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■ジャーナリズムの経済倫理学

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畑仲哲雄『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』勁草書房 畑仲哲雄さま、鈴木クニエさま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 これは他に類のない内容ですね。貴重な書籍化です。ジャーナリズムの世界で生きていくために必要な道徳論議について、いろいろな事例を通じて、体系的に知ることができるようになっています。従来であれば、この種の議論は、ジャーナリストの業界で、先輩が後輩に教える暗黙知のような道徳論だったのですね。それが、さまざまな規範理論に照らして語られています。  例えば、ジャーナリストは、お金を支払ってインタビューしてもかまわないのかどうか。かつてデビッド・フロストは、お金を支払ってリチャード・ニクソンに独占インタビューを行い、ウォーターゲート事件に関する謝罪を引き出した。これは画期的で、映画化されてもいると。  イギリスの新聞『サンデー・タイムズ』が、サリドマイド薬害キャンペーンを報道した場合も、薬学者から情報を買っていたのだと。情報を買って、それでいい報道をして、社会的な利益が増すのであれば、お金を支払ってもいいようにみえますね。  しかし 2007 年に、イラン当局に身柄を拘束された兵士たちが、イギリスに帰国して、それでテレビや大衆紙の取材に応じる際に、多額の報酬を得ていたことが明らかになりました。そのときは批判が相次ぎ、国防省は、兵士に対して報酬の受け取りを禁止しました。  こうしたお金の問題に対する対処法の一つは、取材の「仕入れ価格」を記事ごとに明確に記す(あるいはネットで公開する)ことかもしれません。  しかしお金を支払うと、インタビューに答える側は、そのメディアに迎合して、情報をゆがめて伝えてしまう可能性もありますね。「お金をあげるから、こういうことを話してほしい」というメディアの要請を受け入れてしまうかもしれません。   1994 年の朝日新聞の記事によれば、日本のテレビ局は、プロ野球の試合後に、監督や選手たちにコメントをいただく代わりに、謝礼を支払っていたそうです。有名選手には 5 万円。試合がある日は毎日支払われるわけですから、それで生活が成り立つ選手もいたわけですね。はたしてプロ野球の選手は、インタビューに対して謝礼を受け取ってよいのかどうか。この慣行については、人々の意見は分かれるかもしれ

■大学教員の解雇を無効とする判決について

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寄川条路編『大学における〈学問・教育・表現の自由〉を問う』法律文化社 志田陽子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  「大学当局が教授に無断で授業を録音し、無断録音を告発した教授を解雇した」という事件について検討した本です。   2016 年 10 月、明治学院大学は、教養センターの教授を解雇した。ところがその後、裁判で敗訴して、この解雇は無効になった。どこに法的な問題があったのか。志田先生の担当された章の論述が、詳細に示しています。 この論述は、かなり時間をかけて、解雇の無効性の根拠を体系的に示しています。不当解雇された先生を救うために、周到な論理が展開されています。この論述の営みに、心より敬意を表します。  いったい同大学では、慣例的に、教員の許可を得ずに講義を秘密録音(盗聴)していたというのですね。そしてそれを告発した教員を解雇した。大学の権威やキリスト教を批判から守るため、というのがその行為の理由であったようですが、裁判では結局、和解は成立せず、 2018 年 6 月 28 日に大学側の敗訴が確定しました。  前例として、鹿児島国際大学における教員解雇の事件がありました。福岡高判判例集 (2006 年 10 月 27 日 ) にその記録が収録されています。一審・二審とも、大学側の解雇は無効とされ、最高裁は上告を棄却しました。この事件では、教授三名が懲戒解雇されたのですが、大学院・新学部開設をめぐって、教員のあいだにさまざまな意見があるのは当然であり、改革事業に反対意見を述べたとしても、それをもって改革事業の妨害を狙ったということはできない、という趣旨の判決がでました。 「学問の自由」「享受の自由」「表現の自由」をめぐって、批判者にも耳を傾け、事務手続きにおいても金銭においても相応のコストを支払い、寛容に対応する。このような営みの大切さが、裁判を通じてあらためて確認されたのですね。

■経済学が扱える善は限定的なものにすぎない

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ピグー『財政学』本郷亮訳、名古屋大学出版会 本郷亮さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 日本において、ピグー研究を着実に深化させる重要な翻訳であると思います。本書のご刊行を心よりお喜び申し上げます。 この本には三つの論文が追加で訳出されていて、なかでも「善の問題」 (1908) は、短い論文ですが重要で、訳者解題においては、とくに紙幅を割いて検討されていますね。この本郷様の解説における分析がすぐれていると思いました。  ピグーは、 T.H. グリーンの理想主義の立場 ( 事物の性質からの演繹的・先験的推論による善の認識 ) を批判して、「善」は直接的に近くできるものだと考えるのですね。しかし他方で、ピグーはムアの倫理学に対しても批判的で、ムアの「有機的善」論に対して批判している。ピグーは、「善の多変数関数論」という理論を提起します。善とは、快楽、善意、愛情、人が描く理想の性質、人や事物のうちに見いだされる性質に対する姿勢、人が自らのために定めた目標に対する情熱、という変数から、説明できるとみなすわけですね。  すると例えば、快楽を増大させることがつねに善を増大させるわけではないとか、愛情や情熱はそれにふさわしくないものに対して向けられる場合には善を減少させるとか、快楽がマイナスの場合でも善がプラスになる場合があるとか、いろいろなインプリケーションが導かれます。  おそらく快楽主義的な功利主義の観点からすれば、そうした「善なるもの」も、すべて高次の意味での快楽に還元できるのかもしれません。しかし、実際の日常言語を用いて「善」の総量を高めようとする場合には、このような多変数のあいだの調整を検討する必要があるでしょうね。ただ人間は「善」を最大化するように行為するのかと言えば、そうではないでしょうし、社会的にみて各人の善を最大化することが社会的な目標になるのかといえば、それも争われるでしょう。  いずれにせよ、経済学で扱うことのできる「善」は、貨幣的に計算できるものに限定されるわけであり、この点でピグーは、自分の学問が限定的なものであることを自覚しています。この限定を超えて、倫理学的な議論をする場合には、そして倫理的な観点から経済的善を解釈する場合には、諸変数の価値をどのように捉えるべきかについての規範理論が必

■私的な悪徳こそ、公益を生み出す

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バーナード・マンデヴィル『蜂の寓話 私悪は公益なり』鈴木信雄訳、日本経済評論社 鈴木信雄さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  古典の新訳を刊行されましたことを、心よりお喜び申し上げます。 とてもいい訳文であり、またカバーのデザインや字体もいいですね。格調高い古典の趣があります。本訳書は、『蜂の寓話』の前半であり、これから後半を訳されるということですが、さらに『蜂の寓話』のあとに続く、マンデヴィルの An Enquiry into the Origin of Honour, and the Usefulness of Christianity in War(1732) も、ぜひ翻訳をご検討いただけると嬉しいです。  「理性」や「徳」は、人間をうまく導くのかというと、そうではないわけですね。むしろその代用物として、「承認願望」や「自己称賛」や「競争心(エミュレーション)」を用いた方が、人間をまっとうな存在にするのであるし、また国家や社会も真っ当なものになる。これが 17-18 世紀の啓蒙思想家たちの発想でした。 これらは人間の「プライド」に関係します。プライドという情念は、現代人にとっては、他人に追従しないとか、他人を羨望しないとか、貪欲な態度をみせない、といった意味になるでしょう。しかし、当時の社会では反対に、プライドは、すぐれた他者に承認されてこそ獲得しうる。だから承認を求めて、他人に追従したり他人を羨望したりすることと結びついています。プライドは、現代の用語法では、自尊心というよりも、公共的な美徳といったほうがいいかもしれません。  公共的な場面で美徳を発揮するためには、私的な場面で貪欲でなければならないということですね。他人を羨望して、他人を凌ぐ欲望をもたなければならない。そういう欲望をマンデヴィルは「悪徳」と呼ぶわけですね。悪徳こそが、公共的な美徳を開花させると同時に、国の繁栄をもたらすのであると。  マンデヴィルの面白い点は、個人が悪徳によって動機づけられるとして、それぞれの個人が自分をどのように道徳的に律しているのかについて、あまり考察していないという点です。個人の内面を律する道徳律とか、あるいは「美」とか「正」といったものを、マンデヴィルは不確かなものだと思っている。そのようなものは社会を律

■チャールズ・テイラーを知るためのすぐれた解説書

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ルース・アビィ『チャールズ・テイラーの思想』梅川佳子訳、名古屋大学出版会 梅川佳子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 とてもいい翻訳であります !  十分な時間をかけて、深い理解に到達しています。日本語表現も、とても練られていると思います。 内容としては、この本は、テイラーの思想を知るうえで、コンパクトに思想のエッセンスをまとめた、しかも論述のストーリー展開としても興味深く読めるという、すぐれた作品ですね。 著者のアビィは、テイラーの弟子だったのですね。このように、一人の思想家のエッセンスを、優等生的にまとめて論述するという職人的な能力は、社会思想研究の分野においてはしても重要です。アビィのこの本は、お手本のようなものだと感じました。 日本でも、とりわけ大学院生にとっては、こういう手法の研究が、一つの目指すべき理想なのでしょね。この本は、原書は 2000 年に書かれたにもかかわらず、まったく色あせていないという点も、すばらしいと思いました。  興味深い点は多々ありましたが、価値をめぐる議論について、以下に私の感想を書きます。  テイラーによれば、「強評価 (strong evaluation) 」は、「自らの強評価を基礎づける道徳的判断について自覚することもできるが、かならずしもそうする必要はない」というのですね (28) 。強評価された善は、その個人にとって、自らの理解の暗黙の背景の一部として存在しうるのだと。もちろん、アビィも指摘するように、強評価のための善の基準は一人の個人のなかでも多元的でありうるし、また人は、自分の強評価の基準に従って行為しない場合もあるでしょう。しかしそうしたことはとりあえず脇において、まず、善というのは、私たちが自分の意志を通じて望むから善になるのではなく、むしろ「願望」の基準であり (34) 、たとえ望んでいなくても(意志していなくても)、私たちが望むべきであると思われるようなものだ、というのですね。善は意志から独立した、他律性をもっているのだと。そのような超越性の次元をもっていることは、なるほど確かに認められるでしょう。しかしその基準が多元的で拮抗する場合には、やはり一つの善の基準を選ぶとか、あるいは諸々の善の基準を秩序立てるといった思考が必要になるでしょうね。  テ

■地球温暖化を防ぐための正義

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宇佐美誠編『気候正義 地球温暖化に立ち向かう規範理論』勁草書房 宇佐美誠さま、著者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。  第一章のヘンリー・シューの論文は、初出が 1993 年ということですが、この時点ですでに二酸化炭素排出量の問題は、「 1990 年よりもはるかに低いレヴェルに削減しなければならない」と提言されています。 1990 年度の水準を 60% 下回る水準にしなければならないのだと。この数字がかりに誇張であるとしても、 1990 年の水準を 20% 下回る水準にまでもっていかなければならない、というのですね。  しかも二酸化炭素の排出量の問題は、過去の排出量によって、すでに新たな問題が生じることが予想されている、ということですから、いまからまったく二酸化炭素を排出しなくなったとしても、気候変動は起きるというのですね。  これはほとんど絶望的なかたちで問題が提起されていますね。 それでもなんとか実効的な仕方で対処するには、どんな方法があるのか。これは行政的にみて、どこまで実行可能性が高い方法があるのか、また調整可能性が高い方法があるのか、という問いと密接に結びついています。 しかし、哲学的に本質的・根本的な問題を立てる場合、二酸化炭素排出量の問題は、可能なかぎり排出するべきではなく、また過去に排出した国は、責めを負うべきである、ということになるでしょう。 そんなことを言っても、日本を含めて大国は、過去の排出量に対して責任を負うことはしないでしょうね。すでにここに大きな問題があるように思います。  気候問題に対して、私たちが個人として、日常生活の中で実践できるささやかなこと、あるいは政府が国際的な取り決めに参加するかたちで対策できること、そのようなことはぜひやったほうがいい。しかしそれを実行した場合にも、私たちは問題の根本的な解決にほとんど応じることができない。そのギャップに対して、私たちはもう、倫理的な攻めを負うほかないでしょう。そしてこの倫理的な次元の問題に敏感な社会運動家は、ウェーバーのいう「預言者」類型の人のように、私たちの日常生活を批判し、狂気をもって「本当に正常な状態」たる問題の解決を訴えるでしょう。これは狂気ではないのです。  このような観点から理解すると、排出量の「過去準拠