■ロールズ型リベラリズムを超えて

 




 

田中将人『ロールズの政治哲学 差異の神義論=正義論』風行社

 

 田中将人さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 きわめて周到で、かつ独自の視点から評価したロールズの理論と哲学の再構成であると思います。文体から、情熱が伝わってきます。このようなすばらしい研究をまとめられましたことに、心から敬意を表します。

 神義論という観点から、ロールズの格差原理を位置づけるという着眼点は、なるほどと思いました。ルソーの哲学も、カッシーラーのルソー読解においては、神義論の観点から、説得的な仕方で解釈できるというのですね。そのようなスタイルの読みをロールズにも適用できると。

ロールズの神義論は、ルソー的な神義論ではなく、ヘーゲル的な弁証法と「和解」の理念によって解釈できる。このように解釈すると、チャールズ・テイラーのヘーゲル解釈、すなわち「和解」概念の解釈による社会の弁証法的な構成に、近いものがあると思いました。

テイラー的な(コミュニタリアン的な)「和解」と、ロールズの格差原理による差異の和解は、いずれもヘーゲル的な和解であるとみることができます。

 むろんコミュニタリアニズムは、格差原理を超える別の共同体主義的な原理を立てるかもしれません。コミュニタリアンたちはしかし、具体的に格差をどうすべきであるのかについて、明確な規範理論を打ち立てているわけではありません。

問題となるのは、基本財の供給(分配)をこえて、政府は人間の幸福を満たすための政策をするべきかどうか、するとしたらどのようにすべきか、という点です。

 ご高著では、「自由のリベラリズム」と「幸福のリベラリズム」という対比、それから「卓越のリベラリズム」を含めて、三つのタイプのリベラリズムが示され、比較検討されています。

ロールズの場合、所得の格差は、それ自体としては労働へのインセンティヴを与えることから、正当なものとみなされます。この考え方はすでに、「繁栄」という基準を重視するリベラリズムであり、その意味で「幸福のリベラリズム」であるともいえます。ロールズは、自由のリベラリズムの立場をとっているようで、実は「繁栄のリベラリズム」の立場をとっている。

すると重要な区別は、「繁栄」と「主観的幸福」と「卓越」の三つであり、どれを重視するのか。いずれもリベラリズムと両立する価値であり、リベラリズムはこれら三つの価値によって、分類することができます。あるいはここに、「繁栄を重視しないリベラリズム」も類型に加えてもいいかもしれません。またいずれも重視しない原理的なリベラリズムを加えてもいいかもしれません。

むろん、「繁栄」と「主観的幸福」と「卓越」の三つは、それほど明確に区別できるわけではなく、どのような繁栄か、どのような主観的幸福か、どのような卓越か、をめぐって、それぞれの理念の内部でも論争的な問題が生じるでしょう。さらに、繁栄だけ考慮に入れて、主観的幸福と卓越については考慮しないという発想も、困難を抱えるかもしれません。

 ここで、二つの問題を考えてみます。

一つは、大学や公立図書館やオリンピックに、国家は公的支援(助成)をなすべきかどうかという問題です。ロールズの場合、答えは消極的なものになるでしょう。もし国家がこれらの機関を運営したり助成したりすると、特定の「善き生」を支援することになってしまう。だから望ましくない、というのがロールズの議論でしょう。

しかしこれらの機関への公的助成や運営を、「主観的幸福」や「卓越」の観点をもったリベラリズムは擁護できるでしょう。おそらく「繁栄」の観点からも擁護できるでしょう。

 ロールズの場合、特定の善き生を政府が支援することは、論争的であるから、そのような論争を避けて、支援しないことが望ましいと発想します。しかし現在社会において、これらの機関を支援すべきではないという立場は、アメリカにおいてさえ、きわめて論争的な立場です。

リベラリズムは、繁栄や主観的幸福や卓越について、どのように捉えるべきなのか。「多様な繁栄」「多元的な主観的幸福の実現」「多元的な卓越の実現」といった理念を掲げるリベラリズムは、いかなる繁栄・幸福・卓越にもコミットメントしないリベラリズムの立場よりも、現実的であり、また論争的ではない(合意の調達可能性が高い)ようにみえます。また、相互尊重の理念にもかなっているように見えます。

 もう一つの問題は、基本財を共通のニーズという観点から正当化する場合、社会の繁栄とともにこのニーズをどのように拡張するか、という問題です。例えば、幼児教育や高校教育などは、私たちの社会でしだいに基本的なニーズとみなされるようになってきました。こうしたニーズは、誰がどのように提起し、そしてまた人々のあいだで合意形成されるのでしょうか。繁栄や主観的幸福や卓越を重視しないリベラリズムは、人間の基本的なニーズの拡大を、説得力のある仕方で主張できるでしょうか。ある程度まではできるかもしれません。しかしそれ以上になると、難しい。

私はこうした基本的ニーズの拡張が、人間の「卓越」という価値に照らして提起される必要があると考えます。例えば「市民の市民性」は、より市民的な生き方の理想を含んでいます。例えば、公共的な空間で討議する能力の(最低限を超えた)よりすぐれた発揮は、市民性のすぐれた発揮です。このような発揮の機会を、私たちは基本財の拡張されたニーズとして、求めることができます。

あるいはまた、公立図書館を拡張された基本的なニーズとして国家が提供する場合、図書館を利用するという人々のニーズ充足は、同時に、人々に対して「よりすぐれた卓越のための機会」を与えることにもなります。ニーズと卓越は、この場合、相反するものではなく、密接に結びついていると考えられます。そして多くの場合、ニーズと卓越は、結びついていると考えられます。

 「自由」と「幸福」と「卓越」を区別して、「自由」の立場から「幸福」と「卓越」を退けるよりも、むしろ「基本財のニーズ」と「それ以外のニーズ」を分けて、しかし基本財のニーズについても「卓越」が問題になる以上、基底的には卓越の理念を含めた「ウェルビイング」論を立てる必要がある。そのような哲学がなければ、社会の繁栄とともに、基本財のニーズをどのように拡張すべきかについて、有効な規範理論を提供できないのではないか。ここにロールズの議論の制約があるように見えます。

 しかしロールズをよく読めば、以上の議論は克服可能かもしれません。


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