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■新自由主義に代わるフーコー的な理想社会とは

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    重田園江『フーコーの風向き』青土社   重田園江さま、ご恵存賜りありがとうございました。    本書の第九章は、フーコーの統治性研究で、オルドー派の新自由主義がテーマになっています。だいぶ前になりますが、私たちがまだ大学院生だったころ、研究会でご研究の草稿を議論したことを思い出しました。  フーコーは統治性の観点から、新自由主義を肯定したのか、それとも否定したのか。福祉国家の統治性(ミクロな権力)に批判的だったフーコーは、福祉国家を批判する新自由主義の統治性を肯定した可能性があります。しかしこの問題は争われるわけですね。  フーコーはもっとアナキストであり、つまり、あらゆる制度的統治性に反対して、自己統治という理想を対置している。これに対して新自由主義は、福祉国家と同様に、統治のテクノロジーの一つです。統治のテクノロジー全般に反対するなら、統治のテクノロジーが存在しない社会を理想とすることになる。それはどのような社会になるのか。たくましいイマジネーションが必要です。  本書の最後の「コラム」で述べられているように、新自由主義に代わる新しい統治の構想は、いまだ出現していません。経済のグローバルな自由化がもたらす弊害への反発やリアクションを超える、新たな統治構想は、いまのところみられない (347) 。  フーコー的な「自己統治」の理念を、新しい社会構想にとり入れるとすれば、それは例えば、ベーシック・インカムを無条件に保証して、それ以外の制度(教育・医療など)をすべてオプションにとどめるような社会が望ましいかもしれません。最低限、消費税のみを支払えば、ベーシック・インカムがもらえる。しかし各種の保険や年金の積み立ては強制しないし、促進もしないという具合に。  このような社会は、本当に自己統治を可能にするでしょうか。このような制度を積極的に描いてみると、「いやそれはフーコー的な理想ではない」という感じもします。このあたりの議論に関心を持ちました。

■バランス感覚のある思想とは

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    桂木隆夫『保守思想とは何だろうか』筑摩書房   桂木隆夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    人間は脆弱で、不完全な存在であるにもかかわらず、それでもなんとか自由な社会を築くことができる。そのための道徳的基礎として、まず、「不完全な人間中心主義」と「可謬主義」の態度が必要で、これはつまり、あらゆる原理や真理への懐疑を出発点として、しかし未来に対する健全な懐疑を保持しながら、複数の原理や価値のバランスを追求するという態度ですね。こういう態度が必要だという考え方は、とりわけヒュームにみられるものであり、これを「保守的自由主義」と呼ぶわけですね。  本書は全体として、フランク・ナイトと福沢諭吉の二人に焦点を当てていますが、ナイトの場合は、自由放任主義を排して、バランスをとるためにキリスト教倫理に基づく教育を重視しました。福沢諭吉の場合は、いろいろな論点がありますが、豊臣秀吉と徳川家康の統治術とその力量を、社会を動かす際の権力のバランス感覚として参照したのですね。ナイトも福沢も、思想としては統一的なものを構築しませんでしたが、宗教や文明を参照して、そこに社会秩序のバランスをとるカギを見つけようとしたのでしょう。  ナイトは、ミルトン・フリードマンを道徳的な見地から批判しました。ナイト的な保守は、フリードマン的な新自由主義の政策に対して反対するか、あるいは賛成するとしても、これを宗教的な観点から、いわゆる新保守主義の立場から包摂しようとするでしょう。  しかしこの種のバランスの思想を語るとき、バランスのある二つの異なる思想をそれぞれ体現するような「二大政党制」と、一つのバランスある思想に基づく「一党の継続的な支配体制」と、どちらが望ましいのか、ということが問題になるかもしれません。つまり、バランスのとり方には、二つのタイプがあり、この二つのタイプが拮抗するときに、社会はメタレベルで安定する、ということが起きるかもしれません。二大政党制のシステムです。 二大政党制の下で与党が交代・流動化すれば、さまざまなメリットが生まれます。権力の腐敗を防ぐだけでなく、司法の独立性を高めたり、政策アイディアを競う政治環境が生まれたりします。すると思想的には、なぜバランスのある思想が複数必要なのか、ということが問題となり、これは逆に言え

リベラリズムとケアの倫理 シノドス・トークラウンジのチャット質問にお答えします

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  シノドス・トークラウンジ、「一から分かる「リベラリズム」入門 思想の基礎知識( 2021 年 9 月 22 日 20:00-21:30 )山岡龍一(監訳者)+橋本努(聞き手)」で、余興の最後に以下のようなご質問をいただきました。   「今回の山岡先生のお話を伺う中で、以前のトークラウンジでご登壇された井上達夫さんがとっているのは普遍主義的リベラリズムであり、まさにフリーデンが本書では留保した立場であるかと思います。また、同じく先日ご登壇された小川公代さんの近著のテーマである「ケアの倫理」はある意味でリベラリズムが依拠する自立した個人を文学あるいは政治的な文脈において批判しており、『哲学の女王たち』で登場するミルの妻のこともお話の中で言及されていたと記憶しております。トークラウンジ各回でそれぞれの先生方のお話に対するコメントを伺うことができて大変勉強になってはいるのですが、それぞれの思想や立場を横に並べてみるとどのような景色が見えるのか、あるいはそれらを戦わせるとどうなるのか気になるところです。 可能であればシノドスの先生方のご見解を伺ってみたいと思うのですが、ご回答いただけましたら幸いです。」    ご質問いただき、ありがとうございます。当日は時間切れでお答えできず、申し訳ありませんでした。以下に簡単にお答えします。  フリーデンのように、リベラリズムの意味を歴史的な地層が重なるようなイメージで捉える立場は、特殊主義であります。第一層に 17 世紀の個人権があり、第二層に 18 世紀の市場的自由があり、第三層に 19 世紀の自己発展があり、云々、という重層的なイメージですが、これは英国の歴史に埋め込まれた自由の発展史といえるでしょう。他の多くの国では、このような自由の地層が不完全であり、 17 世紀に個人権の政治的運動があったわけでなく、 18 世紀に市場経済の自由とその思想が発達したわけでもありません。 リベラリズムは、個々の場面では普遍化要求をもった思想であったとしても、フリーデンの場合、それらの要求を歴史的な地層のなかに位置づけて、その全体の中で個々の要求の重要性を調整するという、そういう発想で多様なリベラリズムの特徴をまとめていくのでしょう。これは政治的にみて、山岡先生がおっしゃるように、プラグマティックな態度といえます。このようにすれば、互いに論争的な