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■トランプ政権の背後にある白人の劣化

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会田弘継『トランプ政権とアメリカ保守思想』左右社 会田弘継さま、ご恵存賜りありがとうございました。 ノーベル経済学賞を受賞したアンガス・デイトン夫妻は、ある興味深いデータを発見しました。  どの国でも医療の進歩によって、 1990 年代以降、中年層 (45-55 歳 ) の死亡率は下がっています。ところがアメリカ合衆国の白人について調べてみますと、逆に死亡率が上昇している。死因は、薬物、アルコール依存、自殺です。  アメリカにおいても、ヒスパニックや黒人の中年層は、他国と同様に、死亡率が下がっています。上がっているのは、なんと「アメリカの白人」のみなのです。  そして死亡率が高いところでは、トランプに対する支持率も高いというのですね。  劣化するアメリカの白人たちによって、いまアメリカ政治が動いているのだと。  もう一つ、ギャラップの調査で、「グッド・ジョブ」に関する調査があります。週に四日以上働くことができているか、会社が医療保険の面倒を見てくれるか、などの質問と一緒に、「あなたの仕事はグッド・ジョブか」と尋ねるのです。 すると六割の白人が、「ノー」と答えるのですね。失業していなくても、不安に取りつかれた白人が多いのですね。そうした人たちが、トランプ政権を支持している。 2015 年の段階で、アメリカの白人は 61.7% でした。そして今後、 2040 年には、約 50% になるだろうと予想されています。アメリカは、あと約 25 年で、白人国家とは言えなくなるわけですね。そうした白人の衰退、そして劣化のなかで、アメリカの政治が動いていくことになるでしょう。

■経済思想のオリジナルな書物

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  斉藤尚『社会的合意と時間』木鐸社 斉藤尚さま、ご恵存賜りありがとうございました。 ご高著は、私がこれまで読んだ経済思想の書物で、最も哲学的でオリジナルな思索の営みに満ちた本の一冊だと思います。読みながら感動しました。  いつかしっかりと応答したいと思うのですが、さしあって、次の二つの印象をもちました。  ベルクソンに依拠すると、憲法制定上の社会契約における人格的基礎だけでなく、その後のさまざまな社会政策においても影響を及ぼし、アローの社会的選択の条件に依拠することがさらにできなくなるのではないか。つまり、厚生主義の議論をさらに制約することになるのではないか、という疑問です。持続としての自由で創造的な行為は、それほど社会のなかに遍在しているのではないかと思われます。  もう一つは、ベルクソンのいう「開かれた社会」の政治思想的含意を引き出すとすれば、そこには実は、もっと密教的な要素があって、それがある種のグローバルなコミュニタリアニズムを要請するのではないか。そしてその要請は、人格の基底的な承認論をこえた含意をもつのではないか。「愛」とは、そのような要素をもっていないか、という疑問です。  第一の疑問は、リッツォらの「時間と無知の経済学」のテーマでもあります。第二の疑問は、ポパーのいう「開かれた社会」と、ベルクソンのそれが、規範的にどのような差をもたらすのか、という問いでもあります。  いずれにせよ経済思想の分野において、このような独創的な研究が日本で生まれたことを、心から祝福したいと思います。 http://www.bokutakusha.com/books/2016/2.html

■死体はだれのものか

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奥田純一郎/深尾立編『バイオバンクの展開』上智大学出版 野崎亜紀子さま、ご恵存賜りありがとうございました。  死体は、尊厳をもって扱われなければならない。勝手に扱ってはいけない。 なぜかと言えば、その論拠は、「国民の宗教感情としての死体の尊重」という倫理によって、基礎づけられているからなのですね。  死体はモノであるとはいえ、人と同じように、人格をもったものとして扱われる権利を持っている。  すると死体は、「遺族のもの」とは言えませんね。「遺族がその処分権をもっている」ということもできないですね。  死体を売ったら、やはりそれはいけない。それは直感的にそのように感じますね。これは、生きている人に関して、身体の処分権がその人自身に属するという、身体論型の財産権リバタリアニズムによって正当化されるものではなく、共有された宗教的価値にもとづく感覚ですね。  けれども、ある種のリバタリアンであれば、死者にも魂があり、その魂は死体に対する財産権をもっているはずだ、と発想するかもしれません。他人の財産権を不当に取り扱ってはならない、と。  しかし死体というモノは、いったい誰のものなのか。どうもこの問いは、「倫理国家」という規範の正当性を導くための、一つの理路になっているような気がします。

■医学的に無益なことを続けるべきか

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櫻井浩子/加藤太喜子/加部一彦編『「医学的無益性」の生命倫理』山代印刷出版部 野崎亜紀子さま、ご恵存賜りありがとうございました。 アメリカで大きな反響を呼んだ事件に、「ナンシー・クルーザン事件」があります。交通事故で脳に深刻な損傷を受けたナンシー・クルーザン( 1983 年当時 25 歳)は、自発的呼吸はできるけれども 経管栄養チューブを装着されることになりました。しかしその後、医師は、ナンシーが回復不可能であると診断することになります。  ナンシーの両親は、このような状態で娘が生かされ続けることは望ましくないとして、病院側に経管栄養チューブを外すように求めます。ところが病院側は、これを拒否するのです。両親は、訴訟を提起することにしました。  しかしミズーリ州の法律では、治療の中止を認めるに足りる「明白かつ説得力のある証拠」がないかぎり治療の中止を認めないことになっています。「望まない生命維持治療を受けない自由」は、制約されるとの判断です。両親は敗訴しました。  ではこの両親が貧しくて、病院に治療費を支払うことが困難な場合はどうなのでしょう。両親の経済的状況は、「明白かつ説得力ある証拠」になるでしょうか。  もし証拠になるとすれば、病院側は、親が裕福であれば、その親が貧しくなるまで、患者の延命措置を続けて治療費を請求しつづけるかもしれませんね。 その後、ナンシーの両親は連邦最高裁判所に控訴しますが、判決を覆すことはできませんでした。連邦最高裁判所は、 5 対 4 で、ミズーリ州最高裁判所の判決を支持しました。 ところがです。 連邦最高裁判所の判決ののち、ナンシーの両親は、審理の再開を求めます。新しい証拠を提示することができました。それによって最終的には、ミズーリ州巡回裁判所が、両親に対して栄養・水分を補給するチューブを取り外す権限を与える判決を出します。この判決によって、ナンシーは永眠することになりました。 この事件は一般に「死ぬ権利」の問題として取り上げられますが、なるほど「医学的無益性」の観点から解釈するのは興味深いです。延命措置には経済コストがかかるという現実を直視するなら、生命は、どれほどのコストによって、「延命する意義」があるのか。この問題を検討せざるを得ません。  ナンシー・クルーザン事件につい

■革命の可能なる代替行為とは

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大澤真幸『可能なる革命』太田出版 大澤真幸さま、ご恵存賜りありがとうございました。  〈革命〉とは、本書では、「集合的な要求を通じて、事実上は不可能とされていたことを実現し、そのことで、状況の全体を一変させること」と定義されています。  例えば、日米安保を破棄すること。これは革命ですね。  しかしかりにこのような革命が成功したとしても、これは資本主義に対する革命ではなく、資本主義の外部に出る企てではないですね。  資本主義には構造的な欠陥があり、それはたしかに、私の社会を正当化不可能なものとして認識させる。しかし他方で、構造的欠陥を克服するための方法や、構造的欠陥を克服する社会体制を描くことができない。  そうした状況の中で、革命とは、資本主義の問題とは別の次元において、現状をラディカルに変容させることであり、それが例えば「日米安保の破棄」になるというわけですね。  資本主義に対する革命の、いわば「代替財」のようなものとして、「日米安保破棄」という革命がある。  それが代替的にみえるのは、闘争的な関係性を破棄して、根源的な意味での平和な関係性を築くという、共通点があるからでしょう。問題は、根源的な意味での平和とは、どのような社会的理想なのか、ということだと思いました。

■外国から植民を受け入れるとすれば

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橋爪大三郎『日本逆植民地化計画』小学館 橋爪大三郎さま、ご恵存賜りありがとうございました。  東京のような大都市は、地震に対して脆弱なので、首都機能を分散させて、「ダブル首都」にするという提案には、私も賛成です。  いろいろな提案がなされていますが、本書の「真打ち」は、途上国から計画的に移民を受け入れよう、というものですね。過疎の地域をそれぞれ特定の国によって開発してもらう、と。すると外国から植民してきた人たちは、日本において「移動の自由」「住まいの自由」が認められない、ということになるでしょうか。  過疎地を再開発していただくためには、受け入れた外国人を「移動させない」ことが必要で、そのためのコスト(監視など)は、想像以上に大きなものになるのではないかと思いました。この問題をどうクリアするのかですね。