■消費論の新しい理論的到達点を示す重要書
■消費論の新しい理論的到達点を示す重要書
福士正博『持続可能な消費と社会的実践理論』柊風舎
福士正博先生、合評会(消費社会論研究会、オンライン、2021年2月2日)にご登壇いただき、ありがとうございました。
本書は、「持続可能な消費」について、これを最新の社会理論である「社会的実践理論」の視点から検討するという、とても野心的な成果であります。まず、このようなすばらしい御著書を刊行されましたことに、心より敬意を表します。
「持続可能な消費」という言葉は、最近しばしば用いられますが、しかし日本ではまだだれも本格的に研究していません。しかし海外では、さまざまな研究が提出されて、盛り上がっているのですね。日本では紹介すらされていませんでした。
また「社会的実践理論」についても、ほとんど紹介されることがありませんでした。しかしこの議論もまた、英語圏でかなり緻密な理論化が進んでいますね。
この持続可能な消費と、社会的実践理論という、二つの知のフロンティアを、本書は日本で開拓しています。ほとんど日本語の文献がないなかで、英語圏の本をたくさん吟味しており、理論的な点で、情報量が半端ではありません。これから消費論を研究する人たちにとって、本書は決定的な参照点となるでしょう。この度は、このような研究成果をまとめられましたことを、重ねてお祝い申し上げます。
合評会でも質問いたしましたが、私の論点は、次のようなものです。
「持続可能な消費」の概念には、大きく分けて「弱いバージョン」と「強いバージョン」があります。もちろん、もっと細かく分けることもできるでしょうが、大まかに言えば、この二つのバージョンは、一つの定義式における強調点の違いとして、つまり分析視点の違いとして、分析的に区別されます。その定義式を簡略して書くと、
持続可能な消費=①資源効率性+②生産効率性+③製品効率性+④サービス効率性+⑤人間豊かさの効果的な提供
となります。弱いバージョンは、②③を強調するのに対して、強いバージョンは④⑤を強調するというわけですね。これは④⑤には、簡単には評価できないような、倫理的な意味の世界が含まれるため、「強い」という表現になるのではないかと思います。
そしてこのような分析的な定義に、福士先生はさらに定義の特徴を追加して、強い持続可能性には、資源のエントロピー的な制約条件、効率性と区別される充足性の基準、厚いニーズの普遍的な分配、というおよそ三つの理念があると指摘しています。つまり、福士先生の理解では、定義は、強い意味での「持続可能性」概念は、二段階構えになっています。
しかし、資源のエントロピー的な制約条件は、①②にかかわる事柄でしょう。本書では、この問題に焦点が当てられていないため、強い持続可能性が、地球環境を物理的に維持するための、厳しい条件を意味しているようには見えませんでした。
また「充足性」と「厚いニーズ」は、③④にかかわる倫理的な基準であるように思います。これに対して、⑤については、本書ではなにも倫理的な指針が語られていません。これは不思議に思いました。消費されたサービスから、私たちは例えば、自分のケイパビリティを陶冶することで、人間的により豊かな存在になることができるでしょうし、また豊かさを多く享受できるでしょう。あるいは快楽を多く引き出すことができるでしょう。この⑤のテーマに固有の問題が論じられていません。
福士先生のいう「強い意味での持続可能な消費」の定義は、④⑤に限定されず、また⑤が検討されていない点に、理論的な弱さがあると思いました。
いずれにせよ、「強い持続可能な消費」の定義は、それ自体が論争的なものであり、これをどのように論じるかというところに、経済思想のフロンティアがあることが分かりました。「充足水準」と「ニーズ論」は、いずれも重要ですが、より根本的には、人間にとって「豊かさ」とはなにか、つまり⑤の問題が問われるべきであると思いました。この⑤の問題は、どんな充足か、どんな厚いニーズを求めるべきか、どのように充足とニーズを正統化するのか、というより根本的な理由の次元での議論だからです。
福士先生の理解では、おそらく「持続可能な消費」とは、強い意味では、資源を無駄使いせずに、ある程度の生活水準で充足し、そしてその消費の水準を、私たちは共有された厚いニーズの観点から正当化するものでなければならない、ということになるかもしれません。そこには、例えば「歯磨き」というる実践を、私たちが共通にするように、一体化という意味での共同性ではないけれども、「共に実践する」という関係性こそが、価値ある実践として浮かび上がるということだと思います。ではその水準は、一人当たり、どの程度の電力消費量になるべきなのか。持続可能な消費の議論をする以上、このような方向に、研究を展開していく価値があると思いました。