■気候変動問題と「法の支配」
那須耕介様、ご恵存賜り、ありがとうございました。
法哲学に関する大学生向けテキストです。
法の支配の理念が、現代の法哲学において問題になるのは、この本の最後の二つの章で論じられるように、熟議民主主義や闘技民主主義の正統性と、どのように折り合いをつけるか、ということのようですね。
例えば、気候変動をめぐって、2020年10月に、日本でも菅政権が、IPCCの2030年までの温室効果ガスの削減目標を基本的に目指すと表明しました。これは熟議に基づく判断ではありませんが、もし熟議民主主義を組織化したとすれば、一つのありうる政治的表明にもなったでしょう。
しかし問題となるのは、政策の手段です。気候変動をめぐるこのような目標を達成するためには、政府はかなり強権的な仕方で様々な政策を打ち出さなければなりません。フラーがリスト化する「法の支配」のための道徳(ないし指針)を守れないような仕方で立法するしかないようにみえます。
例えば、牛肉の消費によって、どれだけ温室効果ガスが出るのか。その値を正確に計算することは難しいですが、とにかく立法化して、目標達成のために牛肉の消費を抑える必要があるでしょう。2030年までの目標だからです。
すると法律は、場当たり的なものとなるでしょう。そしてその都度科学的な根拠が出るたびに修正していく。そのように進めるしか、目標を達成する手段がないように見えます。立法に際して、一般性、明確性、無矛盾性、実行可能性、安定性といった法の支配の要件を満たすことは難しいようにみえます。
このように、法の支配の要件を満たさずに、私たちは環境問題を解決すべきなのかどうか。もし人々が、熟議をした結果として、そのような政治を正統化するなら、法の支配は衰退したことになります。
いまのところ、このような発想で気候変動を防ぐための諸政策を正統化する議論は、支配的ではありません。しかし、私たちに突きつけられている問題は、「法の支配の下で、気候変動問題への対応を切り詰めるか、それとも気候変動を避けるために、法の支配を切り詰めて政治権力の強権化(全体主義化)を(たとえ嫌でも)認め、必要な政策を可能なかぎりすべて実施するか」ということではないでしょうか。事態は深刻であるように思います。