■大塚久雄の本の中国語訳です リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 3月 18, 2025 周雨霏訳、中国語版、大塚久雄『共同体の基礎理論』上海文芸出版社 周雨霏さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 大塚久雄の最もよく読まれている本の一つを、中国語に翻訳されたのですね。しかも今回の中国語訳は、意外なことに、初訳なのですね。日本で出版された同書と比べて、表紙のデザインがよいです。 出版を心よりお喜び申し上げます。中国人留学生の方々に、勧めたいと思います。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
■「天」と「神」の違いについて 6月 23, 2017 橋爪大三郎/大澤真幸『げんきな日本論』講談社現代新書 橋爪大三郎さま、大澤真幸さま、ご恵存賜りありがとうございました。 天を祀るのと、神を祀るのとは、どう違うのか。 天を祀る場合ですが、天は「祖先」ではありません。 しかし神を祀る場合、その神が「氏神」であれば、祀る人の祖先が祀られる神になる。それは自然な紐帯であり、絶たれることがありません。 天皇家も、アマテラスとか、その系統の「神」を祀っていて、それを祖先だとみなしている。そうだとすると、神との関係は切れていないことになる。神との関係が切れていないとすれば、その正当性を否定する革命はきわめて起こりにくいですね。 ではなぜ、日本に「天」がないのでしょう。 もともとあった血縁関係を超えて、大きな国家・帝国を作るためには、血縁関係とは無関係の原理が必要です。 それが「天」です。天との関係で、皇帝は皇帝になるわけです。皇帝は、由緒正しい家柄だから皇帝になれたのではなく、「天命」によって皇帝になる。 ところが日本の場合は、 カミは、どこかの氏族と特別な関係をもち続ける。オオキミはやがて「天皇」と呼ばれるようになりますが、「天」との関係は希薄です。オオキミは、ランクの高い氏族であって、血縁的な共同性の原理を脱していないのですね。 続きを読む
■リベラルな社会運動とは 7月 30, 2025 富永京子『なぜ社会は変わるのか はじめての社会運動論』講談社新書 富永京子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 社会運動論の現在を伝える、すばらしい入門書だと思います。 本書は、社会運動論のはじめての新書だというのですね。画期的です。 「社会運動」という概念は、現在では、いろいろな意味で用いることができます。例えば、「再生利用可能な素材で作られたボールペン」です。これが「普及する背景には、どういった政治的機会と制度の変革があったのでしょうか。」 (234) エコなボールペンの普及のために尽力した人たちは、社会を変える運動をしたのだというのですね。そして私たちは、エコなボールペンを使うとき、このボールペンが利用できるようになった背景に、いったい、どれだけの社会運動があったのかと想像力を逞しくする。そのような背景を「視る力」を養うことが、社会運動論を学ぶ意味だというのですね。これは説得的な説明です。 社会運動という言葉は、これまでさまざまな理論によって、さまざまに定義されてきました。自分に合った社会運動はどれなのか。それを知ることが必要です。本書は、この定義の問題を、最初にチャート式にまとめています。 例えば、「社会運動にはパッションが大事だ」という命題に、賛成か反対か。パッションはそれほど重要ではなく、しかし政治はたえず変化するのだから、それを睨んで何らかのアクションを起こす。そのような実践が、自分にとって利益になる人がいます。社会運動をすることには政治的・経済的な意味がある。そのように考える人がいます。 しかし、別の理由で社会運動をする人もいます。例えば、「集合的なアイデンティティ」や、「文化的な意味」、あるいは「自分とは異なる人たちと何かを共有する体験」を求めて運動する人がいます。 大切なのは、ミクロの視点をもつことですね。例えば、 X でツイートしたり、リツイートする。それだけで、その行為は社会運動とみなすことができる。このように社会運動を広く捉えると、私たちが日常生活でしていることの多くは、社会運動の一コマと言えるかもしれませんね。 第一章で紹介されているように、現在、社会運動でもっとも流通している定義は、 ①明確に特定された敵と対立関係にある。 ... 続きを読む
■ネオリベラリズムは最大の経済思想 7月 09, 2025 下村晃平『ネオリベラリズム概念の系譜 1834-2022 』新曜社 下村晃平さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 とてもすぐれた歴史研究、知識社会学の研究だと思います。熱量が違います。ネオリベラリズムという概念が、どのように語られてきたのか、その複雑な歴史と、キーパーソンたちの駆け引きが語られています。 おそらく「ネオリベラリズム」は、 20 世紀前半から 21 世紀前半にかけての、最大の経済思想といえるでしょう。そのように言えるのは、 21 世紀になってから、とりわけ 2010 年から 2020 年にかけて、この概念をめぐる研究が爆発的に増えたからであります。現時点で振り返ると、ネオリベラリズムこそが、私たちの時代の 100 年間を規定しているようにも見えます。 これは不思議です。思想としてみた場合、ネオリベラリズムの担い手は、ハイエクとフリードマンに代表されます。しかし二人が生きた時代の全盛期は、 1980 年代まででしょう。その後、ハイエクやフリードマンを超える、ネオリベラリズムの経済思想家は輩出されていません。 本書から学んだことは、ハイエクやフリードマンは、自身の立場をネオリベラリズムと自称した時期もあるけれども、それはほんのわずかな時期であった、しかもこの言葉は、二人の思想の中心的な部分を表していないのですね。これに対して 1980 年代に、米国で「ネオリベラリズム」を自ら自称した人は、民主党のなかの亜流の人たちだったのですね。「自称」を尊重して考えると、ネオリベラリズムとは、ハイエクやフリードマンの思想ではない、ということになります。 歴史を振り返ると、 20 世紀前半の段階で、ネオリベラリズムはケインズ主義を含んでいました。また、ドイツのオルドー学派(オイケンなど)を「ドイツ版ネオリベラリズム」と呼ぶとすれば、「社会的市場経済」という概念は、ネオリベラリズムから出てきたのですね。ネオリベラリズムの概念には幅がある。このことに注意が必要です。 おそらく、「古典的自由主義」の概念も、幅があると思います。この概念は 1930 年代ごろから用いられるようになったようですが、古典的自由主義の概念には、最初から介入主義の意味が含まれていたと思います。これとの対比で、自由放任主義が批判さ... 続きを読む