■地球温暖化を防ぐための正義





宇佐美誠編『気候正義 地球温暖化に立ち向かう規範理論』勁草書房

宇佐美誠さま、著者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 第一章のヘンリー・シューの論文は、初出が1993年ということですが、この時点ですでに二酸化炭素排出量の問題は、「1990年よりもはるかに低いレヴェルに削減しなければならない」と提言されています。1990年度の水準を60%下回る水準にしなければならないのだと。この数字がかりに誇張であるとしても、1990年の水準を20%下回る水準にまでもっていかなければならない、というのですね。
 しかも二酸化炭素の排出量の問題は、過去の排出量によって、すでに新たな問題が生じることが予想されている、ということですから、いまからまったく二酸化炭素を排出しなくなったとしても、気候変動は起きるというのですね。
 これはほとんど絶望的なかたちで問題が提起されていますね。
それでもなんとか実効的な仕方で対処するには、どんな方法があるのか。これは行政的にみて、どこまで実行可能性が高い方法があるのか、また調整可能性が高い方法があるのか、という問いと密接に結びついています。
しかし、哲学的に本質的・根本的な問題を立てる場合、二酸化炭素排出量の問題は、可能なかぎり排出するべきではなく、また過去に排出した国は、責めを負うべきである、ということになるでしょう。
そんなことを言っても、日本を含めて大国は、過去の排出量に対して責任を負うことはしないでしょうね。すでにここに大きな問題があるように思います。
 気候問題に対して、私たちが個人として、日常生活の中で実践できるささやかなこと、あるいは政府が国際的な取り決めに参加するかたちで対策できること、そのようなことはぜひやったほうがいい。しかしそれを実行した場合にも、私たちは問題の根本的な解決にほとんど応じることができない。そのギャップに対して、私たちはもう、倫理的な攻めを負うほかないでしょう。そしてこの倫理的な次元の問題に敏感な社会運動家は、ウェーバーのいう「預言者」類型の人のように、私たちの日常生活を批判し、狂気をもって「本当に正常な状態」たる問題の解決を訴えるでしょう。これは狂気ではないのです。
 このような観点から理解すると、排出量の「過去準拠説」は、たとえ実効的にさまざまな問題を抱えるとしても、採用すべきだと思いました。
 一人当たりの排出量を平等にすべきかどうかについて、地球の寒暖差に応じた地域差を認めるべきだとのことですが、しかし自然状態はともかく、社会状態に関しては、例えばインドとアメリカを比較して、アメリカ人の方が2012年の段階で一人当たり10倍の二酸化炭素を排出しているという事態に対しては、やはり何らかの平等排出主義に基づいて是正する必要があるようにみえます。地域差に応じた排出量の最適化のほうがもっと難しい計算を要求することになり、実際にはその計算方法に合意を得ることのほうが難しいので、ラフに平等な計算をするしかないでしょう。
 基底的ニーズに応じて排出量を計算する場合にも、そのニーズは、現在の各国の経済的・文化的な水準を前提とすることになりますから、将来的に経済が発展して、インド人もアメリカ人と同じニーズをもつようになるだろうということまで考慮に入れるなら、ニーズの計算は、最も富裕な国のニーズを基準とすることになります。それをどこかで限定せざるを得ないわけですが、その限定の水準は、なかなか合意を得られるものではないでしょうね。やはりアメリカや日本が、現在の基本的ニーズの基準を下げるか、人口を減少させるしかない、という調整の仕方になるのではないでしょうか。もちろんこれができないから排出権取引政策が正当化されるわけですが。
 最後にもう一つ。エミが1歳で、エリカが25歳でそれぞれ夭折する場合と、エミが2歳で、エリカが21.5歳で死亡する場合を比較した場合、前者のほうが望ましいというふうには、直観的には思いませんでした。一歳から二歳まで生きる一年間の方が、21.5歳から25歳まで生きることの重みよりも、直観的には重いと思いました。

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