リベラリズムとケアの倫理 シノドス・トークラウンジのチャット質問にお答えします

 



シノドス・トークラウンジ、「一から分かる「リベラリズム」入門 思想の基礎知識(202192220:00-21:30)山岡龍一(監訳者)+橋本努(聞き手)」で、余興の最後に以下のようなご質問をいただきました。

 

「今回の山岡先生のお話を伺う中で、以前のトークラウンジでご登壇された井上達夫さんがとっているのは普遍主義的リベラリズムであり、まさにフリーデンが本書では留保した立場であるかと思います。また、同じく先日ご登壇された小川公代さんの近著のテーマである「ケアの倫理」はある意味でリベラリズムが依拠する自立した個人を文学あるいは政治的な文脈において批判しており、『哲学の女王たち』で登場するミルの妻のこともお話の中で言及されていたと記憶しております。トークラウンジ各回でそれぞれの先生方のお話に対するコメントを伺うことができて大変勉強になってはいるのですが、それぞれの思想や立場を横に並べてみるとどのような景色が見えるのか、あるいはそれらを戦わせるとどうなるのか気になるところです。

可能であればシノドスの先生方のご見解を伺ってみたいと思うのですが、ご回答いただけましたら幸いです。」

 

 ご質問いただき、ありがとうございます。当日は時間切れでお答えできず、申し訳ありませんでした。以下に簡単にお答えします。

 フリーデンのように、リベラリズムの意味を歴史的な地層が重なるようなイメージで捉える立場は、特殊主義であります。第一層に17世紀の個人権があり、第二層に18世紀の市場的自由があり、第三層に19世紀の自己発展があり、云々、という重層的なイメージですが、これは英国の歴史に埋め込まれた自由の発展史といえるでしょう。他の多くの国では、このような自由の地層が不完全であり、17世紀に個人権の政治的運動があったわけでなく、18世紀に市場経済の自由とその思想が発達したわけでもありません。

リベラリズムは、個々の場面では普遍化要求をもった思想であったとしても、フリーデンの場合、それらの要求を歴史的な地層のなかに位置づけて、その全体の中で個々の要求の重要性を調整するという、そういう発想で多様なリベラリズムの特徴をまとめていくのでしょう。これは政治的にみて、山岡先生がおっしゃるように、プラグマティックな態度といえます。このようにすれば、互いに論争的なリベラリストたちも、政治的にまとまるでしょう。

 これに対して、ミル、グリーン、ロールズ、井上達夫など、リベラリズムを普遍的な価値として要求する思想家たちは、思想というものが、プラグマティックな要求とそれが妥当する文脈を越えていく可能性を重視していると思います。思想は文脈を越えていきます。ですので、対立としては、歴史文脈主義+プラグマティズムと、普遍主義の違いがあると思います。

 もう一つ、「ケアの倫理」は、自立/自律した個人を前提とするリベラリズムを批判するのか、という点についてですが、似たような批判は、直近では、コミュニタリアニズムによってなされてきました。コミュニタリアニズムは、アトミズム(孤立した仕方で自立/自律する個人の理想)を批判します。しかしケアの立場は、必ずしもコミュニタリアン的ではなく、普遍化可能なケア社会を展望する場合もあります。

問題は、他者をケアする場合、その人が自立/自律できるようにケアするのか、それとも自立/自律しなくてもいいから、ケアの活動を通じて、コミュニティの共通価値の観点から包摂してあげるべきなのか。コミュニタリアンは、後者の立場に立ちます。あるいはコミュニタリアンは、自立/自律が、コミュニティのなかで可能であると考えます。

これに対して、普遍的なケアの立場は、ケアが自立/自律を支援する場合とそうでない場合を含めて、ケア活動全般の価値を高めていくべきだと考えます。(例えばケア・コレクティブ『ケア宣言』岡野八代監訳、大月書店、参照。)この場合、ケアの立場は、リベラリズムと重なる点もあれば、批判的な点もある、ということになるでしょう。

またリベラリズムは、必ずしも自律を重視しているわけではなく、ヒューマニズム型のリベラリズム(人々に対して自律を求めずに社会的に承認する立場)もあるので、この立場と普遍的なケアの立場は、大きく重なるだろうと思います。(リベラリズムにおける「自律型」と「ヒューマニズム型」の区別については、拙著『経済倫理=あにたは、なに主義?』の第三章で扱いました。)


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