■バランス感覚のある思想とは

 




 

桂木隆夫『保守思想とは何だろうか』筑摩書房

 

桂木隆夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 人間は脆弱で、不完全な存在であるにもかかわらず、それでもなんとか自由な社会を築くことができる。そのための道徳的基礎として、まず、「不完全な人間中心主義」と「可謬主義」の態度が必要で、これはつまり、あらゆる原理や真理への懐疑を出発点として、しかし未来に対する健全な懐疑を保持しながら、複数の原理や価値のバランスを追求するという態度ですね。こういう態度が必要だという考え方は、とりわけヒュームにみられるものであり、これを「保守的自由主義」と呼ぶわけですね。

 本書は全体として、フランク・ナイトと福沢諭吉の二人に焦点を当てていますが、ナイトの場合は、自由放任主義を排して、バランスをとるためにキリスト教倫理に基づく教育を重視しました。福沢諭吉の場合は、いろいろな論点がありますが、豊臣秀吉と徳川家康の統治術とその力量を、社会を動かす際の権力のバランス感覚として参照したのですね。ナイトも福沢も、思想としては統一的なものを構築しませんでしたが、宗教や文明を参照して、そこに社会秩序のバランスをとるカギを見つけようとしたのでしょう。

 ナイトは、ミルトン・フリードマンを道徳的な見地から批判しました。ナイト的な保守は、フリードマン的な新自由主義の政策に対して反対するか、あるいは賛成するとしても、これを宗教的な観点から、いわゆる新保守主義の立場から包摂しようとするでしょう。

 しかしこの種のバランスの思想を語るとき、バランスのある二つの異なる思想をそれぞれ体現するような「二大政党制」と、一つのバランスある思想に基づく「一党の継続的な支配体制」と、どちらが望ましいのか、ということが問題になるかもしれません。つまり、バランスのとり方には、二つのタイプがあり、この二つのタイプが拮抗するときに、社会はメタレベルで安定する、ということが起きるかもしれません。二大政党制のシステムです。

二大政党制の下で与党が交代・流動化すれば、さまざまなメリットが生まれます。権力の腐敗を防ぐだけでなく、司法の独立性を高めたり、政策アイディアを競う政治環境が生まれたりします。すると思想的には、なぜバランスのある思想が複数必要なのか、ということが問題となり、これは逆に言えば、なぜ政治的バランス感覚の中央値を探ることが望ましくないのか、という問題を提起するでしょう。

 原理主義的な立場をとることは避けるとして、私たちはお互い無知なのだから、それほどバランスある立場をとろうとしなくてもいい、むしろ互いに不完全であることを認めて、いろいろな緊張関係を含めて、互いに議論しほうが社会の発展のためにいいよ、というような発想が、メタレベルでは正しいように思います。

 もしこのような発想もまた「保守的自由主義」なのだとすれば、この保守的自由主義の理念の下で、政治的には「保守」と「リベラル」が、互いにバランス感覚をそれほど要求されずに争うことが、やはり求められるのではないかと思いました。あるいは言い方を変えれば、各政党は、互いに政治のバランス感覚を争う、ということになるのでしょう。しかしそれでも、私たちは一党の継続的な支配を求めていないということを(二大政党制のための制度基盤を求めているということを)表現するためには、どうすればいいのでしょう。このような点に関心を持ちました。


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