■平和教育は「こんにちは」から



佐藤香織/馬場智一編『『存在の彼方へ』を解読する レヴィナス研究の現在』法政大学出版局

 

加藤里奈さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

レヴィナスの後期の著作『存在の彼方へ』をめぐって、多くのレヴィナス研究者が論稿を寄せています。レヴィナスの哲学には、研究を呼び起こす力がありますね。圧倒されます。

ご高論「人間の聖性と挨拶 教育を語り直すために」を拝読しました。

「あいさつする」というのは、オークショットのいう「社交体」を形成するためのコミュニケーションです。他者を支配せずに、自由でフラットな関係性を保持しながら、平和な社会を再生産する。そのための一つの知恵だと言えます。

しかしあいさつは、たんに社会を円滑にするためにあるのではありません。レヴィナスは、あいさつという振る舞いに、(1)あいさつする人が、他者を「存在として祝福する」契機と、(2)自分が真摯な存在であることを他者にさらけ出すという、リスクを負う契機を見出すのですね。そしてこのリスクに注目する。このリスクは、世俗の社会をこえる契機になるのだと。私たちはあいさつを交わすことで、自己と他者の「神聖性/聖性」を高め、聖なるものを共有する共同体を形成することができる。あいさつには、世俗を超えた要素があるのですね。

これに対して、「ようこそ(ウェルカム)」は、他者を歓待する言葉です。この言葉は、あいさつと違って、自己と他者の関係を、共同体の内部と外部に位置づけます。他者を歓待する場所は、「自分の居場所」です。他者はそこに迎え入れられます。

ところが「こんにちは」というあいさつは、このような共同体の内部と外部という境界を想定していません。かといって、あいさつは、共同体内部の関係に限定されるわけでもない。外国人でも、「こんにちは」という言葉を簡単に使うことができるので、言語共同体の親密圏は、開かれていきます。

人は、他者を認識する以前に、他者を気遣うことができるし、他者を祝福することができる。このような能力を発達させて、人々が互いに気遣い、互いに祝福し、互いに平和な関係を築いていくというのは、一つの理想ですね。共同体の境界をこえると同時に、世俗社会の境界をも超えていく。

そのような理想は、教育の課題でもあります。興味深いのは、レヴィナスによれば、人は「知らぬ間に吹き込まれた息を自らのことばにして吐き出すように」あいさつをする、というのですね(430)

人間の魂というのは、何か外部から吹き込まれたものである。そしてその魂が、自分という存在を突き動かして、他者にあいさつする。そのように仕向ける。このような魂を、どのように養うべきか。それが教育学の課題になるのだと。

1960年代の東京オリンピックの時期に、「世界の国からこんにちは」という曲がはやりました。日本社会の外部、共同体の外部から「こんにちは」ということが聞こえてくる。そしてその声に応答して、私たちは「こんにちは」と返す。こうしたあいさつの関係が、既存の社会を超えて、世界への道を開いていく。そのような希望がありました。

一方には、(1)共同体の外部の人と、あいさつの関係を築くべきであるという倫理がある。他方には、(2)共同体の内部の人とあいさつするときは、その人をたんに社会の構成員として承認するだけでなく、互いに気遣い、祝福しあうという、「強い自尊心」を涵養する方向に進むべきだ、という倫理があります。そしておそらくレヴィナスは、この二つの倫理を組み合わせて、共同体の外部の他者とも、私たちは「強い自尊心」を承認しあう関係を築くことができる、と考えたのではないでしょうか。

そうだとすると、ふだんあまり会話しない人とあいさつをすることに、大きな意味がありますね。そのようなあいさつのチャンスは、旅をしたり、グローバルな催し物に参加したりすることで、与えられるかもしれません。修学旅行で海外に行くとか、外国人と交流するとか、国際的な大会に参加するといったことが、平和教育の課題になるのではないか、と思いました。


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