■「法の支配」は法によって正統化できない

 


 

那須耕介『法の支配と遵法責務』勁草書房

 

那須耕介さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 初の単著の刊行をお祝い申し上げます。

 「法の支配」の問題は、第一章のみで扱われていますが、しかしこの第一章はかなり長くて、分量としては本書の6-7割を占めますね。論文にしたら4-5本くらいになるでしょうか。本書の中核に位置しています。

 権威ではなく、あるいは政治権力ではなく、法が支配する社会を築くこと。それはすなわち、法がリベラルな仕方でデザインされ、政治から独立して運用され、そして正統化される、ということでしょう。リベラルな社会は、こうした意味での「法の支配」を必要としているとされます。

 しかし「リベラル」とか「法の支配」と言っても、その内実を検討すれば、一定の幅があることが分かるでょう。これらの理念はなぜ重要なのか、そしてまたどのように理論化できるのか、をめぐっては諸説があるわけです。

法の支配は、実際には私たちの社会において、完全には実現していない。しかし完全な実現を目指すための取り組みや理論や思想がある。代表的なのはリーガル・リベラリズムですね。

ところがリベラルなリーガリズムに対して、この立場は根本的な矛盾を抱えざるを得ないと批判する立場が「批判的法学研究」です。1970年代の後半から80年代にアメリカで流行しました。

法は、個別的・具体的な事例において、あらかじめ予測可能な判断を提供するわけではありません。法がルールだといっても、そのルールを適用する段階では、不確実性が残るのですね。だからそこには、政治的判断が入り込む余地がある。するとつまり、「私たちは権力闘争を避けて法に訴えればいい」という発想は、素朴です。法に訴えるという発想は、政治的権力闘争を阻止するわけではないのです。

あるいはまた、「法の支配」といえども、その正統性の根拠は、私たちの実際の道徳秩序に依存しているわけで、そこに例えば抑圧を正統化するような道徳があれば、法の支配もまた、抑圧の問題を克服できるわけではありません。

そうだとすれば、抑圧の問題を克服する「リベラルな法の支配」は、まずもって立法制度を通じて、抑圧のない社会を築くための法を創造していくべきなのでしょう。

しかし見方を変えれば、現行の法システムは、すでに議会民主制という「権力闘争の制度化」と「正統な立法システム」を築いているのだから、リベラルなリーガリズムにとって、あとは整合的な法解釈をするための理論が必要、という考え方もできます。法官吏(法律家)たちの実践の指針を与えることが重要、という考え方ですね。

しかし、法官吏たちの判断に対して民衆が不信を抱いている場合はどうでしょう。法官吏たちのリーガル・マインドや実践に「法の支配」の正統性の根拠を置くことは、危険ですね。やはり国会を通じた立法の正統性について論じないと、「法の支配」は擁護できないようにみえます。

批判的法学研究は、法の支配を懐疑するけれども、ではすべての法解釈は政治闘争だとして、どのような政治闘争がよいのかについては、論じないのでしょうか。どんな社会がよいのか、批判するばかりで、建設的なことを言わないのでしょうか。批判理論というのは、そういうものなのでしょうか。

この批判的法学研究の立場に対して、ムーアは独自の批判的実在論の立場から批判します。ムーアは、形而上学的な実在の概念を持ち出して、法の判断や創造は、それがさまざまな局面での価値判断を含むとはいえ、実在(真理)に近づくことができると発想するのですね。おそらくムーアは、実在的価値が一元的で単一であると想定するのでしょう。そしてその実在に、私たちの法的判断が近づくことができると想定するのでしょう。これはポパーが想定する「真理」と同様に、真理は存在し、私たちはそれに限りなく近づくことができる、ただし完全な真理に到達したかどうかは確認することができず、判断は常に批判に開かれているという「可謬主義+真理近似値」の立場にコミットメントすることになるでしょうね。

しかしムーアの批判的実在論の問題点は、シャウアーが指摘するように、法的判断における真理の基準が、少なくとも二つに分かれる、しかもそれらは別々の考量スタイルになっている、だから真理を判断する一つの基準があるわけではない、ということですね。シャウアーが指摘する「法的判断の二つのパタン」とは、個別主義的な決定と、規則基底的な決定です。

ここで規則基底的という場合の規則についての考察は省きますが、シャウアーの考察から得られる知見の一つは、法的判断(司法判断)は、正しさを満たすという道徳的要請を、不完全にした満たすことができないということですね。シャウアーはムーアの議論を批判します。しかしこの二人は、真理判断の不完全性については、意見が一致するでしょう。そしてこのことは、法的な判断が、結果として抑圧を伴うこともあるということになるでしょう。

ここから「第一章」の議論は、「道徳的秩序としての法」と「技術的秩序としての法」という、ビックスが指摘する二つの法的判断のパタンに移り、そしてこの二つの法的判断が、それぞれ異なる基準で推論を導くこと、そしてその基準は「共約不可能」であるということが論じられます。

まあしかしこの「共約不可能性」は、二つの法的推論の調整と整合性の確保が、なんらかの真理性基準によって導かれることを、最終的には否定していないようですね。ただそれは一般理論と事実の関係から導かれるような科学的な推論ではない。解釈によって真理に近づく、という考え方ですね。しかしこのように真理を想定できるのだとすれば、共約不可能性という言葉に、あまり強い意味はないなと思いました。二つの法的推論を調整するための一般理論はないけれども、私たちはそれでも、法的判断の真理にいたる可能性を掲げることができます。

ここで私が思うのは、法のシステムを司法の裁定判断(裁判実践)によって特徴づけることの狭さです。法は立法を通じて創造される面があり、司法の解釈で創造されるだけではありませんから、法的な判断がより真理に近づくためには、そしてまたリベラルなリーガリズムが法の支配をよりよい仕方で擁護するためには、立法の位置づけが必要でしょう。

他方で、批判的法学研究から導かれる規範的含意は、二つに引き裂かれるでしょう。一つは、すべての法的判断は権力闘争の一部であるのだから、必要なのは、権力闘争を闘うことである、という規範です。もう一つは、すべての法的判断は完全な真理に達しないのだから、そこにはつねに不満が残る、けれどももっといい判断にいたる回路を考える必要がある、という規範です。この二つの規範的な含意がある。これら二つの方向性は正反対を向いているかもしれませんが、いずれにせよ、その多くの問題は、立法過程についての規範的な提案を通じて、検討されるべきではないかと思いました。

「第一章」の結論部分で、法の支配には「道徳的秩序」と「技術的秩序」の二つの価値があり、これらは本質的に緊張を抱えていることを自覚しなければならない、この自覚は、「その法理論および政治・道徳上の反響を解明するという今後の探究の課題の明確化につがるのではないか」ということが提案されています(96)

 しかしこの部分ですが、「反響」ということで何が問題になりうるのか、あるいは那須さんが何を問題にしたいのか、それが定式化されていないですね。私がここで思うのは、法的な判断を政治から独立させる試みは成功しないし、成功する必要もない(相互浸透はありうる)、しかし、実際の法的判断を現実政治の権力から独立させることは必要である、ただしその独立性は、それだけでは必ずしもリベラルな社会を築くことに貢献するわけではない、リベラルというのは、法的思考の政治的独立性には還元できない価値内容をもつ、ということです。

 いろいろ興味深い論点が体系的に叙述されています。刺激を受けました。またいつか、議論できますと幸いです。


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