■医学的に無益なことを続けるべきか

A 1983 auto accident left Nancy Cruzan, a healthy Missouri woman, in a persistent vegetative state at age 25. When Cruzan's parents' asked her hospital to disconnect her feeding tube, the hospital balked. Eventually the Cruzans' evidence of Nancy's views about life and death were ruled sufficient to disconnect the feeding tube. She died on Dec. 26, 1990. (Time-Life Pictures/Getty Images/Keith Philpott)

櫻井浩子/加藤太喜子/加部一彦編『「医学的無益性」の生命倫理』山代印刷出版部

野崎亜紀子さま、ご恵存賜りありがとうございました。

アメリカで大きな反響を呼んだ事件に、「ナンシー・クルーザン事件」があります。交通事故で脳に深刻な損傷を受けたナンシー・クルーザン(1983年当時25歳)は、自発的呼吸はできるけれども経管栄養チューブを装着されることになりました。しかしその後、医師は、ナンシーが回復不可能であると診断することになります。
 ナンシーの両親は、このような状態で娘が生かされ続けることは望ましくないとして、病院側に経管栄養チューブを外すように求めます。ところが病院側は、これを拒否するのです。両親は、訴訟を提起することにしました。
 しかしミズーリ州の法律では、治療の中止を認めるに足りる「明白かつ説得力のある証拠」がないかぎり治療の中止を認めないことになっています。「望まない生命維持治療を受けない自由」は、制約されるとの判断です。両親は敗訴しました。
 ではこの両親が貧しくて、病院に治療費を支払うことが困難な場合はどうなのでしょう。両親の経済的状況は、「明白かつ説得力ある証拠」になるでしょうか。
 もし証拠になるとすれば、病院側は、親が裕福であれば、その親が貧しくなるまで、患者の延命措置を続けて治療費を請求しつづけるかもしれませんね。
その後、ナンシーの両親は連邦最高裁判所に控訴しますが、判決を覆すことはできませんでした。連邦最高裁判所は、54で、ミズーリ州最高裁判所の判決を支持しました。
ところがです。
連邦最高裁判所の判決ののち、ナンシーの両親は、審理の再開を求めます。新しい証拠を提示することができました。それによって最終的には、ミズーリ州巡回裁判所が、両親に対して栄養・水分を補給するチューブを取り外す権限を与える判決を出します。この判決によって、ナンシーは永眠することになりました。
この事件は一般に「死ぬ権利」の問題として取り上げられますが、なるほど「医学的無益性」の観点から解釈するのは興味深いです。延命措置には経済コストがかかるという現実を直視するなら、生命は、どれほどのコストによって、「延命する意義」があるのか。この問題を検討せざるを得ません。

 ナンシー・クルーザン事件については、以下のホームページも参照。




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