって乗り越えようとすると、「資本と自然のあいだに矛盾が生じる」と考えたのですね (277 頁 ) 。マルクスは技術万能主義者ではなかったのだと。 1880 年に、マルクスは、ポドリンスキーの未発表の初稿から、非常に広範なメモを取った、という事実は興味深いです。 結論として、マルクスとエンゲルスが『聖家族』で描いた革命的プロレタリアートの関心が、一般化されています。環境問題(エコロジー的危機)に対処することは、私たちの課題であり義務である。そしてまた、革命的なエコロジー運動は、環境民主主義的な局面を経て、幅広い同盟の構築を目指すべきである。そのようなことが提唱されています。 以上のようなマルクス派のエコロジー論には、多くの点で同意できます。問題は、マルクスのエコロジーを、たんに学説史的に再構成するのではなく、もっと思想的なレベルでバージョンアップする思想家が現れないといけない。そのようなことを感じました...

■人間が非利己的になる経済ビジョンとは

イメージ
アルフレッド・マーシャル『経済学原理 第四巻』西沢保 / 藤井賢治訳、岩波書店   西沢保さま、藤井賢治さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    マーシャルは、当時の人々が「だんだん非利己的になってきた」ことに注目するのですね。そして将来的には、人間が人格として進歩する可能性があるのだと。そのような希望と展望をもって、経済政策を舵とる。そのような視角が見えてきました。   226 頁では、人々が現在の安楽や享楽をがまんして、将来、自分の家族が「より高尚な」生活をするために貯蓄していることが指摘されます。一方で、長時間労働はすでにピークに達し、今後は労働時間を減らしたいと思う人が増えるだろう、とマーシャルはみています。  当時は、粗野な生活を満たすことを「安楽」と呼びました。そしてそれ以外の高尚な欲求を含めると、一定の「生活水準」になると考えられました。 その当時、大英帝国で、奴隷を雇う際に、音楽その他の娯楽を経費として計上した方が、労働生産性が高くなる、ということが知られていました。たんに「安楽」の水準を上昇させれば、労働生産性が上がるというわけではないのですね。 (239 頁 )  そして、「労働の強度」が高い場合、長時間労働を続けると疲れてしまうので、短くしないと生産性が上がらない、ということも指摘されます (242 頁 ) 。  しかしマーシャルの考えでは、たとえ労働時間を短縮して労働の生産性を上げたとしても、余暇を上手に使う人が少ない。だから人類が進歩するためには、「若者」に注目して、余暇を上手に利用するように、うまく教育すべきだというのですね。  「現世代にとって最も差し迫った義務は、若者に対して彼らのより高次の性質を伸ばし、有能な生産者になるような機会を与えることである。そして、そのために不可欠な条件は、機械的な労苦から長期間にわたって解放され、これとともに、学校に通い、性格を強化し発展させるような遊びをするための十分な余暇が与えられることである。」 (276-277 頁 )  この発想は、社会的投資国家の原型と言えるでしょう。  

■寄付は未来社会への投資

イメージ
  『寄付白書 2025 Giving Japan 2025 』日本ファンドレイジング協会   坂本治也さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 ご論稿「寄付とは何か、寄付は何をもたらすか」を拝読しました。 寄付とは「公共的な贈与」なのですね。 一般に、公共的な次元では「正義の再分配」、私的な次元では「私的道徳感情(愛や慈悲など)に基づく贈与」という分類になるかと思います。ですが「寄付」はその中間の行為なのですね。 「正義」「寄付(公的な贈与)」「私的な贈与」。この三つがあって、もう一つは、私的な次元の「正義」もあるでしょう。すると全部で四つですね。「公的正義」「公的贈与 = 寄付」「私的贈与」「私的正義」。これらをどう組み合わせれば、最適な社会になるのか。これが問題です。  かつて明治神宮は、寄付によって作られました。私たち現代人も、寄付によって何か新たな文化を作ることができるかもしれません。  個人寄付の総額は、 2016 年に 7,756 億円でしたが、 2024 年には 2 兆 261 億円になりました。かなり伸びていますが、そのほとんどは「ふるさと納税」です。その一方で、寄付した人の割合は、ほとんど変わっていないのですね。人口の 45% 程度です。  アンケート調査で、「寄付に近い活動は何か」という質問があります。その答えとして、「被災地の応援のために、関連する商品を購入したり現地に旅行したりする」が 46.6% 、「地産地消の実践のために、地元の特産品を購入する」が 35.6% 。この他、「環境負荷・エネルギー・ CO2 の削減に配慮した商品やサービスを利用する」が 14.7% 。(これはこのようなサービスの提供が、情報としてあまり信頼されていないのではないか、と想像します。)「障がい者の雇用や収入につながる商品を購入する」が 30.6% 、でした。  もう一つ、「寄付は未来社会への投資だと思う」かどうか、という質問に対して、「そう思う / どちらかといえばそう思う」と答えた人は、約 60% だったのですね。四年前の調査と比べて増加しています。そして、「将来資産があれば、亡くなる前に一部を遺贈寄付してもよいと思う」と答えた人は、約 45% だったのですね。  これは新しいリベラルの考え方...

■体制に寄生する企業家たちをどうすべきか

イメージ
吉田昌幸『企業家像の経済思想』専修大学出版局   吉田昌幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    企業家精神論の系譜学です。このテーマで、考えられるかぎり、最善の成果を出していると思います。枝葉の議論をうまく退けて、メインの系譜を浮かび上がらせています。十分な時間をかけて練られた構成と内容になっていて、初学者にもわかりやすく説明する工夫が随所にあり、全体の枠組みが骨太に構成されています。 とくに新自由主義的な視点が、この研究の一つの重要な柱になっていると思いました。とくに言及されてはいませんが、ドイツのオルドー学派的な、競争秩序の観点です。  それはカーズナーとボーモルの比較です。オルドー学派とは直接関係ありませんが、競争秩序の観点から、この二人に関する議論を興味深く読みました。  企業家の役割と機能とは、いったい何か。この問題を考えるときに、プロ野球の選手と比較する、というのは面白いですね。プロ野球選手の「気質」は、「負けず嫌い」である。その「活動内容」は、「打つ、走る、捕る、投げる」などである。そしてその「システムにおける役割・機能」は、「打者、走者、内野手、外野手、捕手、投手」などである。  同様に、企業家の「気質」は、「進取の気性、好奇心、抜け目なさ」などである。その「活動内容」は、「起業、イノベーション、金儲け」などである。では、企業家が経済システムにおいて果たす役割と機能は、何でしょう。実は、この問題に応えるためには、経済システムについての一定の思想ビジョンがないと、答えられないのですね。学説史を振り返ると、さまざまな論者が、さまざまなビジョンのなかに企業家を位置づけて、企業家の役割と機能を位置づけてきたのですね。  カーズナーの企業家論は、これまであまり重視されなかったのですが、本書では、その含意をさらに引き出して展開しています。( 57 頁の図 2-3 参照。)カーズナーの企業家精神は、不確実性の問題を避けて、価格の差をたまたま「 hunch (直感)」によって発見するという、その能力とその成果によって、企業家の価格調整機能を位置づけます。本書はさらに、カーズナー的な企業家精神によって、新たな(潜在的だった)サービスや能力が発見される、ということに注目して理論を展開しています。  ボ...

毎日新聞のインタビュー記事につきまして、訂正します。

  毎日新聞のインタビュー記事につきまして、訂正します。 先日、小生が受けた毎日新聞の インタビュー記事 で、 私は重大なミスを犯してしまいました。[→すでに訂正していただきました。] 皆様、大変申し訳ありません。 以下、その経緯を記し、訂正します。 私は毎日新聞のインタビューで、高市早苗首相には「小カリスマ」の特徴があると答えました。 その後、新聞記者より、「小カリスマ」とは何か、と質問を受けました。 私は次のように、この言葉の定義を答えました。 "多くの人を引きつける力のある人、という意味です。 これには、人々がそのような人を待望している、という条件が加わります。"と。 すると、新聞記者より、小生へのインタビューを文字化するにあたって、 次のような文章をご提案いただきました。 "高市早苗首相は、宗教的指導者や英雄に見られる非日常的な力を持ち、人々もそのような人に救済を待望する「小カリスマ」だ。"と。 しかし私は、この文章はおかしいと思いました。誤解を招きやすいと思いました。 高市早苗と宗教的指導者/英雄(カリスマ)を同一視しているようにも読めるからです。 そこで、次のような修正案を示しました。 "高市早苗首相は、未来を語るリーダーだ。非日常的な力をあやつる「小カリスマ」の特徴がある。" そして紙面版では、この文章を採用していただきました。 しかし、なんと私は、こともあろうか、勘違いしていたのです。 Web版もこのように修正されるだろうと想定して、Web版の記事の文面を修正しなかったのです。結果として、Web版の記事では、修正されていません。[→その後、訂正されました。] これは私が、しっかり校正しなかったミスであります。 大変申し訳ありません。 新聞記者よりご提案いただいた文章は、私が高市首相を支持している印象を与えますが、しかし私は支持していません。 私が「小カリスマ」という言葉を用いたのは、 あまくでも社会学的な分析の観点からであり、 だからこそ私は、「小カリスマ」の定義に、英雄などを含めず、また、 「人々がそのような人を待望している、という条件が加わります」と加えたのでした。 私は、高市早苗を支持したり、まして魅了されているのではありません。 しかし校正段階で、大きなミスを犯してしまいました。 毎...

■大学教育に対する惜しみない愛

イメージ
  小峯敦『経済学史』ミネルヴァ書房 小峯敦編『福祉の経済学者たち 第 3 版』ナカニシヤ出版   小峯敦さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    大学教育に対する惜しみない愛を感じます。  『経済学史』は、ありきたりの教科書ではなく、要所要所で、学生を惹きつけるための興味深い内容が散りばめられています。例えば、水とダイヤモンドはどちらが価値が大きいのか。こうした古典的な問題を紹介する場合にも、少しひねって、ダイヤの消費者余剰と、水の消費者余剰を、一つのグラフの中に位置づけてみるのですね。すると、視覚の効果だけでなく、何かそこから新しい理論を考えるためのヒントになります。  各章の最後には、「練習問題」がいろいろ記されています。この本は 2021 年に刊行されましたが、最近では AI が格段に進化して、このような練習問題は、 AI に質問すれば答えてくれるのでしょうね。 AI が答えてくれない練習問題を載せるわけにもいかないし・・・。  編著『福祉の経済学者たち』も、よい教科書です。この本は、各章の最後に、レポート執筆のためのヒントが載っています。しかしこのヒントに導かれてレポートを書くことも、今年から AI ができるようになりましたね。  いったい大学教員は、 2025 年以降の AI の進化に対応して、学生にどんな課題を求めるべきなのか。どんなレポートでも、ほとんど AI を使って書くことができます。学生たちは、レポート課題を AI でこなして、それで大学を卒業してよいのかどうか。このような疑問は、教員も学生も、同じようにいだいているでしょう。  現在、新しい時代の教科書や授業方法、そして成績の評価方法が求められているのだと思いますが、それがどのようなものになるのか。模索しなければなりません。