■ドーピングを禁止すべきか

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瀧川裕英編『問いかける法哲学』法律文化社

瀧川裕英さま、執筆者の皆さま、ご恵存賜りありがとうございました。

 現代のさまざまな問題に、法哲学が果敢に挑戦していくスリリングな本に仕上がっていると思います。
 スポーツにおいて、なぜドーピングが禁止されなければならないのか。
 サンデルのようなコミュニタリアンは、人間の美徳(卓越)の発揮は、人間が与えられた能力の範囲内で、最大のパフォーマンスを示すことにあると考えます。コミュニタリアニズムは、人々が自分の能力の範囲内で美徳(卓越)を発揮することを、政府が支援すべきだと考えます。
 これに対して、ドウォーキンのようなリベラルは、卓越や美徳という言葉を避けて、人間のさまざまな文化を再生産することが、リベラルな政府の課題であると考えます。例えば、ドウォーキンによれば、政府は大学を支援すべきです。というのも大学は、「言語文化の再生産と維持のために重要な社会的役割を果たしている」と考えられるからです。こうしたドウォーキンの発想を拡張すると、政府はスポーツという文化についても、これを維持するために支援すべきだ、ということになるでしょう。ただしドーピングは、スポーツという文化の維持や再生産に反するので、禁止されるでしょう。
 むろん、以上の二者の議論は、原則論であって、その根拠はそれほど強いものではないようにみえます。制度の運用においては、別の考慮すべき事柄がいろいろあるからです。
 倫理学者のジュリアン・サヴレスキュによれば、ドーピングの検査では、実際にはドーピングの事実が発覚する可能性は低いようです。検査が不十分な手続きであるなら、スポーツ選手たちは、ドーピングに手を染めるインセンティヴが大いにあるでしょう。
 そこで現実的な方法としては、ドーピングを解禁して、選手たちには健康状態に関する医師のモニタリングを義務づけるという仕方が考えられます。ジュリアン・サヴレスキュは、実際にそのような提案をしています。
しかしどうでしょう。医師の判断も、不十分な手続きにならないでしょうか。医師の判断にもバラツキがあるでしょう。
 技術的に考えると、将来的には検査で引っかからないような、しかも健康に害のないようなドーピングを開発する競争が進化して、ドーピングの意味が変化する可能性があります。人間の美徳や卓越への政府支援は、ある種のドーピングを認めるようになるかもしれませんね。
問題となるのは、「人間に与えられた能力」の定義です。人間に与えられた能力は、可能性としては無限のはずです。そうだとすれば、「政府は何を支援すべきか」という問題もまた、果てしない探求に開かれます。健康に害のないドーピングがあれば、その利用を認めるかどうか。コミュニタリアニズムは、この問題に「ノー」と答えるでしょう。これに対して潜在能力主義は「イエス」と答えるでしょう。


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