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■二つの公共空間:人格性と匿名性

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  カシミール・ヒル『あなたの顔はわたしたちのもの 顔認証 AI の誕生と、プライバシーの終わりの物語』高橋則明訳、実務教育出版   実務教育出版編集部さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    顔認証を AI によって高度化する技術は、人々のプライバシー権と両立しません。しかし現在、国家はこの技術を必要としているので、この技術を国家に売り込むベンチャー企業が参入して、産業が成り立つのですね。  クリアービュー AI 社は、顔画像の収集と分析をしています。それが人々のプライバシーをどの程度侵害したのかについての訴訟は、まだどうなるか分かりません。 おそらく訴訟の着地点は、社会の安定、経済利益、プライバシー、国家の安定など、いろいろな要求をバランスよく満たすものになるでしょう。 CCTV による顔認証も、その情報の収集によって、国家に抗議する人たちの社会運動を萎えさせるようになると、問題です。国家に抗議すると、強い監視下におかれる。このような社会は、自浄作用を持たないからです。 しかし中国では、監視カメラに捉えられない権利というものが、特権階級の一つの特権なのですね。「レッドリスト」の人たちは、監視されない自由がある。 この他、米国の社会運動団体「ファイト・フォー・ザ・フューチャー」は興味深いですね。ヨーロッパでも類似の団体があるようですが、顔認証禁止(「あなたの顔を取り戻せ」)のキャンペーンを行いました。 私たちの顔は、誰のものか。これは公共的な空間においては、公的なものであり、自分は自分の顔について、プライバシーを要求できない、と思われるかもしれません。しかし公共的な空間には、二つの種類があります。 一つは、各人が一人の人格として現れる公共空間です。もう一つは、匿名性をもった人間として現れる社会的空間です。後者の空間は、重要です。自分が特定されないことによって、コミュニケーションが円滑になることがあります。各人は、自分を守りながら人と関わることができます。  こうした匿名的なコミュニケーションによって、私たちは近代社会を繁栄させてきた、という面があります。この領域を、どこまで権利として守ることができるのか。この問題もまた、社会の安定、経済利益、プライバシー、国家の安定など、いろいろな...

■日本は1941年にハル・ノートを丸呑みすべきだった

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  橋爪大三郎『日本人のための地政学原論』ビジネス社   橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    地政学というのは、学問としては物足りないところがある。アカデミアに根を下ろしていない。あまりいい本がないし、荒っぽい骨組みにすぎない。だから社会科学やリベラルアーツで肉付けして、地政学の教科書を書いてみよう。そのような狙いで本書が生まれたのですね。  地政学的に言えば、日本は何よりも、戦争に負けた経験を活かさなければならない。最大の問題は、「ハル・ノート」( 1941 年 11 月 26 日にアメリカが日本へ提示した外交文書(覚書))を受け取った日本が、これを最後通牒と受け取って、開戦を決意したことです。本書によれば、このハル・ノートに書かれた要請を、日本政府は受け入れるべきだった、というのですね。  その内容は、   1. 日本は、中国、仏印から全面撤退する。   2. 日本は、蒋介石政権だけを認める。   3. 租界や治外法権を放棄するよう、日米が努力する。   4. 通商条約を結ぶ交渉を開始し、両国の資産凍結を解除する。   5. 日独伊三国同盟は、太平洋の平和に反しないと合意する。  以上の五つです。 ここで、「中国」に「満州」が含まれていない、という解釈が、ハル・ノートの草案に書かれていたのですね。米国は、満州について問題にしていなかったのだと。  「日本の軍部は、軍事を理解せず戦争が下手くそなうえ、政略も軍略も分からず、地政学を理解していない。だからハル・ノートを、前向きな提案だと受け取ることができなかった。では、どう考えればよかったのか。」 (218)  日本が戦争に負ければ、ハル・ノートの提案内容よりも、悪い結果を飲まざるを得ない。そして実際に悪い結果になった。もしこれが分かっていたのなら、日本はハル・ノートを丸呑みした方がよかった。当時の日本政府は、ハル・ノートを丸呑みしても、陸軍、海軍、そして米国に対して、うまく説得して政権を維持できたはずである。丸呑みした方が、日本の地政学的優位を保つことができたし、原爆を避けることもできたはずである。  このように考えてみると、地政学的に発想することは、戦争と平和の問題を考えるうえで、とても重要であ...

■自由民主主義にコミットできるか

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田中拓道『自由民主主義とは何か』ちくま新書   田中拓道さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   自由民主主義は、 1940-50 年代に最も用いられた言葉なのですね。その理念の起源は、近代の政治思想史と同様に、ホッブズやロックに遡ることができます。 現代においては、各種の民主主義論や、グローバル正義論において、この理念が問題になります。近代政治思想史において、中道的な議論はすべて、自由民主主義の理念の下に論じられてきた、と解釈できるでしょう。  ハーバーマスは「憲法パトリオティズム」を掲げましたが、同様に本書は、歴史的な次元で、自由と民主主義に対するパトリオティズムを掲げることができる、というのですね。これは発想として、ローティに似ています。  自由民主主義というのは、それ自体としては、感情的・信条的にコミットメントすべき対象ではないようにみえます。しかし歴史を振り返ると、人類は自由民主主義にコミットしてきたし、私たちはいわば復古的に、自由民主主義の再生を掲げることができる。  もっとも自由民主主義といっても、多様なので、この理念は一つのインパクトのあるイメージを提供するわけではありません。これはリベラリズムの場合も、民主主義の場合も同様です。具体的に、何をイメージしてコミットすればよいのか。  右派は例えば、天皇制、移民問題、国旗、国歌、などの対象にコミットします。左派は、これらを批判する以外に、何を積極的に擁護してコミットするのか。国会、選挙活動、 NPO 活動、ということになるのかどうか。そのようなことを考えました。

■最新の経済学史研究に学ぶヒント

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  本郷亮 / 松山直樹編『近現代経済学史入門 アダム・スミスからマーケットデザインまで』ナカニシヤ出版   松山直樹さま、吉原千鶴さま、恒木健太郎さま、ご恵存賜りありがとうございました。    マーシャルが生きた時代においては、しっかりした教科書と体系的な理論書を書くことが、重要な役割を果たしたのですね。経済学という学問をパラダイム化し、大学で経済学のステイタスを確立する。するとさまざまな大学で、経済学部を創設することにもつながった。つまり、当時の体系的な教科書は、学問の支配力を拡張する営みでもあったのですね。現在はしかし、そのような教科書を書く人が少ない。  マーシャルは、メアリー夫人とともに『産業経済学』 (1879) を出版します。そして『経済学原理』 (1890) を出版します。これらは半世紀にわたって、スタンダードなテキストとして読まれました。  ピグーの理論については、「正の外部性」の概念が、もっと論じられていいと思いました。政府が補助金を出したり、基礎研究を担ったり、流通過程を整備したりすれば、市場の作用をもっと活性化できる、という考え方です。政府が「投資する」と言い換えることもできます (72 頁 ) 。ですが、これは経済に投資するというよりも、経済社会ないし経済制度に投資する、ということでしょう。政府が市場のプレーヤーとなって投資するのではなく、市場を整備したり促進したりするための投資をします。  ドイツでは、ゾンバルトが 1930 年に『三つの経済学』を刊行しました。三つの経済学とは、「規整経済学(スミスの自由競争を正しいとみなす経済学)」、「秩序経済学(ミル、ケアンズ、メンガーなど自然科学をモデルにする理論)」、および、「理解経済学(ゾンバルトの立場)」です。  ゾンバルトは一般に、歴史学派とみなされていますが、ゾンバルトによれば、旧歴史学派(ロッシャー、ヒルデブラント、クニース)、新歴史学派(シュモラー)、最新歴史学派(ゾンバルト)を分けるべきだと言うのですね。  そして当時は、これらの三つとは別に、オルドー学派が登場します。本書の 128 頁によれば、ドイツのナチ党 (NSDAP: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparte...

■スマホ依存とAI時代の「日常消費」とは

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株式会社インテージ『なぜ日本人は、それを選ぶのか ? 』朝日新書   この本は、興味深いアンケート調査をーの結果を報告しています。いくつかメモを記します。   2019 年から 2024 年にかけて、テレビの利用時間はほとんど変化していないのに対して、パソコンの利用時間は約 20% 増加しました。スマートホンの利用時間は、約 40% 増加しました。人々はますます「画面」を見て過ごす時間が長くなっています。  スマホの場合、 SNS の利用時間は、全体の 27.3% 。 TikTok の利用時間は、 2024 年に平均で 1 時間になりました。動画については、 1 分以下の動画の視聴割合が、全体の 54.8% になりました( 2025 年)。 Z 世代 (1997-2009 年生まれ ) の 20 代の人たちで、 X のアカウントを持っている人は 6 割しかいません。しかも、 X の情報を信頼できると答えた人は、全体の 10% 強しかいませんでした (242, 250 頁参照 ) 。つまり若年層の人たちは、 SNS を利用しているのだけれども、同時に SNS はあまり信頼できないと考えているようです。  問題は、情報が断片的かつ大量になってきたことです。これはつまり、論理的に考えるよりも、直観的に判断することが増えてきたのではないか。偏った情報にさらされているわけではないとしても、断片的かつ大量の情報環境は、私たちの生活をどのように変えていくのでしょうか。  第四章第二節は、この本の理論的な枠組みを示しています。それは、「日常」や「ふつうの暮らし」という言葉の意味を考えるためのヒントになっています ( とくに 283-287 頁参照 ) 。   1. 多様化――選択の起点が「属性」から「文脈」へ移る。 例えば「 20 代女性」といった属性による消費選択は、一定の傾向を示さないようになりました。「 20 代女性」といっても、多様なのですね。消費の選択は各人のその時々の文脈に依存するようになってきた。 私たちにとって「日常 / ふつう」とは、属性ではなく、個々の文脈に埋めこまれた消費選択になっています。それは言い換えれば、自分の社会的な属性が後景に退くということでもあります。社会的属性から離れた「日常」が、社会的に構成されて...

■リカードウは新しいリベラル

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千賀重義 / 出雲雅志 / 佐藤有史編『リカードウ経済学再考 復元と創造に向けて』日本経済評論社   執筆者のみなさま、ご恵存賜りありがとうございました。   カール・ポランニーはかつて、リカードウもマルサスも資本主義の働きを理解していなかった、と批判したことがあります。二人は労働者の賃金水準が、生存可能なギリギリに押し下げられる傾向を「賃金法則」とみなした、というのです。しかしこのようなポランニーのリカードウ理解、マルサス理解は、誤っているというのですね。  リカードウの人生で特筆すべきは、ベンサムが進めた「クレストメイシア学校」 (1814-1821) に、深くかかわったことです。この学校は、貧民の子どもたちに、効率的な教育を提供しようと試みました。このような事業に、リカードウも寄付をしたのですね。 当時は社会的地位のある人たちが、慈善事業をしたり、あるいはそのような事業に寄付をすることが盛んでした。寄付をする際には、一人で寄付をするよりも、知人に手紙を書いて、寄付のお誘いをする。リカードウは、ミルに誘われて寄付をしたのですね。寄付を誘う文化というのは、いいですね。  この他、リカードウは、ブルームという人物が推進する幼児学校に寄付しています。リカードウはマルサスと比べると、進歩主義、新しいリベラルと言えます。次世代支援によって、労働の価値を高めることに意義を認めたのですね。興味深いです。(本書第五章、出雲雅志「リカードウの学校」参照)  

■現代リベラリズムはどこへ行く

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宇野重規 / 加藤晋 / 井上彰編『リベラリズム 基礎からフロンティアまで』東京大学出版会   執筆者のみなさま、ご恵存賜りありがとうございました。    リベラリズムといえば、ロールズの『正義論』や『政治的リベラリズム』などが有名です。本書はこうした内容に加えて、最新の議論を紹介しています。 現代のリベラリズムは、「自由」ではなく、「正義」を問題にしている。なぜ自由よりも正義のほうが重要なのか。そしてまた、自由や民主主義よりも「正義」のほうが重要なのか。これは、政治哲学の根本的な問題ですね。   J.S. ミルは『代議制統治論』で、「複数投票制」を提唱しました。まずすべての人に、一人一票を保障する。そして、高等教育の学位を保持している人や、専門職に就いている人には、追加で一票を与える。これはたんなる民主主義ではなく、能力主義(メリトクラシーではなくエピストクラシー)を反映した民主主義です。 ミルは、「質の高い効用」をもつことが、功利主義的な意味で「快楽の増大」であると考えました。ミルのこの考え方は、リベラリズムなのかどうか。「正義」の観点からいえば、リベラリズムではありません。しかし「自由」の観点から見れば、リベラリズムである、と言えるでしょうか。  民主的な議論の手続きと多数決は、それをうまく組織化すれば、よりよい政策を正当化できます。しかし、民主的に議論したとして、人々の正解率が、ランダムな正解率よりも低い場合は、どうでしょう。(この問題の立て方が間違っているでしょうか。) 民主主義は、多数決の政治が暴走しないために、リベラリズムのいう「正義」の理念によって、制約を受ける必要があります。また民主主義は、それがよりよい解答を導かない場合には、エピストクラシーによって補われる必要があります。このエピストクラシーは、ミル的な意味で、リベラリズムの一つの形態と解釈できるかもしれません。  この他、グレゴリー・マンキューのエッセイ「トップ 1% を擁護する」についての紹介があります。   N. Gregory Mankiw (2013) “Defending the One Percent,” Journal of Economic Perspectives, vol. 27, no. 3, S...

■マクロ経済学の教科書は進化していない

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  金子昭彦 / 田中久稔 / 若田部昌澄『経済学入門 第 4 版』東洋経済新報社   若田部昌澄さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    私がはじめて経済学の入門書を読んだのは、もう 40 年前でした。ですが本書の目次を見て、その内容があまり変わっていないことに驚きました。例えば第 12 章は、マンデル = フレミングモデルです。これは国際金融の理論であり、私が学部生のときにゼミで勉強した内容でもありました。とても懐かしい。 続く第 13 章は、総需要 - 総供給モデルの説明であり、最後は終章「今後の学習のために」で終わっています。  マクロ経済学というのは、この 40 年間、入門書のレベルでは、安定した内容を提供してきた。そしてその内容が、時代に取り残されているわけでもない。「パラダイム科学」として再生産されている。見方によっては「停滞している」とも言えますが、いったいどうなのか。この分野の学問の将来が気になります。

■国連は一時的ベーシック・インカムを推奨

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  法政大学大原社会問題研究所 / 岡野内正編『世界のベーシックインカム運動 歴史・現状・展望』法政大学出版局   永嶋信二郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ベーシックインカムは思想史的にみて、右派と左派の立場からそれぞれ提起されているのですね。そして現在でも、右派の一部と左派の一部がそれぞれベーシックインカムを支持しています。しかし左派の方が、この政策に訴えることが多いですね。複雑な状況を理解しました。  イギリスにおけるベーシック・インカムの起源として、トーマス・ペインとトーマス・スペンスの二人がよく参照されます。ペインは、私有財産制と市場経済の下で、高齢・障害・出産・育児に対する普遍的な社会保障を提案します。これに対してスペンスは、土地を自治体のコモンズとして共有し、その地代から得られる利益を、普遍的に分配するという提案をしたのですね。いずれも 1797 年の提案であることも興味深いです。   20 世紀前半のイギリスでは、ミルナー『国家特別手当の計画』 (1918) や、リズ・ウィリアムズ『新しい社会契約』 (1943) など、ベーシックインカムの具体的な提案が構想されましたが、採用されませんでした。 1942 年の『ベヴァリッジ報告』に基づいて、社会保険制度が確立されていきます。  ベーシックインカムは、たんなる福祉国家主義ではなく、もっとラディカルな左派からの提案だったのですが、その場合の「ラディカル」の意味は、福祉の提供に際して、受給者の生活世界に対するミクロ権力を回避するということです。  現在、ベーシックインカムが、右派と左派に共通する関心になっている事情について、以下の文章を引用します。  「 BI[ ベーシックインカム ] は一般的なイメージとして、左派的ないしは社会主義的な傾向を持つ政党を含む運動団体や活動家などの間で見られる政策とされることが多いが、必ずしもそうではない。むしろ、英国やアイルランド共和国では、 BI をめぐって、いわゆる経済的新自由主義ないしリバタリアンの立場からの議論や保守系政党からの政策提起が存在し、具体化に向けた議論の推進力となっている点を見落としてはならない。」 (216) 南野泰義「新自由主義経済政策が生み出した社会的緊張への政治...

■快楽は、満足させられる欲望の量と時間に依存しない ゲーテ

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  ピエール・アド『生きることを忘れるなかれ ゲーテと精神的修練の伝統』村松正隆訳、法政大学出版局   村松正隆さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ゲーテは、ストア派に霊感を受けただけでなく、東洋とペルシャ文学を発見してから、イスラムにも霊感を受けたのですね。 1815 年の『西東詩集』では、「イスラム」が神への帰依を意味するなら、われわれは皆、イスラムのうちに生き、かつ死ぬ、と書きました。  ゲーテは、「われわれは皆、イスラムのうちに生き、かつ死ぬ」というフレーズを気に入っていてたようです。よく取り上げたのですね。  本書の最初の章がとても面白かったです。  「快楽は満足させられる欲望の量に依存しないばかりか、なかんずくそれが続く時間の長さにも依存しない。快楽は、絶対に完全であるために長時間続く必要はない。「無限の生の時間は、私たちが有限と理解しているこの生の時間が味わわせてくれる以上の快楽を味わわせることができるわけではない。」」 (28)  快楽の頂点というのは、「魂の完全な平安を保証するもの」だというのですね。この頂点があれば、時間は関係ないのだと。  しかしこれは、人生において、自分の魂の頂点を経験することではなく、現在という時間が、すべて頂点になりうるということです。それは、過去と未来について考えずに、現在に集中する能力を前提としています。これは人格の成長を前提とするのではなく、人格が成長するにせよ、そうでないにせよ、「いま生きて在る」ことの歓びを、快楽として感じられるということですね。では、そのために必要なことは何か、という問題になりますが、本書は第二章で、やはり「精神の高み」に達するための「修練」を前提としています。  精神の修練、人格の成長、という想定があってこそ、「いま生きて在ることの歓び」がある。それはなぜかと言えば、私たちの欲望が歓びの源泉にならず、欲望以外の快楽が感じられるようになるからでしょう。そのような快楽は、欲望を脱して、絶対性と完全性を備えているのでしょう。  そのようなことを考えてみました。

■民主主義に将来世代の代弁者(オンブズマン)を

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田村哲樹 / 山本圭『現代民主主義理論ハンドブック』ナカニシヤ出版   田村哲樹さま、山本圭さま、執筆者のみなさま、ご恵存賜りありがとうございました。   「自由民主主義」という用語は、 19 世紀につくられたのですね。自由民主主義は、社会主義体制との対比で、市場経済をベースとした民主主義の体制を表す言葉として流通しました。 Andreas Schedler (2002) “The menu of manipulation,” Journal of Democracy 所収の論文は、興味深いです。法の支配や健全な官僚制をもった「自由民主主義」、法の支配がなく官僚制も健全ではない「選挙型民主主義」、まともな選挙がなされていない「選挙型権威主義」、選挙がそもそも有効ではない「閉鎖型権威主義」の四つのタイプを区別しています。もちろん、実際の政治政体には、うまく分類ではない形態もあるでしょうけれども、さまざまなタイプの政体を論じています。  現代の問題は、「自由民主主義」が経済成長や社会の繁栄を約束するわけではないということでしょう。別の体制の方が、経済成長するかもしれない。そのような余地があるので、自由民主主義を維持することが困難になっています。  自由民主主義はなによりも、悪しきポピュリズムをまねく「フェイクニュース」や「ヘイトスピーチ」や「キャンセルカルチャー」に対処しなければなりません。 フェイクニュースは、 SNS で拡散する可能性があるので、これを禁止する( SNS 業者に公的義務を課す)。あるいは、 SNS がフェイクニュースであふれるとしても、フェイクではないニュースを無料で提供するメディアを、助成金によって育てるような仕組みが必要です。  この場合の「自由」とは、議論を通じて「真理」に到達する可能性(知識の成長論的・認識論的な想定)です。  この他、現代の民主主義で、将来世代の意思をいかにして民主的に取り込むか、という問題があります。 以下のような文献があるようです。 Linehan, J., & Lawrence, P. (Eds.). (2025). "Giving Future Generations Human Rights." Waite, C., et al. (2...

■お金があれば芸術活動をするだろう ハイエクの人間観

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  池田幸弘『自由・秩序・進歩 ハイエク『自由の条件』を読む』慶応大学出版会   池田幸弘さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。     F.A. ハイエクは『自由の条件I』で、政府が芸術活動を支援するための方法を考えました。本書は、次の文章を引用しています。   もしわれわれに、そのような集団を生み出す、よりよい方法が分からないとすれば、人口全体から百人に一人あるいは千人に一人を、無作為に選び、かれらが何を選択しようとそれを追求するに十分な資産を授けるのをよしとする有力な議論があってよいだろう。 191 頁、邦訳 176 頁。     100 人に一人、あるいは千人に一人、政府が無作為に莫大な資産を授けたとしましょう。するとその人は、何をするでしょうか。おそらく一定の割合で、芸術活動をするでしょう。無駄遣いする人もたくさんいるでしょうし、奢侈的な消費生活をする人もたくさんいるでしょう。けれども文化が成熟すれば、ある程度まで、人々は芸術活動をするだろうと期待できます。  もちろん政府ではなくて、富裕層が芸術家の活動を支援する、という方法もあります。保守主義者であれば、この方法に賛成するでしょう。しかしハイエクは、保守主義者ではありません。富裕層が芸術活動を支援することを認めますが、それ以外のアイディアを検討します。  芸術活動は、たんに市場に任せるだけでは、あまり発展しません。市場で売れる芸術は、真の芸術ではないことが多いです。そこでハイエクが検討するのは、くじ引き制でもって、無作為に莫大な資産を誰かにあげる、という方法なのですね。  市場経済を擁護するハイエクは、金儲け第一主義ではなく、むしろ人間は、お金があればそれ以上に儲けようとしない、芸術に向かう人間だ、という楽観的な期待があったのですね。  もちろん、金儲けを優先する人もいます。しかしそうではない人もいる。これはリアルな人間観ですが、ハイエクはさらに、リアルな人間観を超えて、人間の文化的欲求に対して楽観主義的だった、といえるかもしれません。

■二宮尊徳と松下幸之助はリベラル

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  岸泰正『経営哲学と人間観 経営学者の形而上学的論理に対する批判的考察』中央経済社   岸泰正さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    この本には、日蓮上人から稲盛和夫にいたるまで、著名な日本の経営者・経営思想家の 42 人のリストがあります。これを見ると、いろいろな思考を喚起されます。  日本で重要な経営思想は、仏教や儒教を背景にしているため、宇宙との関係で人間を捉える点が共通している、というのは興味深いです。宇宙と人間の関係を、どう捉えるのか。形而上学的ですね。  しかしそれ以上に、本書の最後まで読み進めると、日本の経営思想が、どこまでリベラルなのか(人間の個性と多様性を尊重するのか)、という問題を検討していて、これが興味深いですね。   246 頁の図 8-8 は重要です。鈴木正三、石田梅岩、渋沢栄一、稲盛和夫は、反リベラルだという評価ですね。これに対して二宮尊徳と松下幸之助は、リベラルだったという評価なのですね。  人間と宇宙の同一化を求める思想は、個人の違いを尊重しない傾向にあります。しかしそうした中で、どのようにして他者を尊重するのか。そのような哲学・経営思想を読み解くと、リベラルの価値が析出されます。  二宮尊徳と松下幸之助は、いずれもナショナリズムの道徳という観点から評価されがちですが、そこにリベラルな要素を読み込んで、リベラルなナショナリズム、リベラルな集団主義(会社主義)という立場として評価できる。これは思想研究の成果として、重要だと思いました。

■転勤と給与とジェンダー

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  大槻奈巳編『ジェンダー公正な人事制度とはなにか 雇用管理区分・転勤制度・見直しの実態と課題』勁草書房   大槻奈巳さま、執筆者のみなさま、ご恵存賜りありがとうございます。    本書の調査によると、一回も転勤したことがない人は、男性で 44% 、女性で 57% 。回答者の 2/3 は転勤したくない、と答えています。転居を伴う転勤は、家族の負担が大きいと答えた人は 85% でした。  雇用管理として、全国どこにでも行く被雇用者、それとも行かない被雇用者、という区別があります。勤務地の限定を希望した場合の給料は、全国転勤型の 80-90% 程度になります。昇進も制限されることが多いです。  本書で調査したある会社では、男性の 8 割は、勤務地を限定せず(つまり全国どこでも行くことを選び)、業務範囲も制限も設けない、という選択をします。これに対して女性の 6 割は、転居を伴う転勤なしを選び、特定業務のみを選択します。  こうした状況で、「ジェンダー公正」を実現するためには、どうすればいいのか。それは「転居を伴う転勤なし」で「特定業務のみ」でも、女性を差別せずに昇進できるような雇用体系にすることが必要だ、というのですね。また、転居を伴う転勤をして、職業能力が上がったと回答する人は、約半数にとどまるというのですね。  女性の方が男性よりも、家族を優先してしまう(家族に負担をかけたくないので勤務地を変えたくないという)。このような状況で、女性の場合は、勤務地を変えなくても昇進できるように、アファーマティヴな制度支援をすることは可能でしょうか。あるいは子育中の社員に対しては、転勤を迫らないという配慮は、すでにあるのかもしれません。  女性社員に対するアファーマティヴな対応が、制度的に求められるのではないかと思いました。  

■財政規律をルール化した国々

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横田正顕編『財政規律の比較政治経済学』有斐閣   加藤雅俊さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    オーストラリアは、 1998 年に、予算公正憲章法 (charter of Budget Honesty Act) を制定して、健全な財政を憲法でルール化したのですね。すなわち、財政リスクの管理、国内貯蓄の確保と循環的景気変動への対応、税負担水準の安定性、税体系の整合性、将来世代への配慮、の五つをめぐるルールです。 ジョン・ハワード( John Howard )が率いる保守連合政権は、 1996 年から 2007 年までの 12 年間、オーストラリアの政権を担当しました。 それ以前の労働党による財政悪化を克服するために、保守連合政権は、財政ルールを作ったのですね。さらに対米同盟強化、厳格な移民・難民政策(太平洋解決策)、多文化主義への批判などの立場をとりました。経済的に安定した成長をもたらしました。  この財政の憲法化は、元々、ジェームズ・ブキャナンが提唱した考え方です。 21 世紀に入って、いろいろな国で導入されるようになりました。例えば、・・・   ドイツ: 2009 年、ドイツは基本法を改正し、財政赤字を GDP 比 0.35% に制限し、州政府の財政赤字を禁止する「債務ブレーキ」を導入した。 スイス: 2001 年に憲法上の債務ブレーキを導入( 2003 年施行)。これにより、景気循環に合わせて調整された均衡財政が義務付けられる。 ポーランド: 1997 年憲法は、公的債務が GDP 比 60% を超えるような財政的義務を負うことを禁止している。 スペイン: 2011 年に憲法を改正し、国レベルおよび地方レベルの両方で均衡財政を義務付け、 2020 年から財政赤字の上限を定める。 イタリア: 2012 年に憲法に均衡財政に関する条項を追加し、財政構造の均衡を義務付けた。 フランス: 2008 年に憲法第 34 条を改正し、公共部門の財政収支の均衡を目標に盛り込んだ。 スロベニア: 2013 年に憲法に均衡財政条項を盛り込んだ改正案を承認し、 2015 年に施行された。香港:基本法(第 107 条)は、予算を均衡させ、 GDP 成長率に比例させることを義務付けている。...

■立憲民主党の支持層は排外主義を強く否定していない

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桑名祐樹『社会階層と政治の分断 調査データで読み解く対立と格差』勁草書房 桑名祐樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    日本人の投票行動と政党の関係について、独自の統計分析をしています。  まず、社会意識の違い、例えば「リベラル」と「保守」の違いによって、投票行動に差が生まれないというのは、興味深いです。  例えば、「いまの日本社会は格差が拡大している」と思っている人と、そのように思っていない人がいるとします。この場合、格差の拡大を感じている人の方が、社会問題に敏感で、投票する傾向が高くなるのではないかと思いますが、そうでもないという結果なのですね。  ただ、大卒と非大卒で、大卒の人の方が投票する傾向にあるのですね。  立憲民主党の支持層は、大卒が多いです。大卒の人たちは、あまり格差が拡大していないと感じていて、しかも競争社会を肯定する傾向にあります。とはいえ、立憲民主党の支持者は、大卒が多いとはいえ、格差の拡大を心配し、競争主義の社会は良くないと考えます。つまり、立憲民主党の支持層は、大卒の人たちの中で、ややマイナーな人たちである、ということになります。  ただ、 2009 年に民主党が政権を執ったときには、広範な人たちに支持されました。 「所得をもっと平等にすべき。」 「生活に困っている人たちに手厚く福祉を提供すべき。」 「競争は格差を拡大させるなど問題の方が多い。」 「権威ある人々にはつねに敬意を払わなければならない。」 「伝統や慣習にしたがったやり方に疑問を持つ人は、結局は問題を引き起こすことになる。」 「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ。」・・・ このような質問に対して、答えが「はい」でも「いいえ」でも、どちらも民主党に投票したのですね。統計的に有意な偏りがなかったのだと。  ところが、 2017 年に結成された立憲民主党を支持した人たちは、再分配の拡大を支持しました。その一方で、支持者たちは、中国に対する排外主義を否定するわけではなかった(つまりナショナリズムの傾向が強まった)というのですね。  この分析から私が得たことは、立憲民主党の支持層は、権威とナショナリズムについて、そこまで強い意識を持ったリベラルによって支えられているわけではない、ということです。すでにこの時点で、従来のリベラル - 保守の軸では、捉えられない支持層になっ...

■日本のエネルギー自給率

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宇佐美誠編『エネルギー正義 公正な脱炭素へ』明石書店   宇佐美誠さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    気候変動訴訟や、若者の気候変動社会運動を扱っている、ホットな内容です。 とくにマヌエラ・ゲルトハート・ハルトヴィッヒ著、第三章「エネルギーシステムの不正義性」を興味深く読みました。 太陽光発電や電気自動車のバッテリー用の鉱物は、第三世界で採掘されていることが多く、児童労働の問題があります。またその鉱物は、採掘された後に、中国で加工されているので、諸国の経済は中国に依存してしまう、という問題があります。 日本のエネルギー自給率は 11.3% で、 37 位です。これを引き上げる必要があるのですね。しかしこれは、正義の問題というよりも、国防の問題として捉えた方が、ストレートだと思いました。 日本は現在、化石燃料を段階的に廃止する取り組みが不足しています。これを進めることが、エネルギー正義の最大の論点なのでしょう。 また日本は、日本国際協力銀行を通じて、フィリピンなどの国の LNG のガスプロジェクトに融資している、というのですね。これは不公正な融資であり、地球の友ジャパンは 2024 年に、日本政府に対して、化石燃料への資金提供を停止するように求める請願書を発表しました。 LNG のほうが、石炭よりも 24% 、気候に悪影響を及ぼすのですね。 このような問題をどのように克服していくべきなのか。注視していきたいと思います。

■脱成長の多様な意味について

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桑田学『環境と社会思想』放送大学   桑田学さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、放送大学の「大学院」のテキストです。新しい思想史の分野を切り拓いたと思います。内容の仕込みに、大きなエネルギーを感じました。 環境の観点から社会思想を振り返ると、デカルトやベーコンやロックなどの思想家の思想も、新たな視点で読み直すことができます。フレッシュでした。  そして、最後の章で「脱成長」論について検討しています。脱成長とは、「反成長」ではなく、何らかの well-being の成長を想定していると思いますが、その解釈は一義的ではないのでしょう。脱成長は、「経済成長ではいけない」という批判を共有しているけれども、積極的に何が望ましいのかについては多様なのだと思いました。 ただ、 GDP が増えるか減るかは、「脱成長」の観点から、あまり意味がないというのですね。脱成長派は、「 GDP を減らせ」と言っているわけではないのですね。  経済成長は、人間生活の生態的な基盤を破壊するから望ましくない。だから生態系を維持する生活と経済圏を築いていくべきだと。 この考え方は、「脱成長」と言わなくても、エコロジー派であれば、受け入れられるでしょう。 経済成長は、私たちの生活を誤って測定するものである。この批判も、ウェルビイング論全般の主張と同じです。  経済成長は、疎外を作り出す。これはマルクス主義とヒューマニズムの論点であり、脱成長と言わなくても、これまで議論されてきました。  経済成長は、資本主義的な搾取と蓄積に依存する。これも、マルクス経済学が問題にしてきたことで、この観点からいえば、脱成長とは、社会主義の経済を作ることであり、そのためには搾取と蓄積を克服しなければなりませんが、それをどうやって実現するのかが問題です。  経済成長は、ジェンダー化された搾取に基づいている。この批判は、フェミニズムによる批判です。  経済成長は、非民主的な生産力や技術を作り出す。この批判は、これまで、産業民主主義の観点から提起されてきました。  経済成長は、資本主義の中核と周辺のあいだに、支配、採取、搾取の関係を生み出している。この批判は、これまで南北問題として語られてきました。  こうしてみてくると、「...

■巨大IT企業を分社化すべきか

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松井暁『入門 資本主義 私たちの生きる世界』地平社   松井暁さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。     2024 年 8 月、米国の地方裁判所は、グーグル社が「検索」と「広告」の市場で、競合他社を競争から排除したとして、反トラスト法違反の判決を下しました。  つまりグーグル社は、独占企業だというわけです。ではグーグル社を分割して、自由競争を促すべきでしょうか。 米国民主党の議員、エリザベス・ウォーレンは、巨大 IT 企業の独占を解体すべし、と訴えています。また、 2021 年にバイデン大統領は、連邦取引委員会の委員長に、左派のリナ・カーンを任命して、独占資本を制約する方向に、法の改正をすすました。このように米国では、左派が中心となって、独占を批判し、自由競争を求めています。  しかしマルクス主義は、別の発想をするというのですね。   (1) 独占であれ自由競争であれ、資本主義は望ましくない。   (2) 独占の解体は、消費者に不利益をもたらす。   (3) 独占を解体しても、巨大企業が支配する社会構造を根本的に解決することはできない。   (4) いかなる独占が国民にとって不利かは分からない。  マルクス主義は「左派」と言われますが、米国の「左派」とは正反対です。マルクス主義者の提案は、巨大企業の民主的規制であり、労働条件の改善であり、地域経済への配慮であり、消費者の保護であり、情報の公開だ、というのですね。そしてさらに、巨大企業を公有化していくべきなのだと。  グーグル社を分社化するか、あるいは分社化せずに、その株式を米国がすべて保有する方向に変革していくのか。この違いです。  私の関心から言うと、グーグル社のような巨大企業については、株式の保有を強制的に分散させることが望ましい。各国はその国民が利用する割合に応じて、株式を保有する。そのように義務づける。これはほとんど不可能に見えますが、このような政策をした場合に何が生じるか、考えてみる価値があると思いました。