■リベラリズムは国境移動を正当化する
浦山聖子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
リベラリズムの観点から、移民の問題を本格的に論じています。とくに第九章「気候移住者の受け入れ義務」は、刺激的でした。
この本の最初に、次のような例が出てきます。
米国人のケンは、デジタル・ノマドです。タイであれどこであれ、自由に働くことができます。
これに対してシリア出身のハーシムは、ゴムボートで、エジプトからヨーロッパに不法移民として向かいます。自由に働くことができません。
どうしてこのような境遇の差が生まれるのでしょうか。そしてまた、このような不当な境遇の差は、許されるのでしょうか。
リベラルな観点からすれば、ケンもハーシムも、自由に国境を移動できることが望ましい。もちろん移動に際して、一定の制約があることは認めるとして、しかしできるだけ不公平な扱いを減らしていく。そのための論理を考える、ということですね。
そもそも、リベラリズムはなぜ、国境を移動する自由を認めるのでしょう。
その論理として、本書は、井上達夫の文章を引用するかたちで、正当化しています(49)。しかしこの井上先生の議論は、とくに論理的に全面展開されているわけではなく、さらっと述べられているので、いろいろと疑問がわいてきます。
まず、消極的移動の自由と積極的移動の自由の区別ですが、これは「ある国を離れる消極的自由」と「ある国が移民を積極的に受け入れる自由」の区別です。
これは各国政府が、離れる自由(消極的自由)をどの程度認めているか、そして、入国する自由をどの程度認めているか、ということですね。政府側の事情の区別です。
この区別の他に、移動する当事者の側の事情に即して、「身の危険があるがゆえに自国を離れざるを得ない」ケースと、「冒険のため、自己実現のために積極的に出国したい」ケースを分けるべきだと思いました。
消極的な移動の自由は、当事者に即して言えば、危険回避と冒険願望に分かれます。積極的な移動の自由(受け入れる自由)も同様に、当事者に即して危険回避した人の受け入れと、冒険願望を持った人の受け入れに分かれます。リベラリズムが移動の自由を正当化する場合、どの自由をどのように擁護するのか。それは「自由」という価値をどのように意義付けるか、という問題になります。
もう一つの論点は、表現する自由=権利と、結婚する自由=権利です。こうした基本的な権利を認めていくためにも、国境を移動できなければならない。
では国際レベルで、どこまでこのような権利を認めていくべきなのか。それは人権が侵害されないように、という発想で考えると、身の危険がある人の亡命権を認める、ということになるでしょう。これに対して、人権概念の最大の理想を実現するために、という発想で考えると、それは成長論的な発想になるでしょう。どんな人権を認めたら、人々はもっと自分の潜在能力を発揮して、自己を実現することができるのか。その問いに対する答えになるでしょう。危険を最小化するのか、それとも人格的発展を最大化するのか、という区別が重要だと思いました。
以上のようなことを考えてみました。