■ハイエクの本質は非本質主義
太子堂正称さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
ハイエク研究のまとまった入門書です。分厚いですが、とても読みやすく、どんどん読み進めることができます。
ハイエクは、登山、ハイキング、スキー、演劇、写真、音楽鑑賞などを趣味としていたようですが、音楽の守備範囲については、後年に至るまで、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスまでだったようですね。
ハイエクと同時代のウィーンでは、ブルックナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、シェーンベルク、ウェーベルンなどが活躍していました。こうした当時の「前衛」に、ハイエクはあまり興味がなかったのですね。アドルノとは対照的です。
私たちは、現代の前衛的な現代音楽を聴くかどうか。ハイエクが現代に生きていたとしたら、聴かなかったでしょうね。しかし私はこの歳になっても、前衛音楽を聴いています。ここら辺が、私とハイエクの大きな違いかもしれません。
本書で気になったのは、405ページで、新自由主義について論じられている箇所です。松尾匡によれば、近年の日本において、「上位下達的な民営化や民間委託、規制緩和、財政削減、国際的な市場統合といったさまざまな政策は、実際には非ハイエク的であり、むしろ彼が批判対象としたものであったと喝破している。」と。そして太子堂さんは、これは「大変重要な指摘である」と評価していますが、私はそうではない、と思いました。しかしこの点は、松尾匡先生の本を読んでじっくり検討しないといけないですね。
本書は、ハイエクの思想が本質主義的なものではない、と主張します。つまり、ハイエクの思想は、時代と場所が変れば別の含意をもつはずで、新しい含意を引き出しうる、ということですね。そのような点に、ハイエクの思想の魅力と生産性がある。これはたしかに、その通りだと思います。
各種の民営化や民間委託が、なぜハイエク的な政策ではないのか。ハイエク的にこれを進めるためには、何が必要なのか。ハイエク的に進めた方が、望ましいのではないか。このような議論の検討が必要でしょう。