■ウェーバーの「権力」概念を乗り越える
橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
これは社会学の理論的な中心問題を、ストレートに論じた本ですね。驚きです。理論は、若いうちに構築しないとダメだという通念が、吹き飛びました。
最も重要で中心的な議論は、ウェーバーの権力の定義を、いかにして乗り越えるか、という理論的課題なのですね。
ウェーバーの定義:「権力とは、ある社会関係のなかで、自らの意思を、たとえ抵抗があろうとも押し通すことができるあらゆる機会のことをいう。この機会は、何に基づくものでもよい。」(162)
しかし権力をこのように定義すると、例えば、企業に権力はあるのか、という問題に対して、「権力はある、ただしこれこれの条件(社会関係)の下で」という条件がつくだけでなく、「権力はない、ただしこれこれの条件(社会関係)の下で」という条件も付く。
「たとえ抵抗があっても押し通すことができる」かどうかは、さまざまな価値の観点によって、異なった評価になるでしょう。実際に抵抗があるとすれば、権力の認定は、事実認定できます。しかし、実際に抵抗がない場合に、「たとえ抵抗があっても押し通すことができる」と、どうやって認定するのでしょうか。いろいろな解釈が成り立つでしょう。これはつまり、権力の存在は、かならずしも事実認定の問題ではない、ということですね。
いずれにせよ、そこにおいて想定されているのは、権力が作用すると、相手は自由ではなくなる、という前提です。ところがこの前提も疑わしいですね。権力が作用すれば、人は自由ではなくなるのか。そんなことはないですね。人を自由にするような権力作用も、あるはずです。
ウェーバーの定義は、十分ではない。そこで橋爪先生の定義は、・・
「権力は、人が人を従わせること、である。」
「権力は、人が人に従うこと、である。」
この二つのうち、前者のほうが根本的だというのですね(192)。
私が思うに、この定義のメリットは、規範理論の観点からみて、自由な社会を作るための正当な権力の作用を、論じることができるという点です。
ラディカルなリベラルは、あらゆる権力と権威を批判して、権力作用のない社会、権威のない社会を理想とします。しかしこれは不可能であり、真っ当なリベラルは、健全な権力作用、権限な権威のあり方を探るでしょう。ある一定の権力作用が、自由な社会を構成することを認めるでしょう。権力の作用が正当であることを認めるという、そのような正当性への関心は、自由への関心と矛盾しません。
この点を明らかにした点に、本書の理論的な達成があると思いました。