■戦争責任の論理で移民の処遇問題を考える



横濱竜也『移民/難民の法哲学 ナショナリズムに向き合う』白水社

横濱竜也さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 移民・難民を、どの程度受け入れるべきか。そしてまた、どのように受け入れるべきか。この問題について、最新の理論を検討しつつ、ご自身の見解を展開しています。大いに学びました。

 最初に、これは移民・難民と直接は関係ありませんが、ナショナリズムの問題として、私たち戦後の世代は、戦争責任をどのように負うのか、という問題があります。本書の「はじめに」で論じられているので、私も少し考えてみます。

 ここで瀧川裕英さんの議論を紹介されていますが、それによれば、「国家には国家の非難責任や謝罪責任に対応する形で戦争被害者に賠償する責任が生じうるが、しかしながらその国家に属することにより国民が賠償責任を負うという議論は成り立たない」のだと。

もっとも戦後世代を含めて、日本国民は、国家が戦争の賠償責任を果たすために、納税する義務を負っています。これは、国家が戦争の賠償責任を果たすことを、私たち国民が、民主的な手続きを踏んで拒否することはできない、という意味でもあるでしょう。その意味では、政治的に選択肢が制約されています。

これはつまり、私たち国民は、戦争に対して、賠償責任ではないけれども、なんらかの政治的責任を負っている、ということですね。私たちが民主的に決定できることの範囲は、過去の世代の振る舞いによって制約されている。

 民主主義的な決定によって、戦争責任を放棄することはできます。しかしこれを制約しなければならない。これは、一つの政治的責任であり、つまり、もし国家が十分な賠償責任を果たさない場合には、私たち国民は、国家の振る舞いを批判して、国家よりも上位の国際機関や国際法に訴えて、賠償責任を果たすように行動する政治的義務ないし責任を負っている、ということではないでしょうか。

国家は、無責任な主体になるかもしれないので、国家に賠償責任を果たさせるために、国民は一人一人が自律して、政治的行動しなければならない。民主主義の社会においては、各人がそのような政治的責任を負う、ということではないでしょうか。正当な民主主義の社会は、このような主体を前提として成り立ちます。

とすれば、やはり戦後世代の国民は、実質的な意味で、賠償責任を負っている、ということになるのではないか。そのような解釈が成り立ちます。

 もっとも、このような政治責任は、私たちが現在の民主主義国家をどのように診断するかという解釈に依存していますので、普遍的な仕方で国民に賠償責任を負わせることはできないでしょう。その意味では、責任の負わせ方に限界があるでしょう。しかしそれでも、国家が十分に機能しなければ、国民に賠償責任が生じる、というのは、一つの現実的な考え方であると思いました。

 では移民・難民をどう処遇すべきか、という本書の問題ですが、この戦争に対する賠償責任の問題とパラレルに考えると、こういうことでしょう。

 国家は、移民や難民の処遇において、不適切な場合がある。国家がみずから掲げる理念に反して、移民や難民をうまく処遇できていない場合がある。そのような場合には、国民一人一人が、個々の文脈で、移民・難民をふさわしい仕方で処遇をすべきである。そのような責任が生じるのだ、と。

 本書で紹介されているのは、ステイクホルダー・シティズンシップ論です。これは最新の理論であり、まだ抽象的な段階なのですね。しかしこの理論に依拠して、移民や難民が、国家や地方社会に貢献している程度に合わせて、処遇する。そのような方向で、私たち市民が、移民や難民とのふさわしい関係を築いていく。そのような政治的責務があると考えられます。

 例えば10-20年の長期間で、移民のシティズンシップを段階的に認めていく。あるいは、もし移民の失業率が相対的に高い場合には、それは「選択運」の問題ではなく、社会的に包摂すべき道徳の問題であり、政府や地方自治体が対応すべきであると考える。こうしたことを考えていかねばなりません。

 興味深いのは、一時的な移民労働者の処遇をめぐる問題で、国境開放論者のカレンズと、これを退けるミラーの見解は、ほとんど一致するのですね。ミラーのようなナショナリストも、一時的な移民労働者の処遇を改善すべきだと考えている。ナショナリストは、移民・難民をどう受け入れるべきなのか。保守とリベラルの見解は、移民政策について、それほどかけ離れていないところに落ち着くかもしれません。そのような感触を得ました。

 

 

 

佐藤香織/馬場智一編『『存在の彼方へ』を解読する レヴィナス研究の現在』法政大学出版局

 

加藤里奈さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

レヴィナスの後期の著作『存在の彼方へ』をめぐって、多くのレヴィナス研究者が論稿を寄せた本です。レヴィナスの哲学には、多くの研究を呼び起こす力が備わっているのですね。圧倒されます。

ご高論「人間の聖性と挨拶 教育を語り直すために」を興味深く拝読しました。

「あいさつ」するというのは、オークショットのいう「社交体」を形成するためのコミュニケーションであり、他者を支配せずに、自由でフラットな関係性を保持しながら、平和な社会を再生産するための一つの知恵だと思います。

しかし、たんに社会生活を円滑にするために挨拶をするのではなく、レヴィナスは、挨拶という振る舞いに、(1)挨拶する人が他者を「存在として祝福する」契機と、(2)自分が真摯な存在であることを他者にさらけ出す、そういうリスクを負う契機を見出すのですね。いずれも、あいさつを交わすことで、自己と他者の「神聖性/聖性」を高め、聖なるものを共有する共同体を形成することに繋がります。

これに対して、「ようこそ(ウェルカム)」という言葉は、他者を歓待する一方で、その場所は自分の居場所であって、他者はそこに迎え入れられる存在だ、ということの表明になります。自己と他者の関係が、共同体の内部と外部に位置づけられます。

しかし「こんにちは」というあいさつは、このような共同体の内部と外部という境界を想定していませんね。自己と他者の関係がもっとフラットです。

もちろん、あいさつの言葉は、ある言語共同体の言葉なので、この言葉を使っている人と親密な関係を築くことになります。しかし外国人でも、「こんにちは」という言葉を簡単に使うことができるので、言語共同体の親密圏を開いていくことができるでしょう。

人間は、他者を認識する以前に、他者を気遣うことができるし、他者を祝福することができる。このような能力を発達させて、人々が互いに気遣い、互いに祝福し、互いに平和な関係を築いていくというのは、一つの理想ですね。そのような理想は、教育の課題にもなる。その際、興味深いのは、人は「知らぬ間に吹き込まれた息を自らのことばにして吐き出すように」、挨拶をする、ということなのですね(430)

人間の魂というのは、何か外部から吹き込まれたものである。そしてその魂が、自分という存在を突き動かして、他者にあいさつするように仕向ける。このような魂というものがある。この魂を、どのように養うべきかは、教育学の課題になります。

1960年代の東京オリンピックの時期に、「世界の国からこんにちは」という曲がはやりました。日本社会の外部、共同体の外部から「こんにちは」ということが聞こえてくる。そしてその声に応答して、私たちは「こんにちは」と返す。こうした挨拶の関係が、既存の社会を超えて、世界への道を開いていく。そのような希望がありました。

一方には、(1)共同体の外部の人と、あいさつの関係を築くべきであるという倫理がある。そして他方には、(2)共同体の内部の人とあいさつするときは、その人をたんに社会の構成員として承認するだけでなく、互いに気遣い、祝福しあうという、「強い自尊心」を涵養する方向に進むべきである。そのような倫理の要請があります。そしておそらくレヴィナスは、この二つの倫理を組み合わせて、共同体の外部の他者とも、私たちは「強い自尊心」を承認しあう関係を築くべきだ、と考えるのではないでしょうか。

しかしそうだとすると、ふだんあまり会話しない人とあいさつをする必要がありますね。そのような挨拶のチャンスは、旅をしたり、グローバルな催し物に参加したりすることで、与えられるかもしれません。修学旅行で海外に行くとか、外国人と交流するとか、国際的な大会に参加するといったことが、教育の課題になるのではないか、と思いました。

 

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