■ウェーバーのいう「形式合理的な経済行為」とは
佐野誠さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
本書は、ウェーバー研究者のシュルフターの著作集、その第二巻です。全体で全六巻の翻訳企画のうち、他の巻はすでに刊行されていたのですが、この第二巻が最後に、最近になって刊行されたということですね。
私は以前に、この著作集の第四巻と第六巻を読みましたが、とくに第四巻の『信念倫理と責任倫理』は、すぐれた概念分析であると思いました。私は拙著『社会科学の人間学』で、この本の分析をさらに乗り越える概念分析を提示するという、野心的な試みをしたのでした。
シュルフターはとてもすぐれた研究者であると思うのですが、この第二巻で扱っている官僚制の問題は、そもそもウェーバーの官僚制論に限界があるような気がします。
訳者解説で解説されているように、かつてマルクーゼはウェーバーの官僚制論を批判して、独自の思想を展開したのですが、マルクーゼのウェーバー理解は間違っていた。これに対してハーバーマスのウェーバー理解は正しくて、ハーバーマスは、ウェーバーを内在的に乗り越えた、ということですね。これは正しい学説理解だと思います。
しかしそれでも、マルクーゼの独創的な思想の価値が失われるわけではありません。私たちは現代の官僚制を超えて、どんなシステムを築くべきなのか。この問題について、ウェーバーはあまりヒントを与えていないですね。むしろマルクーゼのほうが構想力をもっている。
私はウェーバーの思想を、新保守主義の観点から解釈すべきである、ということを主張していますが、これは官僚制をある方向に変容させようとするものです。
本書から、私はとくに、ウェーバーの「形式合理的な経済行為」の概念について学びました。シュルフターによれば、この概念には、一種の内在的制約があるのですね。(325)
労働者が、経営手段を所有して経営管理するような組織は、マルクス主義の観点からみて一つの理想であり、資本主義を乗り越えるための一段階とみなしうるのですが、ウェーバーはこれを、形式合理的な経済行為と矛盾するものだ、と考えたのですね。形式合理的な経済行為は、労働者以外の人(経営者)が生産手段を所有して、労働者を収奪するという矛盾を抱えている。しかしこのような経営は、流通経済的な需要充足の理性によって基礎づけられている。つまりそのほうがうまく消費者の需要を満たすことができる。
もし労働者が生産手段を所有して生産を行うような経営組織が、市場で勝負できるなら、つまりその方が生産性が高い場合には、形式合理的な経済行為はもはや形式的なものではなく、実質的な合理的な経済行為であるとみなされるのですね。興味深いです。
しかし歴史が示したのは、資本主義というのは、形式的合理的な経済行為を組織化するのであって、実質合理的な経済行為を組織するには至らない、ということでした。
ウェーバーは、社会主義という体制が、この資本主義の体制における経営者の所有を、国家所有に置き換えるものであって、そこではやはり労働者が収奪されると考えた。しかし、国家所有ではない、労働者所有の社会主義(平田清明のいう市民社会)というものもあります。それは例えば、労働者がすべての株式を所有する株式会社とか、あるいは公社ですね。多くの社会主義者たちが、非国家型の、市民社会型の経営組織のあり方を模索したのは、そのためでしょう。