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■医療の民営化と第三の道

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森臨太郎『イギリスの医療は問いかける』医学書院 森臨太郎『持続可能な医療を創る グローバルな視点からの提言』岩波書店 森臨太郎『ひとの病いと社会の病い』 (2022-2023 の共同通信連載稿の書籍化 )   森臨太郎さま、ご高著三冊をご恵存賜り、ありがとうございました。    『ひとの病いと社会の病い』で、国際的な非営利団体「コクラン」という組織が紹介されています。医療に関して、質の高い情報を分析して共有するという活動をしています。森さまは、この組織の日本支部を立ち上げられたのですね。  『イギリスの医療は問いかける』では、日本の医療の美点が論じられています。ご自身も、予定日より四カ月半早く生まれた赤ちゃんの生育を支えるために、昼夜・曜日に関係なく働き続けた話に染み入りました。また、研修医たちは、飲み会においても、手術の手つきを練習している。そのような日々の振る舞いに触れられています。  日本の医師や看護師や心理士などの医療関係者たちの質は、とても高いです。しかし問題は、長時間労働です。もし労働基準法を守ったら、医療そのものが成り立たなくなる、というのですね。これは深刻です。  『イギリスの医療は問いかける』は、ブレア政権以降の英国で、「第三の道」の理念が、どのように医療制度を変更してきたのかについて、詳しく述べられています。「新しいリベラル」という次世代投資の観点から、大いに学びました。  『持続可能な医療を創る』では、日本の医療の問題が指摘されています。市場メカニズムを導入する一方で、医療の分野に投資が進んでいない、というのですね。  本書の最後に、「八つの提言」があります。医療の分野でも、事業の一部を民間に任せていますが、そのような民営化の政策がうまくいくためには、マネジメントを評価できる行政官の育成が不可欠です。科学的根拠に基づいてマネジメントを評価するために、予算を計上しなければならない、というのですね。  この民営化のマネジメントを、「新自由主義的でダメだ」と批判する人もいるでしょう。すべての医療セクターを公的に運営すべきだ、という人もいるかもしれません。しかし限られた予算で質の高い医療サービスを提供するには、望ましい競争環境を創って、持続可能な経営を実現しないといけない。本書はそのため...

■J.S.ミルの女性論はしだいに保守化した

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柳田芳伸/原信子編『経済学者たちの女性論 ジェンダーの視点で経済思想を問う』昭和堂   小沢佳史さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ご高論「 J.S. ミルの『経済学原理』における女性――男女の平等から労働者の境遇改善へ」を拝読しました。  ミルは、女性の社会的地位について、少しずつ論じ方を変えたのですね。『経済学原理』の初版から第七版にかけて、どのように変化したのか、テキストクリティークによって明らかにしています。すると重要なことが分かったと。  ミルは、労働市場で競争する自由を、女性から除外することは望ましくない、というのですね。具体的に問題になるのは、結婚した女性が働いて、夫に頼らずとも生きていける。そのような利点( = 自由)を認めるかどうかです。 163 頁。  ミルは、これを認めます。しかし『経済学原理』の第五版と第六版で、次のように加筆するのですね。「一家の母親が、生きていくために少なくとも自宅以外の場所で働かなければならないということは、労働者階級の恒常的な要素として望ましいものと見なされえない」のだと。  このミルの言葉は、新保守主義的な解釈が成り立つ部分ですね。ミルは、女性の経済的自立を推奨していたのですが、しだいに経済的な自立の利点について、断定するのではなく推量するにとどめるようになったのだと。  ミルはしだいに、専業主婦を認めるという、保守的な立場に変っていったようです。これは G. ヒンメルファーブのミル解釈と親和的です。自由主義が、進歩主義的なものからしだいに新保守主義的なものへと変化していく。そのような推移が、ミルのなかにも読み取れるというのは、重要な思想史理解だと思います。  問題は、このようなミルの変化を、どう思想史的に位置づけるかです。そもそも、ミルの自由の哲学も、新保守主義を許容する論理構造になっていたのかどうか。ミルの自由主義をどう評価するか。大きな問題だと思います。

■マルクスのエコロジー論

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マルチェロ・ムスト編『マルクス・リバイバル キーワードと新解釈』斎藤幸平 / 佐々木隆治 [ 監訳・解説 ] 、地平社   岩熊典乃さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ジョン・ベラミー・フォスターの第 10 章「エコロジー」(岩熊訳)を、拝読しました。 1970 年代から 1980 年代にかけて、第一段階の環境社会主義者たちは、マルクスの自然論を低く評価していたのですね。そしてこの低評価を前提に、マルクス主義のグリーン化を模索したのだと。 けれどもマルクスは、実際には、自然破壊を糾弾していた。環境破壊の危機を認識していたのですね (271-273 頁 ) 。マルクスは「持続可能な農業生産」についても言及しています (275 頁 ) 。 問題は、マルクスの思想的な観点です。 271 頁を参照すると、マルクスは、いわば設計主義的理性の観点から、自然を意識的に支配し、自然を荒廃させないようにすべきだ、と考えていたようにみえます。しかしマルクスは、実際には、設計主義的理性の限界も理解していた。 設計主義的な理性によって、自然の限界を乗り越えることができるのか。言い換えれば、環境破壊を乗り越えて、技術的にこの問題を克服できると考えるのか。マルクスはそうではなく、自然の限界(壁)を、設計主義的理性(技術)によって乗り越えようとすると、「資本と自然のあいだに矛盾が生じる」と考えたのですね (277 頁 ) 。マルクスは技術万能主義者ではなかったのだと。 1880 年に、マルクスは、ポドリンスキーの未発表の初稿から、非常に広範なメモを取った、という事実は興味深いです。 結論として、マルクスとエンゲルスが『聖家族』で描いた革命的プロレタリアートの関心が、一般化されています。環境問題(エコロジー的危機)に対処することは、私たちの課題であり義務である。そしてまた、革命的なエコロジー運動は、環境民主主義的な局面を経て、幅広い同盟の構築を目指すべきである。そのようなことが提唱されています。 以上のようなマルクス派のエコロジー論には、多くの点で同意できます。問題は、マルクスのエコロジーを、たんに学説史的に再構成するのではなく、もっと思想的なレベルでバージョンアップする思想家が現れないといけない。そのようなことを感じました...

■人間が非利己的になる経済ビジョンとは

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アルフレッド・マーシャル『経済学原理 第四巻』西沢保 / 藤井賢治訳、岩波書店   西沢保さま、藤井賢治さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    マーシャルは、当時の人々が「だんだん非利己的になってきた」ことに注目するのですね。そして将来的には、人間が人格として進歩する可能性があるのだと。そのような希望と展望をもって、経済政策を舵とる。そのような視角が見えてきました。   226 頁では、人々が現在の安楽や享楽をがまんして、将来、自分の家族が「より高尚な」生活をするために貯蓄していることが指摘されます。一方で、長時間労働はすでにピークに達し、今後は労働時間を減らしたいと思う人が増えるだろう、とマーシャルはみています。  当時は、粗野な生活を満たすことを「安楽」と呼びました。そしてそれ以外の高尚な欲求を含めると、一定の「生活水準」になると考えられました。 その当時、大英帝国で、奴隷を雇う際に、音楽その他の娯楽を経費として計上した方が、労働生産性が高くなる、ということが知られていました。たんに「安楽」の水準を上昇させれば、労働生産性が上がるというわけではないのですね。 (239 頁 )  そして、「労働の強度」が高い場合、長時間労働を続けると疲れてしまうので、短くしないと生産性が上がらない、ということも指摘されます (242 頁 ) 。  しかしマーシャルの考えでは、たとえ労働時間を短縮して労働の生産性を上げたとしても、余暇を上手に使う人が少ない。だから人類が進歩するためには、「若者」に注目して、余暇を上手に利用するように、うまく教育すべきだというのですね。  「現世代にとって最も差し迫った義務は、若者に対して彼らのより高次の性質を伸ばし、有能な生産者になるような機会を与えることである。そして、そのために不可欠な条件は、機械的な労苦から長期間にわたって解放され、これとともに、学校に通い、性格を強化し発展させるような遊びをするための十分な余暇が与えられることである。」 (276-277 頁 )  この発想は、社会的投資国家の原型と言えるでしょう。  

■寄付は未来社会への投資

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  『寄付白書 2025 Giving Japan 2025 』日本ファンドレイジング協会   坂本治也さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 ご論稿「寄付とは何か、寄付は何をもたらすか」を拝読しました。 寄付とは「公共的な贈与」なのですね。 一般に、公共的な次元では「正義の再分配」、私的な次元では「私的道徳感情(愛や慈悲など)に基づく贈与」という分類になるかと思います。ですが「寄付」はその中間の行為なのですね。 「正義」「寄付(公的な贈与)」「私的な贈与」。この三つがあって、もう一つは、私的な次元の「正義」もあるでしょう。すると全部で四つですね。「公的正義」「公的贈与 = 寄付」「私的贈与」「私的正義」。これらをどう組み合わせれば、最適な社会になるのか。これが問題です。  かつて明治神宮は、寄付によって作られました。私たち現代人も、寄付によって何か新たな文化を作ることができるかもしれません。  個人寄付の総額は、 2016 年に 7,756 億円でしたが、 2024 年には 2 兆 261 億円になりました。かなり伸びていますが、そのほとんどは「ふるさと納税」です。その一方で、寄付した人の割合は、ほとんど変わっていないのですね。人口の 45% 程度です。  アンケート調査で、「寄付に近い活動は何か」という質問があります。その答えとして、「被災地の応援のために、関連する商品を購入したり現地に旅行したりする」が 46.6% 、「地産地消の実践のために、地元の特産品を購入する」が 35.6% 。この他、「環境負荷・エネルギー・ CO2 の削減に配慮した商品やサービスを利用する」が 14.7% 。(これはこのようなサービスの提供が、情報としてあまり信頼されていないのではないか、と想像します。)「障がい者の雇用や収入につながる商品を購入する」が 30.6% 、でした。  もう一つ、「寄付は未来社会への投資だと思う」かどうか、という質問に対して、「そう思う / どちらかといえばそう思う」と答えた人は、約 60% だったのですね。四年前の調査と比べて増加しています。そして、「将来資産があれば、亡くなる前に一部を遺贈寄付してもよいと思う」と答えた人は、約 45% だったのですね。  これは新しいリベラルの考え方...

■体制に寄生する企業家たちをどうすべきか

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吉田昌幸『企業家像の経済思想』専修大学出版局   吉田昌幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    企業家精神論の系譜学です。このテーマで、考えられるかぎり、最善の成果を出していると思います。枝葉の議論をうまく退けて、メインの系譜を浮かび上がらせています。十分な時間をかけて練られた構成と内容になっていて、初学者にもわかりやすく説明する工夫が随所にあり、全体の枠組みが骨太に構成されています。 とくに新自由主義的な視点が、この研究の一つの重要な柱になっていると思いました。とくに言及されてはいませんが、ドイツのオルドー学派的な、競争秩序の観点です。  それはカーズナーとボーモルの比較です。オルドー学派とは直接関係ありませんが、競争秩序の観点から、この二人に関する議論を興味深く読みました。  企業家の役割と機能とは、いったい何か。この問題を考えるときに、プロ野球の選手と比較する、というのは面白いですね。プロ野球選手の「気質」は、「負けず嫌い」である。その「活動内容」は、「打つ、走る、捕る、投げる」などである。そしてその「システムにおける役割・機能」は、「打者、走者、内野手、外野手、捕手、投手」などである。  同様に、企業家の「気質」は、「進取の気性、好奇心、抜け目なさ」などである。その「活動内容」は、「起業、イノベーション、金儲け」などである。では、企業家が経済システムにおいて果たす役割と機能は、何でしょう。実は、この問題に応えるためには、経済システムについての一定の思想ビジョンがないと、答えられないのですね。学説史を振り返ると、さまざまな論者が、さまざまなビジョンのなかに企業家を位置づけて、企業家の役割と機能を位置づけてきたのですね。  カーズナーの企業家論は、これまであまり重視されなかったのですが、本書では、その含意をさらに引き出して展開しています。( 57 頁の図 2-3 参照。)カーズナーの企業家精神は、不確実性の問題を避けて、価格の差をたまたま「 hunch (直感)」によって発見するという、その能力とその成果によって、企業家の価格調整機能を位置づけます。本書はさらに、カーズナー的な企業家精神によって、新たな(潜在的だった)サービスや能力が発見される、ということに注目して理論を展開しています。  ボ...

毎日新聞のインタビュー記事につきまして、訂正します。

  毎日新聞のインタビュー記事につきまして、訂正します。 先日、小生が受けた毎日新聞の インタビュー記事 で、 私は重大なミスを犯してしまいました。[→すでに訂正していただきました。] 皆様、大変申し訳ありません。 以下、その経緯を記し、訂正します。 私は毎日新聞のインタビューで、高市早苗首相には「小カリスマ」の特徴があると答えました。 その後、新聞記者より、「小カリスマ」とは何か、と質問を受けました。 私は次のように、この言葉の定義を答えました。 "多くの人を引きつける力のある人、という意味です。 これには、人々がそのような人を待望している、という条件が加わります。"と。 すると、新聞記者より、小生へのインタビューを文字化するにあたって、 次のような文章をご提案いただきました。 "高市早苗首相は、宗教的指導者や英雄に見られる非日常的な力を持ち、人々もそのような人に救済を待望する「小カリスマ」だ。"と。 しかし私は、この文章はおかしいと思いました。誤解を招きやすいと思いました。 高市早苗と宗教的指導者/英雄(カリスマ)を同一視しているようにも読めるからです。 そこで、次のような修正案を示しました。 "高市早苗首相は、未来を語るリーダーだ。非日常的な力をあやつる「小カリスマ」の特徴がある。" そして紙面版では、この文章を採用していただきました。 しかし、なんと私は、こともあろうか、勘違いしていたのです。 Web版もこのように修正されるだろうと想定して、Web版の記事の文面を修正しなかったのです。結果として、Web版の記事では、修正されていません。[→その後、訂正されました。] これは私が、しっかり校正しなかったミスであります。 大変申し訳ありません。 新聞記者よりご提案いただいた文章は、私が高市首相を支持している印象を与えますが、しかし私は支持していません。 私が「小カリスマ」という言葉を用いたのは、 あまくでも社会学的な分析の観点からであり、 だからこそ私は、「小カリスマ」の定義に、英雄などを含めず、また、 「人々がそのような人を待望している、という条件が加わります」と加えたのでした。 私は、高市早苗を支持したり、まして魅了されているのではありません。 しかし校正段階で、大きなミスを犯してしまいました。 毎...

■大学教育に対する惜しみない愛

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  小峯敦『経済学史』ミネルヴァ書房 小峯敦編『福祉の経済学者たち 第 3 版』ナカニシヤ出版   小峯敦さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    大学教育に対する惜しみない愛を感じます。  『経済学史』は、ありきたりの教科書ではなく、要所要所で、学生を惹きつけるための興味深い内容が散りばめられています。例えば、水とダイヤモンドはどちらが価値が大きいのか。こうした古典的な問題を紹介する場合にも、少しひねって、ダイヤの消費者余剰と、水の消費者余剰を、一つのグラフの中に位置づけてみるのですね。すると、視覚の効果だけでなく、何かそこから新しい理論を考えるためのヒントになります。  各章の最後には、「練習問題」がいろいろ記されています。この本は 2021 年に刊行されましたが、最近では AI が格段に進化して、このような練習問題は、 AI に質問すれば答えてくれるのでしょうね。 AI が答えてくれない練習問題を載せるわけにもいかないし・・・。  編著『福祉の経済学者たち』も、よい教科書です。この本は、各章の最後に、レポート執筆のためのヒントが載っています。しかしこのヒントに導かれてレポートを書くことも、今年から AI ができるようになりましたね。  いったい大学教員は、 2025 年以降の AI の進化に対応して、学生にどんな課題を求めるべきなのか。どんなレポートでも、ほとんど AI を使って書くことができます。学生たちは、レポート課題を AI でこなして、それで大学を卒業してよいのかどうか。このような疑問は、教員も学生も、同じようにいだいているでしょう。  現在、新しい時代の教科書や授業方法、そして成績の評価方法が求められているのだと思いますが、それがどのようなものになるのか。模索しなければなりません。

■平和教育は「こんにちは」から

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佐藤香織 / 馬場智一編『『存在の彼方へ』を解読する レヴィナス研究の現在』法政大学出版局   加藤里奈さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   レヴィナスの後期の著作『存在の彼方へ』をめぐって、多くのレヴィナス研究者が論稿を寄せています。レヴィナスの哲学には、研究を呼び起こす力がありますね。圧倒されます。 ご高論「人間の聖性と挨拶 教育を語り直すために」を拝読しました。 「あいさつする」というのは、オークショットのいう「社交体」を形成するためのコミュニケーションです。他者を支配せずに、自由でフラットな関係性を保持しながら、平和な社会を再生産する。そのための一つの知恵だと言えます。 しかしあいさつは、たんに社会を円滑にするためにあるのではありません。レヴィナスは、あいさつという振る舞いに、 (1) あいさつする人が、他者を「存在として祝福する」契機と、 (2) 自分が真摯な存在であることを他者にさらけ出すという、リスクを負う契機を見出すのですね。そしてこのリスクに注目する。このリスクは、世俗の社会をこえる契機になるのだと。私たちはあいさつを交わすことで、自己と他者の「神聖性 / 聖性」を高め、聖なるものを共有する共同体を形成することができる。あいさつには、世俗を超えた要素があるのですね。 これに対して、「ようこそ(ウェルカム)」は、他者を歓待する言葉です。この言葉は、あいさつと違って、自己と他者の関係を、共同体の内部と外部に位置づけます。他者を歓待する場所は、「自分の居場所」です。他者はそこに迎え入れられます。 ところが「こんにちは」というあいさつは、このような共同体の内部と外部という境界を想定していません。かといって、あいさつは、共同体内部の関係に限定されるわけでもない。外国人でも、「こんにちは」という言葉を簡単に使うことができるので、言語共同体の親密圏は、開かれていきます。 人は、他者を認識する以前に、他者を気遣うことができるし、他者を祝福することができる。このような能力を発達させて、人々が互いに気遣い、互いに祝福し、互いに平和な関係を築いていくというのは、一つの理想ですね。共同体の境界をこえると同時に、世俗社会の境界をも超えていく。 そのような理想は、教育の課題でもあります。興味深いのは、...

■戦争責任の論理で移民の処遇問題を考える

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横濱竜也『移民/難民の法哲学 ナショナリズムに向き合う』白水社 横濱竜也さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    移民・難民を、どの程度受け入れるべきか。そしてまた、どのように受け入れるべきか。この問題について、最新の理論を検討しつつ、ご自身の見解を展開しています。大いに学びました。  最初に、これは移民・難民と直接は関係ありませんが、ナショナリズムの問題として、私たち戦後の世代は、戦争責任をどのように負うのか、という問題があります。本書の「はじめに」で論じられているので、私も少し考えてみます。  ここで瀧川裕英さんの議論を紹介されていますが、それによれば、「国家には国家の非難責任や謝罪責任に対応する形で戦争被害者に賠償する責任が生じうるが、しかしながらその国家に属することにより国民が賠償責任を負うという議論は成り立たない」のだと。 もっとも戦後世代を含めて、日本国民は、国家が戦争の賠償責任を果たすために、納税する義務を負っています。これは、国家が戦争の賠償責任を果たすことを、私たち国民が、民主的な手続きを踏んで拒否することはできない、という意味でもあるでしょう。その意味では、政治的に選択肢が制約されています。 これはつまり、私たち国民は、戦争に対して、賠償責任ではないけれども、なんらかの政治的責任を負っている、ということですね。私たちが民主的に決定できることの範囲は、過去の世代の振る舞いによって制約されている。  民主主義的な決定によって、戦争責任を放棄することはできます。しかしこれを制約しなければならない。これは、一つの政治的責任であり、つまり、もし国家が十分な賠償責任を果たさない場合には、私たち国民は、国家の振る舞いを批判して、国家よりも上位の国際機関や国際法に訴えて、賠償責任を果たすように行動する政治的義務ないし責任を負っている、ということではないでしょうか。 国家は、無責任な主体になるかもしれないので、国家に賠償責任を果たさせるために、国民は一人一人が自律して、政治的行動しなければならない。民主主義の社会においては、各人がそのような政治的責任を負う、ということではないでしょうか。正当な民主主義の社会は、このような主体を前提として成り立ちます。 とすれば、やはり戦後世代の国民は、実質的な意味で、賠償...

■社会学の「知」が、魂を救済する

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上野千鶴子/森田さち『上野さん、主婦の私の当事者研究につきあってください』晶文社 森田さちさま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  これはすごい本ですね。熱量がすごい。生きづらさ、自己嫌悪、死にたい願望、交通事故による臨死体験、パパ活、夜の仕事、中絶、結婚、子育て、社会活動、・・・ すべてがひっくり返っていて、非日常的な日常の世界が広がっています。一気に拝読いたしました。  壮絶な人生であり、「いいこと」と「嫌なこと」の振り幅が大きくて、ジェットコースターのようです。規律と逸脱、成功と失敗、・・・そして生きづらさを、どうやって克服するのか。この問題に、上野千鶴子先生との対話によって、迫っています。  キリスト教の世界であれば、教会の告解室で、告白・懺悔する。そうすることで、神に許され、魂が救済される、というコミュニケーションがあると思います。人は、生きづらさを語り、それを受けて宣教師は、バイブルを参照しながら、アドバイスをします。  しかし現代社会で、これに代替する機能を果たしているのは、社会学の当事者研究なのかもしれません。当事者が、自分の人生を社会学的に分析してみる。するとその生きづらさは、親子関係や、社会の仕組みによって生み出されていることが分かる。そしてそのような社会学の「知」が、魂を救済する。 自分の家族関係や、自分の置かれた社会関係を、しっかり言語化すること。そしてもっと世界を知ること。社会学を通じて、自分の悩みが、多くの他者の悩みでもあることを知ること。さらに他者が、自分と同じような悩みをどのように乗り越えたのかを知ること。 自分の問題を解決するためには、自分自身を変えるよりも、この社会を変えることによって可能になる。社会学を通じて、このように「内から外へ」と問題を広げることで、前向きに生きていくことができるのですね。内から力が湧いてくるようです。  社会学の当事者分析は、魂の救済を可能にする。上野千鶴子さんの対話力は、とにかくすばらしい。要所要所で、的確な言葉を返し、投げかけています。これが社会学の力であるのだなと、改めて認識しました。  突き放して言えば、悩みというのは多くの場合、何も考えずに、あるいはあえて直視せずに、気晴らしをすることで、少しずつ忘れていくものです。忘れることで、対処できる、という面が...

■鎌倉仏教革命が失敗した理由

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橋爪大三郎『鎌倉仏教革命 法然・道元・日蓮』サンガ新社   橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   鎌倉時代、日本の精神文化は、法然、道元、日蓮の三人によって一新されます。 それまでは輸入文化だった仏教。しかしこの三人によって、日本でオリジナルな精神文化が発展しました。西欧における宗教改革よりも、 300 年も早いのですね。 この三人は、「貧乏主義」という点で共通しています。いずれも、既存の仏教が貴族たちに奉仕している状況を改めて、「民衆(庶民)の救済」のための精神文化を目指しました。そして平安時代の仏教の正統性を、掘り崩していきました。 しかし、この鎌倉時代の仏教革命は、西欧の宗教改革がもたらしたような、本格的な社会改革には結びつきませんでした。それはなぜなのでしょう。 理由は二つあるのですね。 (1) 法然、道元、日蓮。この三人は、それぞれのグループに分かれて、連帯できなかった。ドイツで起きた宗教革命の場合、どのグループも、聖書という一つのテキストを共有していました。聖書の解釈が分かれるとしても、妥協したり連帯したりすることができました。しかし鎌倉仏教の場合、そのようなテキストが共有されていませんでした。 (2) 宗教は、政治に従属していた。日本は中国のやり方をまねて、仏教は、世俗の政治権力に服従する道を選んでいました。(インドでは、仏教は世俗の権力から分離していたのだが。)これに対してキリスト教は、政府の上にあって、政府の政治権力の正統性を与えることができたのですね。日本では、禅宗も、法華宗も、世俗社会にあり方に対する対案を出すことはありませんでした。ただ、唯一、念仏宗だけが代替案を示しました。自治組織を作って、政府と対立します。しかし念仏宗も、特定の地域を治めるほどの勢力にはなりませんでした。 以上の二つの理由を反省的に捉えると、日本で宗教が社会改革に結びつくためには、派閥同士の連帯、テキストの共有、世俗権力に従属しない精神的正統性の構築、自治組織に基づく対抗、といった実践が重要になるのではないか、と思いました。 さて、その後、この鎌倉仏教革命に対抗して、既存の仏教の巻き返しが起こります。  鎌倉時代の初め頃に、『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』という経典が、日本人によって、...

■中道でも極端な政治

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酒井隆史/山下雄大編『エキストリーム・センター』以文社   三宅芳夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    「エキストリーム・センター(極中道)」とは、中道だけれども、そこに極端な思想を取り入れざるを得ないような政治状況、ないし政治の体制ですね。  ピエール・セレナ著『極中道あるいはフランスの毒( 1789-2019 )』 (2019) は、「極中道」という観点から、フランスの政治史を分析しました。 フランスでは、 2017 年に、 E ・マクロンが大統領になります。その時のスローガンは、「右でも左でもなく前へ」でした。 マクロンは、イデオロギー的には穏健です。しかしその一方で、政府の執行権力を強力にコントロールしはじめました。政治的にいろいろな立場が拮抗すると、政治の正統性を、多数派のコンセンサスによって、生み出すことができまません。すると社会は不安定になります。 すると、イデオロギー的には中道で、バランスの取れた政治を行ったとしても、うまくいません。警察権力と軍事力をコントロールせざるをえない状況になります。そのような状況で、「極中道」というは、仕方のない統治方法にみえますが、しかしどうなのか。  極中道には、別のケースもあります。例えば、ナチスのような極右勢力を、政権の一部に取り入れたドイツです。民主主義を否定し、ナショナリズムを掲げる極右勢力が台頭してきたとき、しかも政治状況が不安定なとき、政権を握る与党は、極右勢力の要求の一部を取り入れざるを得ないでしょう。反対に、極左が台頭してきて、政治が不安定な場合は、政権与党は、その要求の一部を取り入れざるを得ないでしょう。いずれも、極中道と言えます。 また極中道は、次のようなケースでもありえます。中央の穏健派は、穏健な左派と、穏健な右派のバランスを重視します。その場合、穏健な左派が、新自由主義の政策を支持するケースがあります。最近のフランスでは、『ル・モンド』『リベラシオン』『ヌーヴェル・オブセルヴァトゥール』といった、中道左派の雑誌が、新自由主義を支持するようになったというのですね。このような穏健左派は、新自由主義という右派のイデオロギーに賛成しているので、「極中道」と呼びうるというのですね。  この他、ウクライナ戦争を受けて、西欧諸国は、軍...