■経済学が扱える善は限定的なものにすぎない







ピグー『財政学』本郷亮訳、名古屋大学出版会

本郷亮さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

日本において、ピグー研究を着実に深化させる重要な翻訳であると思います。本書のご刊行を心よりお喜び申し上げます。
この本には三つの論文が追加で訳出されていて、なかでも「善の問題」(1908)は、短い論文ですが重要で、訳者解題においては、とくに紙幅を割いて検討されていますね。この本郷様の解説における分析がすぐれていると思いました。
 ピグーは、T.H.グリーンの理想主義の立場(事物の性質からの演繹的・先験的推論による善の認識)を批判して、「善」は直接的に近くできるものだと考えるのですね。しかし他方で、ピグーはムアの倫理学に対しても批判的で、ムアの「有機的善」論に対して批判している。ピグーは、「善の多変数関数論」という理論を提起します。善とは、快楽、善意、愛情、人が描く理想の性質、人や事物のうちに見いだされる性質に対する姿勢、人が自らのために定めた目標に対する情熱、という変数から、説明できるとみなすわけですね。
 すると例えば、快楽を増大させることがつねに善を増大させるわけではないとか、愛情や情熱はそれにふさわしくないものに対して向けられる場合には善を減少させるとか、快楽がマイナスの場合でも善がプラスになる場合があるとか、いろいろなインプリケーションが導かれます。
 おそらく快楽主義的な功利主義の観点からすれば、そうした「善なるもの」も、すべて高次の意味での快楽に還元できるのかもしれません。しかし、実際の日常言語を用いて「善」の総量を高めようとする場合には、このような多変数のあいだの調整を検討する必要があるでしょうね。ただ人間は「善」を最大化するように行為するのかと言えば、そうではないでしょうし、社会的にみて各人の善を最大化することが社会的な目標になるのかといえば、それも争われるでしょう。
 いずれにせよ、経済学で扱うことのできる「善」は、貨幣的に計算できるものに限定されるわけであり、この点でピグーは、自分の学問が限定的なものであることを自覚しています。この限定を超えて、倫理学的な議論をする場合には、そして倫理的な観点から経済的善を解釈する場合には、諸変数の価値をどのように捉えるべきかについての規範理論が必要になってくるでしょう。事実問題として、善の諸変数を公平に扱って計算するだけの能力を人間は持たないので、大雑把であるとはいえ、私たちは規範的な解釈枠組みを用いて議論する必要があると思いました。


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