■「鬼滅の刃」にみる「侠の精神」

 


井上芳保『鬼滅の社会学』筑摩選書

 

 井上芳保さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。また先日は、研究会にて本書の内容をご報告賜り、ありがとうございました。周到にご準備いただき、とても理解が深まりました。

一昨年に「鬼滅の刃」の映画が爆発的にヒットしましたが、どうしてこれほど人気があるのでしょうか。いまや社会現象となった「鬼滅」シリーズを、社会学的に読み解こうというわけですね。

本書は、鬼滅の刃が訴えるメッセージを、「侠の精神」という観点から読み解いています。「侠」は、英語ではchivalry(騎士道)となります。広義に解釈すれば、「侠」はとくに日本の文化に埋め込まれた特殊価値ではなく、世界のさまざまなところで発揮される精神でしょう。

例えば、2020年に清水書院から、全6巻の『侠の歴史』シリーズが出ていますが、これは「日本編」、「東洋編」、「西洋編」と三つに分かれています(それぞれ二巻ずつです)。「侠」という概念は、それ自体が世界史を読み解くための一つのキーワードにもなっている。

鬼滅の刃の主人公は、「侠の精神」をもっている。それが私たちを引き付けるというわけですね。では侠の精神とは何か。それは、権力に包摂されず、誇り高く生きる精神です。プライドのある生き方であり、我欲を克服して、俗悪なものに染まらない生き方をすることでもあります。

本書を読んで気づいたのですが、「侠」にはおそらく三つの種類があるでしょう。

一つは、反権威・反権力のエートスです。「侠」は「忠誠(loyalty)」と対比される美徳です。それは、「反逆」の美徳でもあります。一方では権力に忠誠を誓いながらも、精神的には孤高のプライドを築く騎士。あるいはアウトローでマージナルな生き方をする人たち。そうした人たちの精神は、このタイプに分類されるでしょう。また、侠には「おてんば」という意味もあるのですね。女性らしさという価値に縛られず、権威に媚びないおてんばな生き方も、このタイプに分類されるでしょう。

もう一つは、道徳的に劣った人たちに抵抗する精神です。例えば、卑怯な振舞い、卑劣な振舞い、打算的な振舞い、傲慢な態度、ろくでなしな振舞い、女々しい態度、などに抵抗して、道徳的に立派な振舞いをすることです。一つ目の「侠」が「上に対する抵抗」であるとすれば、二つ目の「侠」は「下に対する抵抗」です。例えば、「おとこぎ」という価値は、このタイプの「侠」でしょう。

 第三に、「侠」は、二流のプライドをもった人たちに抗する精神であります。鬼滅の刃で登場する鬼たちは、ご高著『鬼滅の社会学』の72頁以下の記述に従えば、例えば、次のように人たちです。善良なる弱者を偽装している人、芸術家のなりそこない、二流作家、出世主義者、非情な生育環境で育った人、権威ある男にすり寄る女、です。

 こうしたキャラクターの人たちが「鬼」になるのですが、なぜ鬼になるのかといえば、自分が本来もっているはずの「高貴な魂」を実現できず、自分の魂に誇りを持つことができない。そこで別の仕方で社会的な地位を手に入れたり、あるいは手に入れようとする。ところが、自分の中の高貴な魂を実現することができないというルサンチマンが、その人を鬼にしてしまうのですね。鬼滅の刃では、こうした背景をもった鬼たちに立ち向かうことが、「侠」の精神として描かれている。

 この第三の侠の精神は、上に対する抵抗でも、下に対する抵抗でもなく、ルサンチマンが変異したものに対する抵抗です。

ここで物語を脇に置いて考察してみると、例えば、中島敦の『山月記』では、詩人を目指していた主人公がトラに化けてしまいます。これはつまり、二流の才能しか開花しなかった詩人が、「鬼」になった、と解釈できます。こうした鬼を退治するというのは物語として面白いですが、しかし私たちの社会では、自分の高貴な魂を実現できないからと言って、必ずしも鬼になるわけではありません。例えば、やりたくない仕事をやめて、自分のやりたいことを追求したとしましょう。しかしその結果に満足できず、自己嫌悪に陥ったとしましょう。それでも、鬼になるわけではありません。

 本書48頁で、片田珠美のコメントが紹介されているように、鬼滅の刃には、「誰もが鬼になってもおかしくない現代人の不安」が表現されているという、そういう状況はあると思います。しかし多くの人は、鬼にはならない。

自分のやっていることが二流であり、情けないという場合、しかしそこに「鬼のような血」を注ぐと、力を発揮できることがあります。自分の魂の声に従うのではなく、鬼の声に従って、鬼才を発揮できる場合があります。しかしそれは、自分が鬼になることであり、鬼滅の刃の世界観に従えば、いずれは「侠の精神」をもった人によって滅ぼされる運命にあるでしょう。

 はたして私たちは、自分の魂を鬼に売って、鬼の声に従い、鬼才を発揮して生きるべきなのか。それとも、そうした鬼才を発揮する鬼たちを退治する「正義の勇者」となるべきなのか。あるいはそのどちらでもなく、いかに二流であれ、自分のなかの高貴な魂を実現するように生きるべきなのか。そのようなことが問われているのではないか、と思いました。


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