■私的な悪徳こそ、公益を生み出す





バーナード・マンデヴィル『蜂の寓話 私悪は公益なり』鈴木信雄訳、日本経済評論社

鈴木信雄さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 古典の新訳を刊行されましたことを、心よりお喜び申し上げます。
とてもいい訳文であり、またカバーのデザインや字体もいいですね。格調高い古典の趣があります。本訳書は、『蜂の寓話』の前半であり、これから後半を訳されるということですが、さらに『蜂の寓話』のあとに続く、マンデヴィルのAn Enquiry into the Origin of Honour, and the Usefulness of Christianity in War(1732)も、ぜひ翻訳をご検討いただけると嬉しいです。
 「理性」や「徳」は、人間をうまく導くのかというと、そうではないわけですね。むしろその代用物として、「承認願望」や「自己称賛」や「競争心(エミュレーション)」を用いた方が、人間をまっとうな存在にするのであるし、また国家や社会も真っ当なものになる。これが17-18世紀の啓蒙思想家たちの発想でした。
これらは人間の「プライド」に関係します。プライドという情念は、現代人にとっては、他人に追従しないとか、他人を羨望しないとか、貪欲な態度をみせない、といった意味になるでしょう。しかし、当時の社会では反対に、プライドは、すぐれた他者に承認されてこそ獲得しうる。だから承認を求めて、他人に追従したり他人を羨望したりすることと結びついています。プライドは、現代の用語法では、自尊心というよりも、公共的な美徳といったほうがいいかもしれません。
 公共的な場面で美徳を発揮するためには、私的な場面で貪欲でなければならないということですね。他人を羨望して、他人を凌ぐ欲望をもたなければならない。そういう欲望をマンデヴィルは「悪徳」と呼ぶわけですね。悪徳こそが、公共的な美徳を開花させると同時に、国の繁栄をもたらすのであると。
 マンデヴィルの面白い点は、個人が悪徳によって動機づけられるとして、それぞれの個人が自分をどのように道徳的に律しているのかについて、あまり考察していないという点です。個人の内面を律する道徳律とか、あるいは「美」とか「正」といったものを、マンデヴィルは不確かなものだと思っている。そのようなものは社会を律する原理たりえないし、また社会を駆動する原理でもない、というわけですね。社会を駆動(ドライブ)する要因はなにか。これが分かれば、各人が自分をどのように律するかは、二の次の問題になるのですね。


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