■日本発独創的なリバタリアンの円熟の書
森村進さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
自由意志について論じた第一章をとりわけ興味深く読みました。哲学上の自由意志論が、法的な責任を帰属させるうえでどのように役立つのか。この問題に答えるためには、たとえ自由意志が存在しなくても法的責任を問うことができる、という論理をまず明らかにする必要があるのですね。その上で、ここからが論争的になりますが、法的責任を問うことができるのは、自由意志ではなく行為の随意性(ボランタリネス)、つまりボランタリーに行為したかどうかが基準になるというのですね。
この随意性の基準は、例えば、行為者が理性的に行為したその背後で、その理性的思考を日々刻々と、ある操作者が直接操作して決定しているような場合を考えてみる。あるいは操作者が間接的に操作している場合を考えてみる。
森村先生の立場は、この直接的な操作があるケースでも、行為者がボランタリーに(自発的・随意的に)行為したのであれば、その行為の責任は行為者に帰属されるべきだ、というものですね(59)。
これは厳格な立場であり、もし穏健な立場であれば、操作者に対しても責任の一端を(あるいは責任の多くを)負わせるでしょう。
私は帰結主義的に発想するタイプなので、責任の帰属の仕方は、さまざまな行為がボランタリーになされるインセンティヴを削がないような仕方で、責任の配分を調整すべきではないかと思いますが、これは浅はかな考えかもしれません。
いずれにせよ、自由意志論は法的責任の根拠を提供しないので、自由意志があるかどうかは哲学的に重要な問題だとしても、法哲学的には重要ではないということは理解できました。
この他、第二章で、リバタリアン・パターナリズムに関する私の議論を取り上げていただきまして、ありがとうございました。森村先生の独創的なリバタリアニズムは、リバタリアン・パターナリズムに包摂されないだろうというのは、そうかもしれません。しかし例えば森村先生は、公立学校の給食サービスに賛成でしょうか、反対でしょうか。給食の提供は、生徒の最低限の生活水準を保障するために必要であるとすれば、それは一部の生徒のみに支給されるべきでしょう。しかし効率性の観点から、すべての生徒に支給するとなると、この時点でリバタリアンはパターナリズムに一部譲歩したことになります。
一部のリバタリアンは、学校給食を選択しないという「オプトアウト」制度があれば、リバタリアンとしての尊厳を保つことができると考えるかもしれません。しかしこのオプトアウト制度を支持したら、それもまた、理論的には、リバタリアン・パターナリズムに包摂されたことになるでしょう。これが私の論点です。
おそらく森村先生は、学校給食に関しては、支給すべきではないという立場をとるのではないかと思いました。