新型コロナウイルスとナッジ政策

 

 1.ナッジ政策への期待

 新型コロナウイルスの感染対策に、「ナッジ」政策はどこまで有効だろうか。

ナッジ政策というのは、政府が強権的に介入するのではなく、あるいは自由放任にするわけでもなく、やわらかい仕方で人々の行動に介入するような政策をいう。「ナッジ」とは「背中を押す」とか、「肘で横からつつく」といった意味で、私たちが日常生活において、他人にちょっと気を使って親切にふるまう仕方である。それを行政レベル・組織レベルで試みよう、というのがナッジ政策である。

例えば、肥満を防ぐために、スーパーやコンビニでは、大きなサイズの炭酸水を売ってはいけないことにする。あるいはレストランでは、大きなサイズの肉料理を割高にしたり、メニューの下の方に小さく表示したりする。こうした小さな政策を積み重ねていくと、私たちの食生活は、少しだけよい方向に向かうかもしれない。ナッジ政策は、人々の「選択の自由」を確保する一方で、社会全体を改善しようと企てる。

ではナッジ政策によって、私たちはいかにして新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐことができるのか。どうも各国政府は、いまのところ、あまりよい政策アイディアを実行していないようである。けれども例えば、次のようなナッジ政策はどうであろう。

 

(1) 日本政府は人々に自粛を呼びかけている。とくに都心部では、人々の移動量を8割減らしたいと考えている。人々の移動を減らすためには、政府は上から権威主義的に自粛を要請するのではなく、例えば駅の自動改札で、機械的な制限を行ってはどうだろうか。30分ごと、あるいは10分ごとに、利用者の数が一年前の2割に達したら、改札を通過できないようにする、といった政策である。むろん、どうしても鉄道を利用しなければいけない人は、有人改札で手続きをする。このようにしてはどうだろうか。

(2) 別の政策案として、人々の往来が激しいスポットに電光掲示板を設置し、そこに「利用者数の増減データ」を示す、というのはどうだろうか。人々の移動量が一年前の同時期の2割以上になったら「赤信号(あるいは鬼の怒った顔)」を点滅、さらに「警戒音(サイレン)」を鳴らすという具合にすれば、人々は不安になって移動量を減らすかもしれない。

(3) パチンコ店などの空間で、人が密集して集まることが懸念されている。ならば時限立法として、「利用者が長時間座席につく場合は、互いに二メートルの距離を保たなければならない」というルールを課してはどうだろうか。

 

 こうしたアイディアは、新型コロナウイルス対策のために有効であるようにみえる。むろん失敗したら、あらためて試行錯誤を続けなければならない。有効なナッジ政策はどのようなものか。私たちはさまざまに仮説を立て、さまざまに実験してみる価値があるだろう。

 

 

2.イギリスの驚くべきナッジ政策

 ナッジ政策を背後で支えているのは、「リバタリアン・パターナリズム」という新しい規範理論である。行動経済学者(ノーベル経済学者)のリチャード・セイラーと法哲学者のキャス・サンスティーンの二人が、共著『実践 行動経済学』(2008年、邦訳は2009年に日経BPより刊行)で示した考え方である。本書の出版後、行動経済学や実験心理学や法哲学の分野で、興味深い研究が多様に展開した。イギリス政府は、このナッジのアイディアをいち早く取り入れて、内閣直属の研究機関「行動インサイト・チーム(The Behavioural Insights Team = BIT)」を2010年に立ち上げた(しばしば「ナッジ・ユニット」と呼ばれる)。国連もこのナッジ政策の研究を世界的な規模でまとめ上げ、『世界の行動インサイト』などの報告書を出している。いまやナッジ政策は、世界のさまざまな国と地域で実験的に導入されている。その成果は、国連機関を通じて収集・報告され、世界中の政府機関に影響を与えはじめた。日本でも2017年4月、環境省のイニシアチブで「日本版ナッジ・ユニット(BEST:Behavioral Sciences Team)」が組織されている[1]

 イギリスはその後、ナッジ政策の一つの拠点国となった。「行動インサイト・チーム」は、同国の政策に大きな影響力を及ぼしている。所長のデビッド・ハルパーン(David Halpern)は、『社会資本』(2005年)、『諸国民の隠された富』(2010年)、『ナッジ・ユニットの内側』(2015年)などの著作をもつ心理学者である。かれは、GDP指標に代替しうる「幸福(ウェルビイング)」の指標や理念にしたがう国の政策を提言する点では、広い意味での経済社会学者でもあるだろう。そんな彼がリーダーの1人となって、イギリスでは新型コロナウイルスに対処するための、まったく斬新な政策提言がなされた。それは俗に「集団免疫化戦略」と呼ばれるものであった。

 

 「多くのご家庭では、愛する人たちを、想定している時期よりも早く亡くすことになるだろう(many more families are going to lose loved ones before their time.)。」

 

イギリスのボリス・ジョンソン首相は2020312日、報道陣の前でこのように述べた。イギリスでは当時、すでに5,000人から1万人の感染者が出ていたのであるが、感染の拡大が予想されるなかでジョンソン首相は、ナッジ政策、あるいは集団免疫化の考えに導かれて、感染を根絶するのではなく、感染のスピードとピークを遅らせ、苦痛を最小化する戦略をとると発表した。感染が拡大すれば、やがて国民が「集団免疫(herd immunity)」を獲得するだろう。すると死者はそれ以上出ないと予測される[2]。むろん集団免疫を獲得するまでの期間は、多くの死者を出すことを防げない。しかしうまく対処すれば、死者の数を半分程度に減らすることができるという。

いったいイギリスのこの戦略は、本当に効果的なのだろうか。それは一つの賭けであった。ジョンソン首相は具体的に、集団免疫化を提案する行動インサイト・チームのアドバイスに従って、次のような指針を示した。

 

(1)学校は通常通り運営する。学校を閉鎖しても、子どもたちはどこかで集まるだろう。あるいは子どもたちは、学校が休みになれば、祖父母たちに会う機会も増えるだろう。

(2)大規模なスポーツ・イベントなどは禁止しない。禁止しても、効果はあまりない。小さなイベントでも同程度に感染する可能性がある。

(3)熱が出たら、一週間は自宅に留まる。

・・・[3]

 

 行動インサイト・チームの見方では、人間は弱い存在であり、合理的に行動することができない。もし学校を休みにすれば、子どもたちはそれだけ多く高齢者に会うことになるだろう。すると多くの高齢者が新型コロナウイルスで亡くなってしまう。あるいはまた、かりに大きなイベントを禁止しても、人々は小さなイベントで集まるのだから、結局のところ、感染拡大を防ぐことはできない、というのである。

 さらに言えば、政府がもしイベントの自粛を要請すれば、やがて人々は「自粛疲れ」に陥るだろう。だから政府は、まだ自粛を要請すべきではない。時期尚早である。その代わりに、手を洗う、顔を触らない、握手しない、病気になったと感じたら自宅に留まる、咳がでる場合は自分を隔離する、といった方法を、政府は推奨すべきであるという。

このようにイギリスの行動インサイト・チームは、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、強権的な政策を避けて、ソフトなナッジ政策を提案した。すでにヨーロッパの他の国では学校を閉鎖していた時期に、イギリス政府はナッジ理論その他に導かれて、学校の清掃の仕方についてアドバイスをした。例えば、教室や廊下の床をきれいに磨くよりも、むしろ菌が付着しやすい手すりを重点的に清掃すべきである、という具合である[4]

イギリス保健省は、「手をよく洗うように」と国民に呼びかけた。人は一時間に平均で20回くらい自分の顔を手で触るといわれるが、新型コロナウイルスの感染を防ぐためには、これをやめなければならない。ところが人々が顔を触らないようにするための工夫は、なかなか見つからない。そこでイギリス保健省が推奨したアドバイスは、手を洗う際に、「ハッピー・バースデー」の歌を二度歌う、というものだった。感染症を防ぐためには、手を20秒間、洗わなければならない。しかし「20秒間洗うように」とストレート・アドバイスしても、人々はなかなか実行しないだろう。「気分がよくなる歌を歌いながら手を洗うように」とアドバイスをすれば、人々は少しだけ長く手を洗うようになるかもしれない。実証的な実験を積み重ねれば、もっといい方法が見つかるかもしれない[5]

もし人々が合理的で、自分の行動を主体的にコントロールできるなら、他人との距離を保ち、感染症の拡大を防ぐことができるだろう。しかし合理的な行動が難しい場合には、ナッジ政策が補完してくれる。ナッジは人々の合理的な行動を、少しだけ助けてくれる。イギリス政府はこのような発想に導かれて、独自の政策を打ち出した。

 

 

3.イギリスはナッジ政策をすぐに撤回

 ところがこの政策案には批判が相次いだ。例えば、WHO(世界保健機関)は、イギリス政府が採った戦略よりも、都市のロックダウンや学校閉鎖といった社会的距離化の強制が望ましいと述べた。イギリス国内では、600人以上の学術経験者たちが、「懸念の表明」という公開状にサインをしている。この公開状は、政府が行動科学を用いることに反対するわけではないが、政府がどんなエビデンス(証拠)に基づいて政策を決定したのかを公開するように求めている[6]

イギリス保健省は当時、「感染対策はすでに封じ込めフェーズを過ぎて、感染拡大を遅らせる段階にきている。そのため専門家チームが昼夜を問わず対策に取り組んでいる。私たちが導入した、あるいはこれから導入するすべての施策は、最高の科学的エビデンス(証拠)に基づくものである」、「今後数カ月の間に国内の免疫力がどういうレベルになるか、予測できている。その結果、可能な限り正確かつ効果的に、対応を確実に策定し実施できる」と述べた[7]。しかし保健省は、いったいどんなデータに基づいて予測したのだろうか。それが問題視されたのである。

決定的な批判は、ジョンソン首相がナッジ政策を発表してから4日後に現れた。316日、イギリスのインペリアル・カレッジ・ロンドンの「新型コロナウイルス対策チーム」が、ある報告書を提出した[8]。その報告書によると、もし政府が何も対策をとらなければ、20208月までに、国民の81%が感染して、51万人が死亡するだろう。政府が312日に発表した「緩和政策(ナッジ政策)」を続けた場合でも、最も楽観的にみて、医療機関では現在の8倍の集中治療の能力が必要になると予測される。政府のナッジ政策(集団免疫化政策)では、医療システムの崩壊を防ぐことができないというのである。

ジョンソン首相はこの報告を受けて同日、国民に対して不必要な接触を避けるようにと求めた。翌日の317日には、多くの人が集まるイベントや集会を禁止し、ナッジ政策を事実上、撤回した。わずか45日間で、イギリスは新型コロナウイルス政策の基本方針を大きく転換することになった。

さらに323日には、ジョンソン首相は「これは非常事態だ」として人々が家に居るように呼びかけた。もし違反した場合には、罰金を科すこともあるという厳しい外出制限である。これによって、日常の生活に必要なもの(食料や医薬品など)を提供する店舗以外は、実質的に営業できなくなった。政府は加えて、3人以上で集まることも禁止した。こうしてイギリス政府は、「ソフトなナッジ政策」から「ハードな権威主義政策」へと、政策の方針を180度変更してしまった。

ではこうした政策転換によって、イギリス政府はその後、新型コロナウイルスの感染拡大を抑えることができたのかといえば、そうではなかった。312日の時点では、イギリスも日本も同程度の死者数(100万人あたりそれぞれ0.10, 0.12)であった。ところが425日になると、イギリスでは新型コロナウイルス感染による死者の数は、100万人あたり276.02人、これに対して日本の同死者数は、100万人あたり2.51人という具合に、100倍以上の差が開いてしまった。イギリスは323日以降、日本よりも強権的な政策をとってきたにもかかわらず、感染が拡大した。初動が遅れたために、強権主義の政策ですら対処できないほどに問題を深刻化してしまった[9]

 

 

4.ソフト・パターナリズムの大失敗

 むろん長期的にみれば、イギリス政府のこの失敗は、成功の原因になるかもしれない。多くの死者を出しつつも、イギリスは今後、比較的短期間で集団免疫化に成功して、経済をV字回復させるかもしれない。結果として死者数も比較的少なくてすむ、ということになるかもしれない。まだ分からない。けれども現時点では、次のように評価することは妥当であろう。ナッジ政策というソフトなパターナリズムよりも、外出禁止や学校閉鎖などの強権的な政策の方が、新型コロナウイルスの感染抑止には効果的である、と。

これは言い換えれば、自由主義の体制よりも権威主義の体制のほうが、問題の解決に適しているということである。医療機関が崩壊しなければ、感染者の多くの人命を救うことができる。反対に、医療機関が崩壊してしまえば、助かるはずの人命も助からない。はたして人命を優先するのか、自由を優先するのか。人命を救うために、国家(政府)は人々の自由を制約して、強権的な統治力を発揮すべきなのかどうか。

 イギリス政府は当初、自由を重んじる政策を採用した。政策のブレーンとして、公衆衛生医や医療関係の政府高官ではなく、数理モデル学者と行動科学者たちのアドバイスに従った(そのなかにハルパーン氏も含まれていた)[10]。感染症対策という高度に科学的な見識と判断を求められる問題に対しては、民主的な議論を積み上げるのではなく、専門家集団の意見に耳を傾ける必要がある。しかし専門家の集団がいくかつある場合には、どの集団の意見を参考にすべきなのかは、きわめて政治的な問題となる。最終的な判断は、一国のリーダーに任せるほかないであろう。伝統的に自由を重んじるイギリスでは、ナッジ政策はいわば「自由の砦」として採用されたように思われる。ところがその政策は、短期間で無効となり、権威主義体制ですら対処できないほどに問題を深刻化してしまった。

 イギリスのナッジ政策は、どこで誤ったのだろうか。それはたんに、政策の実効性の問題であるだけでなく、思想や価値観の問題でもあるだろう。

政府は当初、行動インサイト・チームなどの専門家集団のアドバイスを得て、新型コロナウイルスを徹底的に封じ込めることはできないのだから、その感染速度を遅らせる緩和政策をとる必要があると考えた。言い換えればイギリス政府は、問題の本質を、ウイルスの「封じ込め」か「緩和」か、という二分法で捉えた。これに対してインペリアル・カレッジ・ロンドンの「新型コロナウイルス対策チーム」は、問題を「感染速度を遅らせる緩和」か、「感染者数を低水準に保つ抑圧」か、という具合に立て、「抑圧」の戦略こそ実行可能な政策であるとした。緩和政策は、医療の需要を3分の2にまで減らすことができるとしても、集中治療室のオーバーシュートを招き、結果として数十万人が死亡すると予測されたからである。

 ナッジ政策あるいは緩和政策によって、死者の数を半減できるとしても、数十万人は死んでしまう。はたしてこの死者数は、仕方がないとあきらめるべきなのか。その答えは、私たちが自粛を持続できるかどうかに依存しているだろう。もし私たちが、長期の抑圧政策に耐えられるなら、死者の数を10分の1に抑えることができるかもしれない。しかし私たちが「自粛疲れ」で外出すれば、結果として、何もしない場合と同じ程度の死者数を覚悟しなければならないかもしれない。このような状況で、イギリス政府が当初採った立場は、自由と人命の両方を最大限に重んじるものであった。政策の選択肢を単純化して示すと、次のようになる。

 

緩和政策=自由の価値を維持+数十万人の死亡

抑圧政策=自由の価値を否定+(x%の確率で数十万の死亡/(100-x)%の確率で数万人の死亡)

 

このような選択状況で、イギリス政府は「緩和政策」を選択した。xの値が高いと判断したからである。しかし「抑圧政策」を採れば、多くの人命を救える可能性がある。その可能性は、私たちがどこまで自粛できるかという実践に依存している。私たちの忍耐力によって結果が異なるなら(xの値を十分に下げることができるなら)、私たちは後者を選択すべき十分な理由があるのではないか。

 

 

5.ナッジが求められる場所

 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐためには、ソフトなパターナリズム(ナッジ政策)よりも、ハードな権威主義政策によって、人々の行動を抑圧したほうが望ましいようにみえる。

その一方で、権威主義的な自粛要請だけでは、人々の行動を十分に変えることはできないようにみえる。ナッジ政策は、権威主義的な政策を補完するために、あるいはこれに代替するために、さまざまな場面で求められているだろう。

 例えば日本では現在、感染を抑えるために、スーパーマーケットでの混雑を避けることが課題になっている。そのために有効な政策は、どんなものだろうか。東京都の小池知事は、「買い物を三日に一回にするように」と都民に呼びかけているが、ナッジ政策の観点から望ましい方法は、例えばスーパーのフロアにサインを示すことであろう。すでにデンマークのあるスーパーでは、フロアにサインが示され、レジに並ぶ客はそれに従って、社会的な距離を保つようになった[11]。このようなサインの導入は、比較的簡単に導入できる政策である[12]

 あるいは新型コロナウイルスの感染拡大にともなって、トイレットペーパーの買い占めが問題になった。トイレットペーパーは、十分な在庫があるにもかかわらず、人々は不安に駆られてたくさん買ってしまう。この非合理的な行動を抑制するためには、どのようなナッジ政策が考えられるだろうか。

一つの有効な方法は、「お一人さま一パックまで」という数量制限を設けることであろう。しかしこれは物理的な(ハードな)制約であり、ナッジとはいえない。別のアイディアは、新聞やネット情報を通じて、トイレットペーパーの在庫がどの程度あるのかを可視化することである。十分な在庫があるという安心感が広がれば、トイレットペーパーを買い占める人は減るだろう。しかしこれは、人々の意識的行為に期待する方法であって、必ずしもナッジ政策とは言えない。ナッジ政策は、人々がトイレットペーパーを買う自由を物理的に制約せずに、しかも人々の意識的な行為にあまり負担をかけずに、人々の行動パタンを変容させる技術でなければならない。人々が「選択の自由」を保持しながら、あまり意識せずにトイレットペーパーの購買を抑制する方法は、どのようなものだろうか。

 例えば、トイレットペーパーの価格を、「一パックの場合は500円、二パック以上の場合は一パックあたり1,000円」とする方法が考えられる。このような価格設定にすれば、消費者が買い占めるインセンティヴは抑制されるかもしれない。あるいはすでに成功したやり方として、トイレットペーパーを山積みにして、「おひとり様10点まで」とする方法がある[13]。このようにすれば、人々は山積みのトイレットペーパーを見て、しかも10パックまで買えるという情報を得て、安心感を覚えるであろう。結果として人々は、トイレットペーパーは買い占めなくなるだろう。むろん、トイレットペーパーを山積みに置くスペースがない店もあるので、その場合は、別のナッジ政策を考えなければならない。

 ナッジ政策は、他にもいろいろな場面で導入することができる。新型コロナウイルスの感染拡大で、人々はSNSを通じてフェイク・ニュース(偽報道)に触れる機会が多くなった。フェイク・ニュースに触れる機会を減らすには、どうすればよいか。フェイスブック社は416日、コロナウイルスに関するデマ情報を好んで読んでいたユーザーに対して、より権威的な情報、たとえばWHOの情報を得るように、システムを変更したという[14]。これは人々が冷静に行動するための、一つの有効なナッジ政策であるだろう。

 あるいはアマゾンは、日用品や医薬品など優先的に届ける必要のあるモノの配送を優先するために、人々があまり他のモノを買わないようにナッジすることにした。例えば、グーグルでの広告を減らしたり、ある商品のパッケージの配送を少し遅らせたり、「この商品を買った人は、こんな商品も買っています」という案内をなくしたり、商品を紹介するホームページのアフィリエイト(広告料)の割合を減らしたり、「母の日/父の日キャンペーン」をやめたり、「プライムデー(安売り日)」の開催を無期限で延期したりした[15]

このようなシステム上の変更は、その一つ一つは些細なナッジであるけれども、それらを組み合わせていけば、大きな効果を期待できるかもしれない。

私たちも知恵を絞って、新型コロナ対策のために、何か面白いナッジ政策を提案できないか。例えば、人が多く集まる場所(駅周辺)には、人が減る効果を期待できるような仕掛けをする。例えば、「大きな鬼の像」を置く。「不安を煽るサウンド」を鳴らす。「新型コロナウイルスの大きな写真」を掲示する。「来ないで!」という表示の看板を立てる。「混雑指数を示す電光掲示板」を設置する、などの方法である。こうした方法のなかで、何が最も効果的であるかについて、実験してみるのはだうだろうか。

あるいは、マスクのデザインで、もっとも人が近寄りにくいデザインを募集し、そのなかでどのデザインが最も効果的か、実際に実験してみることもできる。人が集まる場所の公衆トイレでは、例えば入り口付近に大きなハエの絵を飾ったりして、利用者を減らす効果を実験してみてはどうだろうか。

すでに横浜市や尼崎市では、独自のナッジ・ユニットが組織された[16]。私たちは同様の組織を、全国の都道府県、あるいは市町村にも立ち上げて、ナッジ政策の多様な実験を試みることができるのではないか。新型コロナウイルスの感染拡大を抑止するためには、多くの人が知恵を絞って、ナッジ政策を提案できる環境が必要である。権威主義的な政策を補完し、あるいはこれに代替するための政策として、いまナッジ政策が求められている。

 



[1] 「日本版ナッジ・ユニット(BEST)について」(環境省)http://www.env.go.jp/earth/ondanka/nudge.html

[2] イギリス政府の科学顧問、パトリック・バレスの考えである。Tony Yates, “Why is the government relying on nudge theory to fight coronavirus?,” The Guardian, 2020/03/13

https://www.theguardian.com/commentisfree/2020/mar/13/why-is-the-government-relying-on-nudge-theory-to-tackle-coronavirus

[3] 関沢洋一「新型コロナウイルスに対するイギリス政府の「ギャンブル」」REITI(独立行政法人研究所)2020/03/16, https://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0548.html

[4] Fred Wrigley, “Nudge to nowhere,” Tribune, 2020/03/24, https://tribunemag.co.uk/2020/03/nudging-to-nohere

[5] この他、イギリスの行動インサイト・チームは、インフォグラフィック(データや情報などをわかりやすく視覚的に表現したもの)を用いれば、人々はいっそううまく手を洗うようになる、という実験結果を示している。https://www.bi.team/our-work/covid-19/

また団体「アイナッジユー」のサイトにも同様のナッジ政策が載っている。

https://inudgeyou.com/en/using-behavioural-science-to-fight-corona/

[6] Stuart Mills, “Coronavirus: how the UK government is using behavioural science,” The Conversation, 2020/03/25, https://theconversation.com/coronavirus-how-the-uk-government-is-using-behavioural-science-134097

[7] パラブ・ゴーシュ「イギリス独自のウイルス対策、「国民の命を危険に」と多数の科学者反対」BBC News Japan, 2020/03/15, https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-51894727

[8] Ferguson NM, Laydon D, Nedjati-Gilani G, Imai N, Ainslie K, Baguelin M, et al., “Impact of non-pharmaceutical interventions (NPIs) to reduce COVID-19 mortality and healthcare demand,” 2020/03/16, https://www.imperial.ac.uk/media/imperial-college/medicine/sph/ide/gida-fellowships/Imperial-College-COVID19-NPI-modelling-16-03-2020.pdf

関沢洋一「新型コロナウイルスについてのイギリスのレポート」REITI(独立行政法人研究所)2020/03/19も参照, https://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0550.html

[9] Ian Sinclair and Rupert Read, “'A National Scandal' Timeline of the UK Government’s Response to the Coronavirus Crisis,” 2020/04/20, https://bylinetimes.com/2020/04/20/weekly-update-20-april-a-national-scandal-timeline-of-the-uk-governments-response-to-the-coronavirus-crisis/

[10] Kim Sengupta, “Coronavirus: Inside the UK government’s influential behavioural ‘nudge unit’,” Independent, 2020/04/02, https://www.independent.co.uk/news/uk/politics/coronavirus-uk-government-nudge-unit-dominic-cummings-herd-immunity-a9444306.html

[11] Brevity & Wit, “Library of Behavioral Nudges Being Used to Combat Coronavirus,” Medium.com, 2020/04/02, https://medium.com/@brevityandwit/library-of-behavioral-nudges-being-used-to-combat-coronavirus-10d0de898538

[12] “Covid-19 Nudges - the art of social distance,” Krukow Behavioral Design, https://www.krukow.net/covid-19nudges

[13] 碓井真史「トイレットペーパー不足問題は収束へ:「一人10点まで」でパニック買い抑制か」Yahoo Japan News, 2020/03/07, https://news.yahoo.co.jp/byline/usuimafumi/20200307-00166567/

[14] Shirin Ghaffary, “Facebook will start nudging users who have “liked” coronavirus hoaxes,” Vox, 2020/04/16, https://www.vox.com/recode/2020/4/16/21223972/facebook-coronavirus-hoaxes-warning-misinformation-avaaz

[15] Aaron Mak, “The Don’t-Order-Everything Store,” Slate, 2020/04/16,

https://slate.com/technology/2020/04/amazon-coronavirus-supply-chain-delays.html

新型コロナウイルスの影響で、アマゾンは売り上げを伸ばしている。アマゾンは3月から4月にかけての4週間で、10万人を追加で雇うことにした。さらに今後、75千人を雇う計画であるという。

[16] 20192月、横浜市の職員有志が中心となって「横浜市行動デザインチーム」が組織された。https://ybit.jp/

西日本初のナッジ・ユニットは尼崎市に生まれた。

https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/020/289/2.3.6-1.pdf


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