■ハート対ドゥウォーキンの論争
濱真一郎『ハート対ドゥオーキン論争のコンテクスト』成文堂
濱真一郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
ハートとドゥウォーキンの論争について、さまざまな論文を丹念に紹介しながら整理しています。いろいろ学びました。
ハートは論文「承認のルールの不確定性」で、次のような事例を紹介しています。かつて南アフリカでは、通常裁判所が、「立法府の法的な権限(権能competence)と権能(権力power)」についての見解を示しました。すると立法府は、この問題について、異なる見解を示しました。そして立法府は、その見解に基づく法案を通過させました。これに対して、通常裁判所は、その法案を無効であるとして、司法判決によって退けました。さらに通常裁判所は、立法府による「特別上訴裁判所の設置」は無効であると判決しました。最終的には、政府(立法府)が妥協することになるのですが、しかしもし妥協しなければ、立法府は同じような立法を、延々と繰り返し通過させるかもしれません(116)。
あるいは例えば、政府(立法府)は、最高裁判所の判事を変更するとか、その他の手段を使って、司法の権限を弱めようとするかもしれません。こうした可能性がある場合に、法的判断とは、裁量の余地があるものと考えるのか、それとも正しい判決があると考えるのか。ハートは、裁量の余地があると考えました。
ハートは、植民地の法制度を含めて、さまざまな法制度を念頭において、自らの議論を立てていたようですね。するとハートの議論は、法のある一定の発展段階に当てはまるものだ、と解釈できるかもしれません。これに対してドゥウォーキンの議論は、法が成熟した先進諸国における法制度に当てはまる、ということになるでしょうか。
ドゥウォーキンは、超人的な万能の裁判官であるヘラクレスを想定して、法的判断には不確実性はないと考えます。ルール、先例、原理、それらを支えている法体系を一貫させる道徳的・政治的価値、これらを勘案して、裁判官は、正しい判決(一つの正解)を出すことができると考えます(48)。
むろんハートは、裁判官が裁量的な判断をする場合でも、その判断は、たんなる気まぐれや好みではなく、合理的な規準(スタンダード)に根拠づけられる、といいます。しかしハートは、その規準が複数あると考えるか、いずれにせよ判断には幅があって、不確実性が残ると考えるのでしょう(56)。
ハートのいう「裁量」は、「知的な徳」であり、「実践知、聡明さ、賢慮」とほぼ同義であるとされています(58)。そうすると、それは裁判官の人格に宿る「知的な徳」ということになり、それは人によって異なる徳である場合があるでしょう。裁判官の裁量的な判断は、それ以外の人たちの裁量的な判断よりも、知的な徳があり、マシである、ということでしょう。
しかしハートは、遺稿となった「補遺」と呼ばれる論稿で、「司法的裁量」という言葉の意味が、たんなるルールだけでなく、一般的な原理も含んでいることを認めます。ハートは自身の見解を修正し、「法とは何か」という理解において、ドゥウォーキンに近づきます(146)。
ハートのいう「裁量」は、裁判官の判断を記述的に捉えた場合の理解です。これに対してドゥウォーキンのいうヘラクレス的な判断は、裁判官の判断を「規範的」に捉えた場合の理解といえるでしょう。
このように解釈するかぎりでは、両者の主張は両立するように見えます。問題はハートの記述的な理解から、規範的な含意を引き出す場合でしょう。ヘラクレス的な判断は、おそらく一人の一般的な裁判官の有限な知性を越えた能力を要求します。それは裁判官たちの集合知によって、はじめて到達しうる(可能性がある)ものではないでしょうか。
ハートとドゥウォーキンの論争をみると、論点は、一人の裁判官の主観的なレベルで、裁量的な判断を下しているのかどうか、ではなく、ある判決が下される場合に、その判決が、一人の裁判官の「知的な徳」や「賢慮」によって正統化されると考えるのか、それとも、司法システムにおいて、複数の裁判官による集合知的な判断が、一義的な正しさを生み出すると期待できる、その限りにおいて個々の判決を正統化できると考えるのか、このような点にあるのではないかと思いました。
重要な論点は、しかし、事実と規範の区別よりも、むしろ規範的な判断には二つのレベルがある、ということではないか。一つは、法システムを正統化するという関心に照らした場合の「判断」の位置づけであり、もう一つは、個々の法的判断を正当化するという関心に照らした場合の「判断」の位置づけです。それぞれのレベルを分けて検討すべきかもしれません。
以上のようなことを考えました。