■政治哲学の難問は、恣意的な権力を呼び寄せる




松元雅和『政治哲学講義 悪さ加減をどう選ぶか』中公新書

 

松元雅和さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

とてもウィットに富んでいます。現代の政治哲学を前に進めています。

副題は、「悪さ加減をどう選ぶか」ですが、これは功利主義的にみて、社会全体の効用が下がらないように工夫する、ということだと思います。

しかし功利主義的に考えることが難しい場合があります。集計すべき効用が争われる場合や、集計の仕方が争われる場合です。そのような場合、一定の価値観点が必要ですね。

しかし価値観点が争われる場合、しかも、その争いが究極的な壁にぶち当たる場合は恐ろしい。哲学的にみて「価値の争い」を決着できないとき、政治家は恣意的な権力行使を正当化できるからです。

究極の価値を争う場合、どちらの価値も正当化できるので、政治家はどちらを選んでもいいという状況になります。

その意味で、政治哲学上の難題は、考えることがあほらしくなりますね。かえって恣意的な権力を呼び寄せるのですから。おそらくもっと重要な問題は、正解がないときに、そこで生まれる恣意的な権力をいかに抑止するかです。

この他、トロリー問題のバリエーションは、刺激的でした。

トロリー問題とは、五人を救うために、一人を犠牲にするような転轍機の操作が、倫理的に正当化できるかどうか、という問題です(97)

この問題のバリエーションが、まとめてリスト化されています(25)

例えば・・・

 

五人を救うために、四人を見捨てる。

100人を救うために、一人を拷問する。(99人を拷問する、という例でもいいと思う。)

自国民を救うために、他国民を見捨てる。(具体的な人数も必要だと思う。)

 

このような例で、問題の答えを左右するのは、人数の比率です。五人を救うために一人を犠牲にすることができる、と考えた人でも、四人を犠牲にすることできないと考えるかもしれません。これは興味深いですね。

このような倫理的直観について、深く考える価値があります。あるいはまた、拷問やネイションをめぐる架空の問題について考えることは、私たちの倫理的な力を養うでしょう。

 

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