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■親友家族を認めてよいか

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  阪井裕一郎『結婚の社会学』ちくま新書   阪井裕一郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    子どもを産み育てるためには、まず結婚しなければならないという慣行があります。しかしこの慣行が、かえって日本の少子化を助長している。結婚してから子どもを産まないと社会的に不利になる、という現状に問題があるのですね。 ではどうやって、家族制度を変革していけばいいのでしょう。  本書は、結婚をめぐる理論と歴史について、一通り検討しています。このテーマの入門書の決定版です。   2017 年に、アイルランドで、次のような結婚(同性婚)が話題になりました。一方は、 83 歳のマット・マーフィーさん。もう一方は、 58 歳のマイケル・オサリバンさんです。いずれも男性です。歳の差は 25 歳。二人は同性婚をしました。 二人はそれまで、長く親友関係にありました。恋愛関係はありませんでした。しかし二人は、ついに結婚します。愛し合っているからではありません。 83 歳のマーフィーさんは、 58 歳のオサリバンさんに、老後のケアしてもらいたいのです。その代わりに、不況で仕事とアパートを失ったオサリバンさんは、マーフィーさんの死後、家を相続する予定です。このような「ケア」と「相続」の友情契約に基づいて、二人は結婚しました。  二人は結婚しなくても、いっしょに暮らすことができたでしょう。しかし結婚しないと、オサリバンさんはマーフィーさんの家を相続することが難しい。高額の譲渡税が課せられてしまいます。二人は、譲渡税を免れるために結婚したのですね。 このような結婚は、「同性婚」の悪用でしょうか。そもそも結婚というのは、性的な意味で愛し合った二人がするものだから、友情にもとづいて財産を譲渡したい / されたいという理由で結婚するケースは、認められるべきではないでしょうか。  しかし「友人関係」と「家族関係」の線引きは、難しい。同性婚ではなくても、異性婚でも、友人関係に基づく結婚という同じ問題が生じます。 家族とは何か。どんな家族を認めるべきか。この問題は、法制度や行政制度の問題だけでなく、ある企業が「家族割」などの割引によってビジネスを展開する際にも、重要な関心事になります。企業は、「家族」の定義を拡大して、消費者たち...

■ハイエクの本質は非本質主義

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  太子堂正称『ハイエク入門』ちくま新書   太子堂正称さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ハイエク研究のまとまった入門書です。分厚いですが、とても読みやすく、どんどん読み進めることができます。  ハイエクは、登山、ハイキング、スキー、演劇、写真、音楽鑑賞などを趣味としていたようですが、音楽の守備範囲については、後年に至るまで、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスまでだったようですね。 ハイエクと同時代のウィーンでは、ブルックナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、シェーンベルク、ウェーベルンなどが活躍していました。こうした当時の「前衛」に、ハイエクはあまり興味がなかったのですね。アドルノとは対照的です。 私たちは、現代の前衛的な現代音楽を聴くかどうか。ハイエクが現代に生きていたとしたら、聴かなかったでしょうね。しかし私はこの歳になっても、前衛音楽を聴いています。ここら辺が、私とハイエクの大きな違いかもしれません。 本書で気になったのは、 405 ページで、新自由主義について論じられている箇所です。松尾匡によれば、近年の日本において、「上位下達的な民営化や民間委託、規制緩和、財政削減、国際的な市場統合といったさまざまな政策は、実際には非ハイエク的であり、むしろ彼が批判対象としたものであったと喝破している。」と。そして太子堂さんは、これは「大変重要な指摘である」と評価していますが、私はそうではない、と思いました。しかしこの点は、松尾匡先生の本を読んでじっくり検討しないといけないですね。 本書は、ハイエクの思想が本質主義的なものではない、と主張します。つまり、ハイエクの思想は、時代と場所が変れば別の含意をもつはずで、新しい含意を引き出しうる、ということですね。そのような点に、ハイエクの思想の魅力と生産性がある。これはたしかに、その通りだと思います。 各種の民営化や民間委託が、なぜハイエク的な政策ではないのか。ハイエク的にこれを進めるためには、何が必要なのか。ハイエク的に進めた方が、望ましいのではないか。このような議論の検討が必要でしょう。  

■経済原論を刷新する野心作

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  海大汎〔ヘ・デボム〕『労働者 主体と記号のあいだ』以文社   海大汎〔ヘ・デボム〕さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   二作目ですね。宇野派経済学の理論的発展を示すと同時に、根源的なところでは、宇野経済学とは別の原理を導入して、「経済理論」を拡張していると思います。とても粘り強い考察であり、体系的に理論を刷新するという野心をもった、きわめてすぐれた成果であると思います。 へデボンさんは、もともと韓国で、日本語が読めない段階で、柄谷行人の『世界史の構造』の韓国語訳を読み、それで宇野派の存在を知ったのですね。そしてそこから、日本語をマスターして、宇野派の経済学を理論的に発展させた。これは日本のアカデミズムにおいて、特筆すべき達成ではないかと思います。  この本の序論で、各章の内容がまとめられています。しかしこの序論を読んだだけでは、理論的に何を達成したのか、よく分かりません。読者は各章を読むしかありません。序論は、もっと専門的に書いてもよかったのではないか、と思います。  理論的な想定として、私は本書の「労働者」の規定とは別の考えを持っています。第一に、本書は、労働者が「なんでもつくれる」といっても、それは人間の本然の諸能力の範囲内で「何でもつくれる」にすぎない、と規定しています。これは誤っていると思います。人間は、そのような「本然の諸能力」を超えることができますし、できるからこそ、文明を発展させてきたのだと思います。これは、アマルティア・センのケイパビリティ概念についてもいえますが、人間の能力をある能力の束として捉えることは、やはりリアルではない。人間は、自分が知らない能力 = 潜勢力をもっているし、私たちが本然的だと想定している能力を超えた潜勢力をもっている。このように想定することが必要ではないでしょうか (56 頁参照 ) 。  労働力は、たんなる定型的な生産手段ではない。そこには、資産、資本、資源、といった、不定形な経済的投入物、というイメージがあると思います。本書は、労働者を「資源」とみなすことが相応しいと主張しますが、このように規定する段階で、資本の運動に捉えられない労働者、例えば学校の先生などは、資源をもつ存在ではない、とみなされるでしょう。ある労働者は、資本に取り込まれるのか、それ...