投稿

10月, 2025の投稿を表示しています

■経済原論を刷新する野心作

イメージ
  海大汎〔ヘ・デボム〕『労働者 主体と記号のあいだ』以文社   海大汎〔ヘ・デボム〕さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   二作目ですね。宇野派経済学の理論的発展を示すと同時に、根源的なところでは、宇野経済学とは別の原理を導入して、「経済理論」を拡張していると思います。とても粘り強い考察であり、体系的に理論を刷新するという野心をもった、きわめてすぐれた成果であると思います。 へデボンさんは、もともと韓国で、日本語が読めない段階で、柄谷行人の『世界史の構造』の韓国語訳を読み、それで宇野派の存在を知ったのですね。そしてそこから、日本語をマスターして、宇野派の経済学を理論的に発展させた。これは日本のアカデミズムにおいて、特筆すべき達成ではないかと思います。  この本の序論で、各章の内容がまとめられています。しかしこの序論を読んだだけでは、理論的に何を達成したのか、よく分かりません。読者は各章を読むしかありません。序論は、もっと専門的に書いてもよかったのではないか、と思います。  理論的な想定として、私は本書の「労働者」の規定とは別の考えを持っています。第一に、本書は、労働者が「なんでもつくれる」といっても、それは人間の本然の諸能力の範囲内で「何でもつくれる」にすぎない、と規定しています。これは誤っていると思います。人間は、そのような「本然の諸能力」を超えることができますし、できるからこそ、文明を発展させてきたのだと思います。これは、アマルティア・センのケイパビリティ概念についてもいえますが、人間の能力をある能力の束として捉えることは、やはりリアルではない。人間は、自分が知らない能力 = 潜勢力をもっているし、私たちが本然的だと想定している能力を超えた潜勢力をもっている。このように想定することが必要ではないでしょうか (56 頁参照 ) 。  労働力は、たんなる定型的な生産手段ではない。そこには、資産、資本、資源、といった、不定形な経済的投入物、というイメージがあると思います。本書は、労働者を「資源」とみなすことが相応しいと主張しますが、このように規定する段階で、資本の運動に捉えられない労働者、例えば学校の先生などは、資源をもつ存在ではない、とみなされるでしょう。ある労働者は、資本に取り込まれるのか、それ...