■チャールズ・テイラーを知るためのすぐれた解説書





ルース・アビィ『チャールズ・テイラーの思想』梅川佳子訳、名古屋大学出版会

梅川佳子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

とてもいい翻訳であります! 十分な時間をかけて、深い理解に到達しています。日本語表現も、とても練られていると思います。
内容としては、この本は、テイラーの思想を知るうえで、コンパクトに思想のエッセンスをまとめた、しかも論述のストーリー展開としても興味深く読めるという、すぐれた作品ですね。
著者のアビィは、テイラーの弟子だったのですね。このように、一人の思想家のエッセンスを、優等生的にまとめて論述するという職人的な能力は、社会思想研究の分野においてはしても重要です。アビィのこの本は、お手本のようなものだと感じました。
日本でも、とりわけ大学院生にとっては、こういう手法の研究が、一つの目指すべき理想なのでしょね。この本は、原書は2000年に書かれたにもかかわらず、まったく色あせていないという点も、すばらしいと思いました。
 興味深い点は多々ありましたが、価値をめぐる議論について、以下に私の感想を書きます。
 テイラーによれば、「強評価(strong evaluation)」は、「自らの強評価を基礎づける道徳的判断について自覚することもできるが、かならずしもそうする必要はない」というのですね(28)。強評価された善は、その個人にとって、自らの理解の暗黙の背景の一部として存在しうるのだと。もちろん、アビィも指摘するように、強評価のための善の基準は一人の個人のなかでも多元的でありうるし、また人は、自分の強評価の基準に従って行為しない場合もあるでしょう。しかしそうしたことはとりあえず脇において、まず、善というのは、私たちが自分の意志を通じて望むから善になるのではなく、むしろ「願望」の基準であり(34)、たとえ望んでいなくても(意志していなくても)、私たちが望むべきであると思われるようなものだ、というのですね。善は意志から独立した、他律性をもっているのだと。そのような超越性の次元をもっていることは、なるほど確かに認められるでしょう。しかしその基準が多元的で拮抗する場合には、やはり一つの善の基準を選ぶとか、あるいは諸々の善の基準を秩序立てるといった思考が必要になるでしょうね。
 テイラーはそこで、キリスト教やイスラム教やマルクス主義などの「フレームワーク」について語り、私たちは、フレームワークなしに行動することはできない、と言います。強い質的な区別を伴う「地平」すなわち「フレームワーク」の外に出てしまうと、人間は人格として傷つくのだ、というのですね。(45)これはいったい、どういうことでしょうか?
 テイラーによれば、善には「高位善(hypergoods)」という、最上位の善があります。この最上位の善は、しかも、その他の善の序列をつける役割も持っています。しかしルビィによれば、多くの人は、この「高位善」の意識をもつことなく暮らしているし、自分の高位善がなんであるかを理解することなく道徳生活は実践できる一方で、自己内部の善の多元主義に悩むというのも、リアルな道徳現象であると指摘しています。もし高位善を明確にしようとすると、その人は非常に誠実に生きる必要が生じ、「自己を傷つける危険性をもたらす」(49)というわけですね。
 いずれにせよ、強評価というものが、実際には多くの人々によって秩序付けられていないという現実があるにもかかわらず、テイラーは、国家ないし共同体というものが、ある種の高位善やフレームワークに基づいて、一定の善の序列を明確にして統治することに、賛成するわけですね。あるいはそのようなコミュニティに正当な位置を与えるような連邦制がいい、というわけですね。
なぜその方がいいのか。テイラーおよびアビィの哲学的な議論によれば、「それはそのほうが、コミュニティに包摂されている各人の人格を傷つけないから」ということになるでしょう。この「傷つける」ということが、本書において中核的な意義をもっているようにみえました。しかし、人々の人格を傷つけないように配慮することの政治的コストは、大きなものになるでしょうし、そもそも人々にとっては、政治的な次元で高位の善を明確にしないほうが、傷つかないという人も多いのではないでしょうか。これはコミュニタリアニズムの本質にかかわる論点だと思います。


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