■経済原論を刷新する野心作
海大汎〔ヘ・デボム〕『労働者 主体と記号のあいだ』以文社
海大汎〔ヘ・デボム〕さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
二作目ですね。宇野派経済学の理論的発展を示すと同時に、根源的なところでは、宇野経済学とは別の原理を導入して、「経済理論」を拡張していると思います。とても粘り強い考察であり、体系的に理論を刷新するという野心をもった、きわめてすぐれた成果であると思います。
へデボンさんは、もともと韓国で、日本語が読めない段階で、柄谷行人の『世界史の構造』の韓国語訳を読み、それで宇野派の存在を知ったのですね。そしてそこから、日本語をマスターして、宇野派の経済学を理論的に発展させた。これは日本のアカデミズムにおいて、特筆すべき達成ではないかと思います。
この本の序論で、各章の内容がまとめられています。しかしこの序論を読んだだけでは、理論的に何を達成したのか、よく分かりません。読者は各章を読むしかありません。序論は、もっと専門的に書いてもよかったのではないか、と思います。
理論的な想定として、私は本書の「労働者」の規定とは別の考えを持っています。第一に、本書は、労働者が「なんでもつくれる」といっても、それは人間の本然の諸能力の範囲内で「何でもつくれる」にすぎない、と規定しています。これは誤っていると思います。人間は、そのような「本然の諸能力」を超えることができますし、できるからこそ、文明を発展させてきたのだと思います。これは、アマルティア・センのケイパビリティ概念についてもいえますが、人間の能力をある能力の束として捉えることは、やはりリアルではない。人間は、自分が知らない能力=潜勢力をもっているし、私たちが本然的だと想定している能力を超えた潜勢力をもっている。このように想定することが必要ではないでしょうか(56頁参照)。
労働力は、たんなる定型的な生産手段ではない。そこには、資産、資本、資源、といった、不定形な経済的投入物、というイメージがあると思います。本書は、労働者を「資源」とみなすことが相応しいと主張しますが、このように規定する段階で、資本の運動に捉えられない労働者、例えば学校の先生などは、資源をもつ存在ではない、とみなされるでしょう。ある労働者は、資本に取り込まれるのか、それとも他の可能性を追求できるのか、という理論的構成にはなりません。資本に取り込まれた段階で、「労働者」になるわけです。すると、資本主義のオルタナティヴを考える場合、労働者は、労働者以外の存在になる必要がありますね。市民とか、仕事人とか、何か別の名前を付けて表現しなければなりません。
いずれにせよ、労働者は、これまで、自分の商品価値を高めるように、自己管理すると考えられてきました。しかし本書の枠組みでは、労働者は、自分の資源的な価値を高めるように自己管理するだろう、という表現になります。これは「労働力商品」の特殊性を、いっそう踏み込んで規定する表現だと思います。
問題は、資本というものが、システムの運動によって制約された存在ではなく、個別の事情に応じて対応可能で、しかも、システムと対比される「記号(コード)」によって、理解できるものになる、という点です。例えば労働者は、信頼される存在になれば、そのような価値を資源としてもつことができる。このように柔軟で個別的な事情が重要になってくると、資本主義の下で、労働者としてよい生き方とは、どのようなものか、という問題を検討しなければなりませんね。
たんに資本の観点から評価される抑圧者、搾取された存在、として描くだけでは足りません。労働者は、資本から逃れて、もっとすぐれた生活を手に入れることができるのかどうか。本書はこのようなオルタナティヴを可視化するよりも、資本の運動のいわば「不透明性/多元性/個別性/豊かさ」の解明に向かっています。しかしここから、経済倫理の問題が出てくる。
この他、本書は、労働者と資本家の契約が、たんなる労働力の売買契約ではなく、条件契約という側面を持っていること、またそこには、たんなる搾取では捉えられない、経営管理上の支配-被支配の側面があること、などが議論されています。当然、これらの問題を論じるべきなのですが、宇野派の経済原論は、論じていなかったのですね。これらのテーマの議論を、経済原論に組み込むという本書の企ては、理論的に緻密であり、重要な貢献をなしていると思いました。