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■平等主義はなぜ望ましいのか

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田中将人『平等とは何か 運、格差、能力主義を問い直す』中公新書    田中将人さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  先日、オンライン研究会で、本書の合評会を開催しました。押野健さんのコメントその他に対して、正面から真摯にお答えいただきました。ありがとうございました。  この本のなかに書かれていることですが、田中さんは田舎の学校で育って、保育所・小学校・中学校をともに過ごした同級生 30 人のうち、大学に進学したのはたったの 5 人だった、というのですね。私の場合、小学 6 年生のときに、私立の中学校を受験した人が 8 割くらいでした。ほとんど私立に行ってしまった。これは育つ場所でどれだけ格差が広がるかを、示しています。私の場合は、私立の中学校を受験しなかったのですけれども。  本書は、平等主義に関する最新の研究を、とても分かりやすく紹介しています。読者を引き込む力があります。  おそらく、最大の理論的・哲学的問題は、「平等主義はロールズの格差原理で擁護するのか」、それとも「この格差原理を修正するのか」、あるいは「格差原理に何か別のサブの原理を加えるのか」、だと思います。  ロールズの格差原理で正当化された社会は、必ずしも平等主義の社会ではありません。例えば、年収 900 万円の人を 700 万円の年収にして、 400 万円の人を 500 万円にするといった平等主義化は、ロールズの格差原理では正当化できません。では平等謝儀者は、このような格差是正を、どんな原理で正当化するのでしょうか。  私の考えは、私が『自由原理』で展開した「潜勢的可能性としてのケイパビリティ」概念によって基礎づけられる、というものです。 しかし、本書で議論されている最新の研究では、このような議論はないようですね。 富裕層に対しては、資本税と相続税を強く課すこと、そして貧困層には対しては、教育、職業訓練、労働交渉力、各種の経済的規制、などをうまく制度化することが提案されています。こうした政策がどのような理由で正当化されるのかは、たんに平等がいい、という理由だけでなく、なぜ平等がいいのかといえば、それは人々の潜在能力がいっそう発揮されるからでしょう。つまり現代の平等主義は、潜在能力という理念に基礎をおいているように見えます。  田中さんは「支...

■無知学が必要なワケ

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  鶴田想人 / 塚原東吾編『無知学への招待 〈知らないこと〉を問い直す』明石書店   鶴田想人さま、塚原東吾さま、執筆者の皆さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  大竹弘二さんの論稿「民主主義と無知」は、ランシェールの議論を紹介しています。民主主義を実践するためには、民衆の一人一人が「知」を身につけて、議論に参加できなければなりません。そのためには教育が必要です。 しかし教育によって、知の優劣、不平等が生まれます。すると劣った人は、優秀な知をもった人の指導を受けなければなりません。しかしこれでは、劣った人はいつまでたってもその指導から解放されません。 ランシェールは、ここに問題があると考えます。民主主義を、「能力」や「資格」に基づいて行ってはならないというのですね。では能力の序列化を避けて、どうやってすぐれた民主主義の政治を行うことができるのか。ランシェールは結局、そのような民主主義は制度化できないのだから、社会運動のような序列のない民衆たちの集まりを重視しよう、というのですね。 しかしこうなると、制度としての民主主義をあきらめるのか、それとも社会運動で補うのか、という問題になります。制度論がない、ということでしょうか。  桑田学さんの論稿「経済学における「自然」の不可視化」は、 1870 年に起きた経済学の「限界革命」が、「有機経済(光合成のエネルギー)」から、「化石経済(石炭エネルギー)」への転換において生じたことを指摘しています。 これは歴史的にみて、興味深いです。有機経済(光合成のエネルギー)では、製造業は木炭に依存している。人間の労働力も、筋力(身体)とその再生産(食事と睡眠 ? )で説明できる。ところが化石経済(石炭エネルギー)になると、生態系にとって持続不可能なエネルギー消費になる。この持続不可能性こそ、まさに「無知学」の課題でしよう。 私たち人間は、経済学という「知」をもっているにもかかわらず、何が持続可能な消費なのか、これが分からないんですね。人類は、自らの持続可能な生態系について無知です。どうも石炭を用いるようになってから、私たちは自分たちのしていることが、いっそう分からなくなった。そのような時代に突入してしまったということです。