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10月, 2021の投稿を表示しています

■民主主義は不可能、されど民主主義を支持する

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  小峯敦編『テキストマイニングから読み解く経済学史』ナカニシヤ出版   斉藤尚さま、ご恵存賜りありがとうございました。   テキストマイニングのアプリケーション・ソフトを用いると、ある本のなかで、あるいはさまざまな媒体のテキストのなかで、どんな言葉が多用されたのか、またどの言葉とどの言葉のあいだの距離が近いのか(関係性が密接なのか)について、データ分析をすることができるのですね。このアプリを用いて、言葉の頻度や関係性の歴史をたどることは、意義がありますね。例えば「豊かさ」という言葉が、いつ頃から使われ、いつ頃から使われなくなったのか。またこの言葉が、他のどんな言葉といっしょに使われていたのか。その変遷について検討してみると、社会の変化が見えてくるでしょう。 今回、ケネス・アローの見解の変化について、テキストマイニングで調べてみたということですが、こうした量的な分析は、結果として、アローの見解の質的の変化を証明することには向いていないようですね。  アローは、自らの社会的選択理論において、民主主義の不可能性を証明したにもかかわらず、その当時から独裁には反対で、社会的選択理論に基づく民主的な決定に、思想的には賛成していました。ということは、民主主義に対する「理論的な否定」と「思想的な肯定」が、同居していたことになります。それがなぜなのかが、まず不可解です。  いずれにせよ、アローはしだいにロールズ流の考え方を思想的に受け入れるようになります。それはアローのなかで、理論的な探究の結果としてそのように変化したのか。こうしたことを検討するには、テキストマイニングには限界があるでしょうが、興味深いテーマであります。

■ポーコックとオークショットの相克

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    岩井淳/竹澤祐丈編『ヨーロッパ複合国家の可能性』ミネルヴァ書房   佐藤一進さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    歴史家のポーコックは、ブリテン人としてのアイデンティティを重視して、イギリスが 1973 年の段階で、ECに加盟しないほうがよかった、と考えたのですね。そしてそのような関心から歴史を叙述し、また「主権」の概念を規定しているのだと。  ポーコックによれば、主権とは、「起源、すなわち、その権威や正統性の淵源と持続を確認し、ならびに、それが自らの結びつけるナラティヴを構成する要素としての重要な出来事や経緯を確認する」という、そういう機能を担っているのですね。  このようなポーコックの観点からすれば、ECのような歴史の厚みのない超国家機関に、国の主権の一部を移譲するということは、ありえないのでしょう。厚みのあるナラティヴを構成できないですからね。  しかしオークショットは、実はこのような歴史叙述の方法には反対で、というのもこのようにアイデンティティのナラティヴという関心から歴史を叙述すると、降霊術のような仕方で過去を見るようになってしまうからだというのですね。 歴史の起源探しは、歴史叙述の方法としては望ましくない。歴史の起源探しは、それ自体が「実践」であり、実践哲学の観点から正当化される必要がある、ということでしょうか。オークショットであれば、ECのような機関を新たに構築して正統化する際に、理論ではなく実践知が重要であるから、それほど理論的に構想する必要はない、というかもしれません。主権の概念を、歴史のナラティヴから解放しつつ、しかし実践知に裏づけられた仕方で確立するためには、何が必要なのか。それが問題であるように思いました。

■表現の自由をめぐる裁判

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    寄川条路編『表現の自由と学問の自由――日本学術会議問題の背景』社会評論社   寄川条路さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   序章の末木文美士(ふみひこ)論文「「学問の自由」は成り立つか」の記述で、はじめて以下のことを知りました。 明治学院大学で起きた「表現の自由」をめぐる裁判(第一審、東京地方裁判所、寄川教授の解雇を無効とする判決、慰謝料の請求は認めず)は、その後、双方が控訴して、東京高裁で裁判の審議が続いていました。しかしその審議の過程で、 2019 年 11 月に和解が成立したのですね。 和解条件は、大学側が無断に講義を録音していたことを謝罪する一方、寄川先生は解決金をもらって退職する、ということだったのですね。寄川先生としては、こうした和解による解決は必ずしも本意ではなかったようですが、事情の詳細については公開されていないということですね。裁判が長引くと、双方にとって不利な結果になる。そのような判断があったのではないかと推測します。  はたして大学における講義内容は、通常の「表現の自由」の範囲を超えて保護されるべきなのか。例えばある会社員が、自社の理念を批判したら、会社にとって不利益な行為をしたという理由で、処分を受ける場合もあるでしょう。「内部告発」としての「表現の自由」については、すでに一定の手続きを経なければ保証されないようになりました。「学問の自由」という理念は、個々の大学の自治の自由として解釈されることがあります。この場合、大学の自治の権利という観点から、大学は、大学の理念に賛同しない教員を解雇することもできるでしょう。  これは私の素人的な推測であり、誤りがたくさんあるのではないかと恐れますが、「表現の自由」「学問の自由」、そして無断で録音されないという「プライバシーの権利」について、私も自分なりの考え方を築いていく必要があります。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

■麻薬を合法化できる理由

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    ヨハン・ハリ『麻薬と人間  100 年の物語』福井昌子訳、作品社   福井昌子様、作品社様、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、ニューヨークタイムズ集計の「年間ベストセラー」で、宣伝によれば、ノーム・チョムスキーは「読み終えるまで、本から手を離すことができなかった」ということです。チョムスキーを唸らせるとは、インパクトありますね。かく言う私も、麻薬に対する見方を変えなければならないと思いました。  「お酒の自由」と「性表現の自由」は、これまでリベラルな陣営が勝ち取ってきた政治的成果です。お酒の自由は、経済的自由主義(リバタリアニズム)によって支持される一方、性表現の自由は、政治的自由主義によって支持されてきました。それぞれ異なる自由主義による支持ですが、広い意味では自由主義による支持です。  そしてまた、「麻薬」や「カジノ」も、経済的自由主義によって支持しうるでしょう。しかしこれに対して、政治的自由主義の立場は、この問題に対してあまり寛容ではなかったように思います。一つには、麻薬やカジノは、人間の自律を奪うようにみえるからでしょう。市民的な判断力を形成するための営みとは言えないからでしょう。  しかし本書を読むと、麻薬やカジノは、政治的自由主義の観点からも、寛容という理念に照らして合法化してよいのではないかと思いました。  まず、麻薬の接種で死ぬ人は、ほとんどいないのですね。麻薬を禁止した場合、その抗争で死ぬ人がいます。つまり、警察が取り締まりを強化すればするほど、死者が出るのであり、反対に、取り締まらなければ死者はほとんど出ない、というわけですね。  それから、麻薬のような陶酔性のあるものは、人間だけでなく、他の動物も摂取していることが分かってきたのですね。人間の場合、麻薬で依存症なる人は 1 割程度で、しかも依存症になる原因は、麻薬そのものというよりも、その人の精神状態にあるようです。例えば、生きる目的が見つからず、内面的な空虚さを抱えると、麻薬に依存してしまうわけですね。ということは、人生の空虚さこそ、社会的に解決しなければならないですね。 麻薬を取り締まると、かえってギャングに資金が流れ、殺人も増える。ならば麻薬を取り締まらないで、内面的な空虚さを抱えている人たちに、自尊心の基盤を提供す

■社会学の突破力を示す記念碑的な論稿

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    大澤真幸『コミュニケーション』弘文堂   大澤真幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    重要な論文集です。とくに、本書の最初に掲載されている論稿「コミュニケーション」は、大澤社会学のまさに最高の果実の一つであると思います。これを読んで私は、これこそ後世に伝えたい、現代の知の贈り物ではないか、という感覚を、ひそかに抱きました。独創的で、しかも知の喜びを与えてくれます。それだけでなく、社会の深層にある重要な、しかしまだ言語化されていない不気味なものを解明することに、考察の力のみで迫っていくことのすばらしさを伝えています。社会学の「突破力」というものを示している、記念碑的な論稿であるように思います。(私はそのように友人に語っています。)  この元になる論稿は、すでに 30 年前に書かれています。その後、ルーマンの理論的発展や、語用論などの新しい知の動きがあり、そうした知の成長に応じて、全面的に書き直しているということで、これはなるほど、 30 年に渡る、熟成された論稿であると思いました。  双子のジェーンとジェニファーは、互いに相手を自分の分身とみなして、コミュニケーションすることができます。しかし二人は、外部の他者とのコミュニケーションができません。何が欠落しているのか。それがコミュニケーションのカギを握る、というわけですね。  それは、二人のあいだで、優位と劣位の関係が、いわば八の字になるようにぐるぐる回っていて、どちらかが超越的な相手として現れることがないということですね。  私たち人間は、超越的な他者を受け入れることができないと、コミュニケーションをうまく成立させることができない。二人は、人形遊びをしたり、小説を書いたり、愛の脅迫状(手紙)を書いたり、放火をしたり、盗みをしたりする。そうした行動を、本論文は、超越性の観点から読み解いています。  コミュニケーションが成り立たないのは、他者を受け入れないことではなく、自分がある他者をそのまま受け入れて、他者の現実を純粋状態のまま生きるという、そういう行動に原因がある。逆に言えば、コミュニケーションというのは、根本的なところで、他者を受け入れない、隠ぺいする様式である、ということですね。それによって社会が成り立つ。  いわば他者が二重化して、自分にとっ

■室町時代の職業仏教論

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    芳澤元『足利将軍と中世仏教』相国寺研究(十)   芳澤元さま、ご恵存賜りありがとうございました。    とくに最後の回を、興味深く拝読しました。日本の中世社会には、寺社の外にも、在俗宗教が溢れるようになる。その担い手として、居士(こじ)、在俗出家者、世間者(せけんじゃ)、という三つの類型を区別できる、というわけですね。  相国寺は、都のど真ん中に坐禅道場を築いたわけですが、それは足利義満が、政治の中心に身を置きつつ、隠遁願望を抱きつつも、宗教とのかかわりをもちたいと考えたからなのですね。  おそらくこれは、義光にとって、自分の精神のニーズに基づくだけでなく、しだいに、現世での職業を通じて仏道を修めたいという、現世内宗教への関心とニーズが高まったことに対する、社会的な対応でもあったでしょう。  これは、ウェーバーが論じる初期のプロテスタンティズムの実践と、パラレルになっていると思います。日本の中世、室町時代には、あまりすぐれた僧侶が生まれず、その意味で仏教は世俗化して衰退したのだ、と言われますが、実際には、日本中世の仏教は、世俗化して弱まったのではなく、世俗の人々の家業を仏道と一体のものとして捉えるという、積極的な存在意義があったわけですね。  もちろんこうした世俗社会のニーズに応じる宗教は、結果としてその精神性を弱めていくこともあったでしょう。室町時代の仏教は、「職業仏道論」を生み出し、世俗社会の宗教化と同時に、経済の活性化をもたらしました。しかし当時の仏教による経済の活性化は、プロテスタンティズムのように、近代化を推進するための原動力にはなりませんでした。ただそれでも、日本における近代化の前史として、改めて職業仏道論を位置づけることは、重要であると思いました。

■広告費はGDPの1.2%。

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    間々田孝夫/藤岡真之/水原俊博/寺島拓幸『新・消費社会論』有斐閣   間々田孝夫さま、藤岡真之さま、水原俊博さま、寺島拓幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。     20 年以上前に書かれた本の「改訂版」ですね。 今回、新たに三名の執筆者が加わり、内容をアップデートしています。この分野の教科書として、網羅的であり、情報が満載です。  消費社会論の一つのテーマとして「広告をどう考えるか」という問題があります。広告に惑わされずに、主体的かつ自律的に商品を選ぶにはどうすればいいのか。そのためには、消費のプロモーションに対して、批判的に捉える思考力と知識を身につけることが、「消費社会論」の一つの重要な任務でもあります。   2019 年の時点で、日本における広告費の総額は、 7 兆円近くにのぼり、これは GDP の 1.2% 程度になる、ということですね (36) 。  平均して 1% 程度ということであれば、広告費というのは、それほど大きくはないように思われます。けれども商品によって広告費は異なり、広告費の割合が高いものもあるでしょう。あるいは広告間の競争が生じた場合に、多額の広告費を投ずることができなかった企業ないし商品は淘汰される、ということも起きるでしょう。消費者としては、こうした広告費の「ムダ」に気づいて、もっと賢く商品を選ぶ消費行動を身につけないといけないでしょう。 そのために必要な対策は、一つには、広告費の公開を法的に義務付けることかもしれません。あるいは、消費者は「広告」よりも「口コミ情報」を頼りにして、つまり、ユーザーたちが自発的に商品を評価するというボランティア的な言説を頼りにして、商品を選ぶことも、対策の一つになるでしょう。さらに言えば、「よい消費社会」とは、企業が広告費をかけずに、広告はすべて、消費者が自発的に担うような社会であるかもしれません。そのようなことを考えてみました。