■日本人の精神をしばる思想とは

 



 

橋爪大三郎『皇国日本とアメリカ大権』筑摩選書

 

橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

日本人の精神をしばっているものがある。

私たちは何となくその場の空気に従って、同調主義の態度をとってしまうことがありますが、その背後には、何があるのでしょうか。

それは「皇国主義」という、1930年代に作られたイデオロギーであるというわけですね。

このイデオロギーは、戦時中はマルクス主義や全体主義と対等な地位をもつ世界観として、日本人の意識を支配しました。そのバイブルとして編まれたのが『國體の本義』です。

本書の「あとがき」によると、佐藤優氏は『日本国家の神髄――禁書『國體の本義』を読み解く』(2014)を著しましたが、しかし橋爪先生はこの本に納得できなかった。

それで佐藤優氏のいわば「裏バージョン」として本書を書いたというのですね。興味深いです。『國體の本義』には、良いこともたくさん書いてあるのですが、しかしそれが危ないのはなぜか。その危なさを分析しないといけないわけですね。

「皇国主義」というネーミングは、実は正確なものではなく、日本人を支配していた思想には、名前がない。『國體の本義』によれば、その思想は、誰かが作ったものではなく、昔から日本人を支配していた世界観である、と主張されています。ところが名前はあえて付けられていないのですね。

しかしあえて言えば「皇国主義」になるのでしょう。ただこの言葉はあまりよいものではなく、というのもこの思想は、形を変えて、戦後の民主主義社会においても、流通しうるものであったからです。

 根本的には、「神勅」という考え方が問題であることが分かりました。

儒教の世界では、天が君主に対して「天命」を下し、君主はその天命を遂行できなければ失格とされます。しかし日本では、天照大神が天皇に神勅を下しますが、これはいわば丸投げであり、天皇がどんなことをしても、神勅の基準を満たしたのかどうか、事後的に判断する基準がないわけですね。これだと天皇の権力行使に倫理的な歯止めがありません。関連して、日本では中国と違って、親に対する「孝」と政治的リーダーに対する「忠」が矛盾することなどありえないとされます。日本では、「孝」と「忠」がつねに連続になっている。ここにも問題がありますね。

『國體の本義』は、戦時中の日本人のバイブルとなって、敗戦にいたるまで日本人の精神の支柱となった。その中心には、天皇機関説を排して、天皇親政説の立場をとるという、天皇思想があるわけですね。天皇の「意志」は何であるのか、それは分からないのに、あたかも「分かる」と解釈して、政府によってある方向性が示される。すると私たち日本人は、それに反論できなくなってしまうわけですね。

しかしこの皇国主義の考え方があったがゆえに、日本は急速に近代化したという側面もあるのですね。もし皇国主義がなければ、西洋文明に対抗しうる近代社会を短期間で築くことはできなかったのだと。

いずれにせよ、戦争に負けた日本は、一時的にせよ、アメリカの支配を受け入れて戦後の制度をデザインしたわけであり、これは天皇という超越的存在が、アメリカに取って代わったことを意味します。この「アメリカ親政」を克服するためには、サンフランシスコ講和条約を破棄して、日本はアメリカの支配から自由になる必要がある、ということになるかもしれませんが、もっと積極的に言えば、日本は国連中心主義のもとで、主権国家としての地位を築いていくべきである、ということになるかもしれません。

このようなマクロ的な問題の他に、ミクロな権力の次元では、政治的リーダーに対する「忠(ロイヤルティ)」をどのように理解すべきか、また「神勅」の関係をどのような関係に置き換えるべきか、という点をめぐって、私たちは議論を続けなければならないことを理解しました。

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