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■人口が半減する社会を想像しよう

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遠藤薫編『人口縮小 ! どうする日本 ?  持続可能な幸福社会へのアプローチ』東京大学出版会 遠藤薫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  ローマクラブが 1972 年に発表した報告書「成長の限界」は、 21 世紀の中盤に、世界人口が急激に増えて、その後、いっきに減少するという予測でした。そのような局面で起きることは、粗死亡率の急激な上昇と、同時に、粗出生率の急激な上昇だと考えられました。食糧危機のため、人々が死んでいく。そしてその死亡を補完するかのように、出生率が急上昇する。たくさん生まれて、たくさん死んでいくというシナリオだったのですね。  明治維新 (1868) の頃の日本の人口は、 3300 万人でした。 2100 年には 6000 万人程度になると予想されていますが、その後は、その半分、つまり明治維新の段階に戻ることも視野に入れないといけませんね。  いま、日本の出生率を上げるために考えるべきことは、家族主義の呪縛です。 現在、比較的少子化に歯止めがかかっている北欧諸国では、婚外出生率が50%前後です。ところが日本や韓国は、このような婚外子が、極端に少ない。結婚による家族形成を前提としないと、子どもを産むことが難しい。そのような倫理的制約が、厳しい少子化を招いている可能性があります。  女性が家庭に留まる家族主義のほうが、少子化に苦しんでいる。反対に、男女共に働く社会の方が、少子化に歯止めがかかっている。だから日本は、家族主義的な制度を解体して、男女共働きで子供を産み育てる社会にしていくべきだ、ということですね。  

■課税制度と企業行動の関係について

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櫻田譲『租税と企業行動』税務経理協会   櫻田譲さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   まずこの本の表紙と裏表紙の写真がいいですね。表紙は、ネオワイズ彗星、裏表紙は、北大のポプラ並木を前景とした星の動き(とくに北斗七星)です。いずれも櫻田先生が撮影したのですね。すばらしい作品です。  彗星を撮影するときに、カメラに内蔵されているアストロレーサーによって、対象を自動追尾することができるのですね。それでこのような美しい写真が撮れるとは、いいですね。  そしてこの本の最後に、彗星の話が出てきます。ネオワイズ彗星が今度地球に接近するときは 5,000 年後です。そのときの会計や税のシステムに思いをはせるというのは、ロマンがありますね。研究というのは、まさにこのような時間の流れのなかで進みます。 5,000 年後を展望する。このような感覚は、櫻田先生の研究のスタイルにも表れているでしょう。  本書の内容についてコメントします。  一般に、研究開発費を増額すれば、そしてその比率を増やせば、企業は長期的に成長するだろうと言われます。しかし研究開発費の比率が高すぎると、投資家はかえって悲観的になるでしょう。反対に、この比率が低いと、投資家たちは、今後はその比率が高くなると期待できる、と楽観するかもしれません。本書の第一章は、そのような仮説を実証しています。  興味深いのは、企業の研究開発比率が高くなるのは、借入金が少ない場合だ、ということです。他方で、取締役会の構成メンバーの平均年齢が高くなると、研究開発費が上昇するのですね。より長期的な観点から会社の将来を考えることができるようになる、ということですね。  「ふるさと納税」については、納税する人の関心が、しだいに子育て支援や災害復興支援から遠ざかってきた、ということが実証されています。 私は昨年、「ふるさと納税 2.0 」という論稿を、『税務弘報』 (2024.11.) に寄せました。ふるさと納税は、子育て支援という目的をもった方向に、制度全体を修正していくべきだ、と考えています。 すでに子育て支援のための施設を十分に作った自治体は多いと思いますが、今後は例えば、教育クーポン制度(塾への補助)を導入するための資源として、ふるさと納税を位置づけることもでき...

■ウクライナ戦争の本質はプーチンの自己保身

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    井上達夫『悪が勝つのか?――ウクライナ、パレスチナ、そして世界の未来のために』信山社 井上達夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書はウクライナ戦争について、正しい見方を示していると思います。第一章の扉で、ウクライナ外務大臣クレーバの言葉からの引用があります。「持続的で耐久性のある平和は、ロシアが戦場で大敗北を喫した後にはじめて可能になる」と。  そうなのだと思います。  この戦争は、西側に非があるのではなく、プーチンの自己保身戦争である。プーチンにすべての非がある。だから西側は、ウクライナを全面的に支援すべきであり、どこかで妥協して和平に持ち込むならば、今後、同じような戦争を仕掛けてくる国が現れるだろう。すると世界は、もっと平和から遠ざかるだろう。そのように推測することが正しいと思います。  最近、西谷修著『戦争と西洋 西側の「正義」とは何か』筑摩叢書が刊行されました。私は書評する機会を得たのですが、西谷先生は、西側が強く出すぎていると言って、西側諸国を牽制します。井上先生とは正反対の見方です。  この間、興味深いのは、ハーバーマスの見解です。 本書で井上先生は、徹底的にハーバーマスを批判しています。ハーバーマスは、八方美人な見解を示すのですね。ロシアに譲歩して和平を達成すべきだけれども、ウクライナは自国の領土をロシアに割譲すべきではないと。しかしどうすれば、そのような理想的な和平案を示すことができるでしょうか。  誰もそのような和平案を思いつくことができない。そのような和平案は存在しない。ウクライナがロシアに領土を割譲しないのであれば、私たちは、徹底的にロシアに圧力をかけざるを得ません。  かりにロシアに対して、ウクライナの四つの州のすべてを割譲しても、ロシアは戦争をやめないでしょう。プーチンは保身のために、戦争を継続する十分な理由がある、と考える方が正しいでしょう。  とても説得力のある見方だと思います。

■嶋津格先生の二著、刊行されました

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嶋津格『経済的人間と規範意識――法学と経済学のすきまは埋められるか』『法・国家・知の問題』信山社   嶋津格さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ご高著二冊の同時刊行、おめでとうございます。 いずれも論文集であり、嶋津先生のこれまでの研究人生を、鳥瞰できるようになっています。一冊目は、『経済的人間と規範意識――法学と経済学のすきまは埋められるか』。二冊目は、『法・国家・知の問題』です。  一冊目の「序にかえて――ハイエクに至るまでの思想遍歴など」では、嶋津先生が 19 歳のときからの研究人生が回顧されています。とても興味深く拝読しました。  「現在 75 歳、自分の学者人生全体の意味を意識する歳になった。」という一文から始まります。最初にケルゼンの影響を受けて、学部生のときには一学期のみ、米国の大学に留学されたのですね。それから、当時まだ社会主義の国だった東ヨーロッパなどを旅して、社会主義の思想に影響を受けたのですね。 その後、嶋津先生がマルクス主義を放棄するきっかけとなったのは、アイザック・ドイチャーのトロツキー三部作を和訳で読んだことだったのですね。スターリン批判を通じて、マルクス主義者であった自分の考えが変化していったと。スターリンの問題は、スターリンだけの問題ではない、マルクス主義の本質的な問題である、ということを理解されたのですね。  そしてそこから、嶋津先生はハイエクの研究に従事されます。ケルゼン、マルクス、ハイエク、という思想遍歴をたどって、そして現在は、グローバリズムよりも、ナショナリズムに関心があるのだと。 「この間の自分の思想遍歴を振り返って感じるのは、私は自分の思想を壊してゆくことを好むらしい、という点である。」と記しています。  なるほど、これが嶋津先生の基調にある思想的スタイルなのですね。 ナショナリズムの問題は、国際的にみて、すべての国がリベラルな国になる必要はなく、それぞれの国は、自律した判断で国を運営してよい、そのような自律的判断を互いに尊重するような国際的枠組みを作ろう、ということですね。  その一方で、嶋津先生は、米国が表現の自由(批判的言論の自由)を実現している奇跡の国であると評価しています。米国は、表現の自由を捨ててはならない。ラテンアメリカの一...

■ウェッブ夫妻『消費組合運動』の影響力

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内務省研究会編『内務省 近代日本に君臨した巨大官庁』講談社現代新書   白木澤涼子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    明治 6 年 (1873) から 1947 年まで続いた内務省を、徹底的に明らかにしようという本です。内務省の仕事を、現在の政府の部門に置き換えてみると、旧自治省(総務省の一部)、都道府県知事、警察庁、消防庁、旧運輸省(国土交通省の一部)、旧厚生省(厚生労働省の一部)、・・・などです。さまざまな仕事を、一つの省でこなしていたのですね。  その意味で内務省の発展は、近代日本の行政の発展でもあります。  興味深いエピソードは、 1906 年に結成された報徳会の機関誌『斯民〔しみん〕』が、 1946 年まで 40 年間続くのですが、この雑誌は「国家に貢献すべき精神」を育むことを狙いとしていたのですね。といっても、精神的なことばかりではなく、この雑誌には「海外の自治資料」を伝えるコーナーがありました。そのコーナーの執筆を担当した人(複数かもしれない)のペンネームは、イギリスの経済学者、シドニー・ウェッブの名前を日本語でもじって、「人見植夫(ひとみ・うえお)」とされたのですね。  実際、内務省の要人、安井英二と三好重夫は、ウェッブ夫妻の『消費組合運動』に影響を受けていたのですね。強制的な消費者組合である「市町村会」が、教育、衛星、水道、ガス、電気などの消費を、ナショナル・ミニマムの公共事業として提供すべきだ、という考え方なのですね。 1925 年に邦訳されたウェッブ夫妻の『消費組合運動』は、日本で重要な意味を持っていたことが分かりました。

■リベラリズムは国境移動を正当化する

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浦山聖子『国際移動の正義 リベラリズムと入国在留管理』弘文堂   浦山聖子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   リベラリズムの観点から、移民の問題を本格的に論じています。とくに第九章「気候移住者の受け入れ義務」は、刺激的でした。 この本の最初に、次のような例が出てきます。 米国人のケンは、デジタル・ノマドです。タイであれどこであれ、自由に働くことができます。 これに対してシリア出身のハーシムは、ゴムボートで、エジプトからヨーロッパに不法移民として向かいます。自由に働くことができません。 どうしてこのような境遇の差が生まれるのでしょうか。そしてまた、このような不当な境遇の差は、許されるのでしょうか。  リベラルな観点からすれば、ケンもハーシムも、自由に国境を移動できることが望ましい。もちろん移動に際して、一定の制約があることは認めるとして、しかしできるだけ不公平な扱いを減らしていく。そのための論理を考える、ということですね。  そもそも、リベラリズムはなぜ、国境を移動する自由を認めるのでしょう。 その論理として、本書は、井上達夫の文章を引用するかたちで、正当化しています (49) 。しかしこの井上先生の議論は、とくに論理的に全面展開されているわけではなく、さらっと述べられているので、いろいろと疑問がわいてきます。  まず、消極的移動の自由と積極的移動の自由の区別ですが、これは「ある国を離れる消極的自由」と「ある国が移民を積極的に受け入れる自由」の区別です。 これは各国政府が、離れる自由(消極的自由)をどの程度認めているか、そして、入国する自由をどの程度認めているか、ということですね。政府側の事情の区別です。 この区別の他に、移動する当事者の側の事情に即して、「身の危険があるがゆえに自国を離れざるを得ない」ケースと、「冒険のため、自己実現のために積極的に出国したい」ケースを分けるべきだと思いました。  消極的な移動の自由は、当事者に即して言えば、危険回避と冒険願望に分かれます。積極的な移動の自由(受け入れる自由)も同様に、当事者に即して危険回避した人の受け入れと、冒険願望を持った人の受け入れに分かれます。リベラリズムが移動の自由を正当化する場合、どの自由をどのように擁護するのか。...

■政治哲学の難問は、恣意的な権力を呼び寄せる

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松元雅和『政治哲学講義 悪さ加減をどう選ぶか』中公新書   松元雅和さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   とてもウィットに富んでいます。現代の政治哲学を前に進めています。 副題は、「悪さ加減をどう選ぶか」ですが、これは功利主義的にみて、社会全体の効用が下がらないように工夫する、ということだと思います。 しかし功利主義的に考えることが難しい場合があります。集計すべき効用が争われる場合や、集計の仕方が争われる場合です。そのような場合、一定の価値観点が必要ですね。 しかし価値観点が争われる場合、しかも、その争いが究極的な壁にぶち当たる場合は恐ろしい。哲学的にみて「価値の争い」を決着できないとき、政治家は恣意的な権力行使を正当化できるからです。 究極の価値を争う場合、どちらの価値も正当化できるので、政治家はどちらを選んでもいいという状況になります。 その意味で、政治哲学上の難題は、考えることがあほらしくなりますね。かえって恣意的な権力を呼び寄せるのですから。おそらくもっと重要な問題は、正解がないときに、そこで生まれる恣意的な権力をいかに抑止するかです。 この他、トロリー問題のバリエーションは、刺激的でした。 トロリー問題とは、五人を救うために、一人を犠牲にするような転轍機の操作が、倫理的に正当化できるかどうか、という問題です (97) 。 この問題のバリエーションが、まとめてリスト化されています (25) 。 例えば・・・   五人を救うために、四人を見捨てる。 100 人を救うために、一人を拷問する。( 99 人を拷問する、という例でもいいと思う。) 自国民を救うために、他国民を見捨てる。(具体的な人数も必要だと思う。)   このような例で、問題の答えを左右するのは、人数の比率です。五人を救うために一人を犠牲にすることができる、と考えた人でも、四人を犠牲にすることできないと考えるかもしれません。これは興味深いですね。 このような倫理的直観について、深く考える価値があります。あるいはまた、拷問やネイションをめぐる架空の問題について考えることは、私たちの倫理的な力を養うでしょう。