■無知学が必要なワケ
鶴田想人さま、塚原東吾さま、執筆者の皆さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
大竹弘二さんの論稿「民主主義と無知」は、ランシェールの議論を紹介しています。民主主義を実践するためには、民衆の一人一人が「知」を身につけて、議論に参加できなければなりません。そのためには教育が必要です。
しかし教育によって、知の優劣、不平等が生まれます。すると劣った人は、優秀な知をもった人の指導を受けなければなりません。しかしこれでは、劣った人はいつまでたってもその指導から解放されません。
ランシェールは、ここに問題があると考えます。民主主義を、「能力」や「資格」に基づいて行ってはならないというのですね。では能力の序列化を避けて、どうやってすぐれた民主主義の政治を行うことができるのか。ランシェールは結局、そのような民主主義は制度化できないのだから、社会運動のような序列のない民衆たちの集まりを重視しよう、というのですね。
しかしこうなると、制度としての民主主義をあきらめるのか、それとも社会運動で補うのか、という問題になります。制度論がない、ということでしょうか。
桑田学さんの論稿「経済学における「自然」の不可視化」は、1870年に起きた経済学の「限界革命」が、「有機経済(光合成のエネルギー)」から、「化石経済(石炭エネルギー)」への転換において生じたことを指摘しています。
これは歴史的にみて、興味深いです。有機経済(光合成のエネルギー)では、製造業は木炭に依存している。人間の労働力も、筋力(身体)とその再生産(食事と睡眠?)で説明できる。ところが化石経済(石炭エネルギー)になると、生態系にとって持続不可能なエネルギー消費になる。この持続不可能性こそ、まさに「無知学」の課題でしよう。
私たち人間は、経済学という「知」をもっているにもかかわらず、何が持続可能な消費なのか、これが分からないんですね。人類は、自らの持続可能な生態系について無知です。どうも石炭を用いるようになってから、私たちは自分たちのしていることが、いっそう分からなくなった。そのような時代に突入してしまったということです。