■大塚久雄の本の中国語訳です リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 3月 18, 2025 周雨霏訳、中国語版、大塚久雄『共同体の基礎理論』上海文芸出版社 周雨霏さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 大塚久雄の最もよく読まれている本の一つを、中国語に翻訳されたのですね。しかも今回の中国語訳は、意外なことに、初訳なのですね。日本で出版された同書と比べて、表紙のデザインがよいです。 出版を心よりお喜び申し上げます。中国人留学生の方々に、勧めたいと思います。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
毎日新聞のインタビュー記事につきまして、訂正します。 2月 22, 2026 毎日新聞のインタビュー記事につきまして、訂正します。 先日、小生が受けた毎日新聞の インタビュー記事 で、 私は重大なミスを犯してしまいました。[→すでに訂正していただきました。] 皆様、大変申し訳ありません。 以下、その経緯を記し、訂正します。 私は毎日新聞のインタビューで、高市早苗首相には「小カリスマ」の特徴があると答えました。 その後、新聞記者より、「小カリスマ」とは何か、と質問を受けました。 私は次のように、この言葉の定義を答えました。 "多くの人を引きつける力のある人、という意味です。 これには、人々がそのような人を待望している、という条件が加わります。"と。 すると、新聞記者より、小生へのインタビューを文字化するにあたって、 次のような文章をご提案いただきました。 "高市早苗首相は、宗教的指導者や英雄に見られる非日常的な力を持ち、人々もそのような人に救済を待望する「小カリスマ」だ。"と。 しかし私は、この文章はおかしいと思いました。誤解を招きやすいと思いました。 高市早苗と宗教的指導者/英雄(カリスマ)を同一視しているようにも読めるからです。 そこで、次のような修正案を示しました。 "高市早苗首相は、未来を語るリーダーだ。非日常的な力をあやつる「小カリスマ」の特徴がある。" そして紙面版では、この文章を採用していただきました。 しかし、なんと私は、こともあろうか、勘違いしていたのです。 Web版もこのように修正されるだろうと想定して、Web版の記事の文面を修正しなかったのです。結果として、Web版の記事では、修正されていません。[→その後、訂正されました。] これは私が、しっかり校正しなかったミスであります。 大変申し訳ありません。 新聞記者よりご提案いただいた文章は、私が高市首相を支持している印象を与えますが、しかし私は支持していません。 私が「小カリスマ」という言葉を用いたのは、 あまくでも社会学的な分析の観点からであり、 だからこそ私は、「小カリスマ」の定義に、英雄などを含めず、また、 「人々がそのような人を待望している、という条件が加わります」と加えたのでした。 私は、高市早苗を支持したり、まして魅了されているのではありません。 しかし校正段階で、大きなミスを犯してしまいました。 毎... 続きを読む
■「天」と「神」の違いについて 6月 23, 2017 橋爪大三郎/大澤真幸『げんきな日本論』講談社現代新書 橋爪大三郎さま、大澤真幸さま、ご恵存賜りありがとうございました。 天を祀るのと、神を祀るのとは、どう違うのか。 天を祀る場合ですが、天は「祖先」ではありません。 しかし神を祀る場合、その神が「氏神」であれば、祀る人の祖先が祀られる神になる。それは自然な紐帯であり、絶たれることがありません。 天皇家も、アマテラスとか、その系統の「神」を祀っていて、それを祖先だとみなしている。そうだとすると、神との関係は切れていないことになる。神との関係が切れていないとすれば、その正当性を否定する革命はきわめて起こりにくいですね。 ではなぜ、日本に「天」がないのでしょう。 もともとあった血縁関係を超えて、大きな国家・帝国を作るためには、血縁関係とは無関係の原理が必要です。 それが「天」です。天との関係で、皇帝は皇帝になるわけです。皇帝は、由緒正しい家柄だから皇帝になれたのではなく、「天命」によって皇帝になる。 ところが日本の場合は、 カミは、どこかの氏族と特別な関係をもち続ける。オオキミはやがて「天皇」と呼ばれるようになりますが、「天」との関係は希薄です。オオキミは、ランクの高い氏族であって、血縁的な共同性の原理を脱していないのですね。 続きを読む
■J.S.ミルの女性論はしだいに保守化した 5月 23, 2026 柳田芳伸/原信子編『経済学者たちの女性論 ジェンダーの視点で経済思想を問う』昭和堂 小沢佳史さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 ご高論「 J.S. ミルの『経済学原理』における女性――男女の平等から労働者の境遇改善へ」を拝読しました。 ミルは、女性の社会的地位について、少しずつ論じ方を変えたのですね。『経済学原理』の初版から第七版にかけて、どのように変化したのか、テキストクリティークによって明らかにしています。すると重要なことが分かったと。 ミルは、労働市場で競争する自由を、女性から除外することは望ましくない、というのですね。具体的に問題になるのは、結婚した女性が働いて、夫に頼らずとも生きていける。そのような利点( = 自由)を認めるかどうかです。 163 頁。 ミルは、これを認めます。しかし『経済学原理』の第五版と第六版で、次のように加筆するのですね。「一家の母親が、生きていくために少なくとも自宅以外の場所で働かなければならないということは、労働者階級の恒常的な要素として望ましいものと見なされえない」のだと。 このミルの言葉は、新保守主義的な解釈が成り立つ部分ですね。ミルは、女性の経済的自立を推奨していたのですが、しだいに経済的な自立の利点について、断定するのではなく推量するにとどめるようになったのだと。 ミルはしだいに、専業主婦を認めるという、保守的な立場に変っていったようです。これは G. ヒンメルファーブのミル解釈と親和的です。自由主義が、進歩主義的なものからしだいに新保守主義的なものへと変化していく。そのような推移が、ミルのなかにも読み取れるというのは、重要な思想史理解だと思います。 問題は、このようなミルの変化を、どう思想史的に位置づけるかです。そもそも、ミルの自由の哲学も、新保守主義を許容する論理構造になっていたのかどうか。ミルの自由主義をどう評価するか。大きな問題だと思います。 続きを読む