■フランクリンは新保守主義者だった

 



 

梅津順一『ヴェーバーとフランクリン』新教出版社

 

梅津順一さま、ご恵存賜りありがとうございました。

 

ベンジャミン・フランクリンをたんに「資本主義の精神を体現した人」とみるのではなく、資本主義の社会おいて、「公共善」を掲げて活動した人物としてみる必要がある、ということですね。

私も、これまで梅津先生のご研究からいろいろ学び、拙著『解読ウェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』』(講談社メチエ)のなかでも、同様の関心から議論を展開しました。

ウェーバーはこの「公共善」の問題について、「プロ倫」ではあえて関心から外していると思います。しかし、公共善の問題を踏まえてピューリタニズムの倫理を捉える必要がある。またフランクリンの市民宗教も、この観点から公共善の観点から捉える必要がある。これは「新保守主義」の思想につながる重要な視点であり、重要な思想史的文脈でもあります。

しかし、本書で描かれている「公共善」は、「国家」や「州」を単位とするのではなく、「自発的結社」を単位とするものですね。公共善の精神は、「自発的結社の精神」として描かれています。私は、バクスターにせよフランクリンにせよ、プロテスタンティズムにとって公共善の問題は、自発的結社を超えて、国家や州の単位で求めうる道徳の問題であると思いますが、もし自発的な結社に限定できるとすれば、その公共性は、反国家的なもの・対抗国家的なものになるでしょう。

 ですが、バクスターにしても、本書348頁で述べられているように、治政官や法律家になることが有益な天職であり、公共善に貢献するものとして称揚されています。349頁でも、公共善が国家に及ぶことが示されています。

 また、ベルシルヴェニアでフランクリンが提案した「民兵隊」の創設は、民間組織が国家機能の一部を代行するものとして提案されたものであり、これはたんに「国家から独立した自発的結社」として位置づけることはできないように見えます。これは思想理念としては、新保守主義、すなわち、国家機能の一部を、宗教の力を借りて、人々の道徳心を引き出しつつ運営するというものだと思います。国家の機能を否定する自発的結社ではなく、国家の機能を代行する自発的結社です。

 これらの点を強調するなら、プロテスタンティズムからフランクリンにいたる思想の流れを、新保守主義の思想的発展として解釈しうるのではないかと思いました。

 


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