■社会学の突破力を示す記念碑的な論稿

 




 

大澤真幸『コミュニケーション』弘文堂

 

大澤真幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 重要な論文集です。とくに、本書の最初に掲載されている論稿「コミュニケーション」は、大澤社会学のまさに最高の果実の一つであると思います。これを読んで私は、これこそ後世に伝えたい、現代の知の贈り物ではないか、という感覚を、ひそかに抱きました。独創的で、しかも知の喜びを与えてくれます。それだけでなく、社会の深層にある重要な、しかしまだ言語化されていない不気味なものを解明することに、考察の力のみで迫っていくことのすばらしさを伝えています。社会学の「突破力」というものを示している、記念碑的な論稿であるように思います。(私はそのように友人に語っています。)

 この元になる論稿は、すでに30年前に書かれています。その後、ルーマンの理論的発展や、語用論などの新しい知の動きがあり、そうした知の成長に応じて、全面的に書き直しているということで、これはなるほど、30年に渡る、熟成された論稿であると思いました。

 双子のジェーンとジェニファーは、互いに相手を自分の分身とみなして、コミュニケーションすることができます。しかし二人は、外部の他者とのコミュニケーションができません。何が欠落しているのか。それがコミュニケーションのカギを握る、というわけですね。

 それは、二人のあいだで、優位と劣位の関係が、いわば八の字になるようにぐるぐる回っていて、どちらかが超越的な相手として現れることがないということですね。

 私たち人間は、超越的な他者を受け入れることができないと、コミュニケーションをうまく成立させることができない。二人は、人形遊びをしたり、小説を書いたり、愛の脅迫状(手紙)を書いたり、放火をしたり、盗みをしたりする。そうした行動を、本論文は、超越性の観点から読み解いています。

 コミュニケーションが成り立たないのは、他者を受け入れないことではなく、自分がある他者をそのまま受け入れて、他者の現実を純粋状態のまま生きるという、そういう行動に原因がある。逆に言えば、コミュニケーションというのは、根本的なところで、他者を受け入れない、隠ぺいする様式である、ということですね。それによって社会が成り立つ。

 いわば他者が二重化して、自分にとって受容可能な他者と、隠ぺいされた他者と、二つに分かれる。こうした事情は、語用論の観点からも説明できるというわけですね。

 このように社会のなかで、ある病理的な現象が生じているとして、その現象は、社会の根本的な構造を解明する手掛かりになる。これは、病理的な現象から、たんに「日常的世界の構造」を明らかにするのではなく、社会の根本的な原理を明らかにするところに、魅力があります。そしてまた、そのような解明は、病理的な現象がもつ社会的意味について、再検討を促します。これは重要な社会学的啓蒙だと思います。

 理論的にいえば、逆に発想して、もしある人間が、超越的なものしか受け入れず、神以外の他者とのコミュニケーションができないようになったとすれば、それはやはり、コミュニケーションが成立していないのかどうか。あるいは社会が成立しないのかどうか。そのようなことも考察に値すると思いました。

 


このブログの人気の投稿

■「天」と「神」の違いについて

■自殺願望が生きる願望に反転する

■ウェーバーvs.ラッファール 「プロ倫」をめぐる当時の論争